【 涙の代償 】
◆7CpdS9YYiY




62 No.20 涙の代償 (1/5) ◇7CpdS9YYiY 06/12/09 23:11:22 ID:3ZPC2zfE
 俺の恋人、月島蛍にはある意味致命的な欠陥がある。それは──。

「蛍、そこのペットボトル取って」
「あ、うん。どうぞ」
「サンキュ」
「ご、××××××!」
「え、今なんで謝ったの?」
「そ、その、手、触っちゃったから」
「あのさあ、俺たち恋人同士なんだから、それくらいで謝るのってどうかと思うぞ」
「……××××××」
「いや、だから」
「××××××」
「うん。分かったよ。俺はなにも気にしちゃいないさ」
「××××××……」

 そう、この病的とも言える腰の低さだ。土下座社会の島国根性が生んだ、奇跡の言霊使いなのである。
 なにがそんなに申し訳ないのだろうか。子供の頃にひどい虐待でも受けていたのだろうか、
人類発祥以来の原罪をすべて背負ってでもいるのだろうか、
或いは実は彼女は秘密のサイボーグで、その六文字のシラブルが彼女の心臓を動かすパスコードなのだろうか。
 ……などと意味不明な想像すらしてしまうほどのものなのである。
 どちらにせよ、言ってる本人はそれで気が済むのだろうが、それを毎朝毎晩おはようからおやすみまで、
てゆーかおはようとおやすみの代わりに聞かされる身にもなって欲しい。
ま、それを言ってみたところで蛍はどうせ「××××××」と返してくるのが目に見えてるので口に出すつもりはないが。

 そもそも俺と蛍の出会いからしてそんな感じなのである。
 当時、俺は付き合ってた彼女を交通事故で亡くした。
 通夜から始まって葬式、四十九日までのお決まりのセレモニーを終えて、
気の抜けたように空っぽになった俺の部屋に残る彼女の遺品を整理しているその真っ最中に蛍は現れた。
「××××××」
 開口一番、蛍はそう言った。

63 No.20 涙の代償 (2/5) ◇7CpdS9YYiY 06/12/09 23:11:32 ID:3ZPC2zfE
「……なにが?」
 彼女を失ったショックで少々混乱していたとはいえ、この疑問は極めてもっともなものだと今でも思う。
 なにが悲しくて玄関口に突っ立ってる見ず知らずの女の口から「××××××」を聞かされにゃならんのか。
「あの、お姉ちゃんのことです。私、月島小雪の妹です。……××××××」
 こうして蛍は俺の前に現れ、その日、蛍は二十三回「××××××」を口にした。
 やはりと言うかなんと言うか、去り際の台詞もそれで締めた。
「こんな優しい彼氏がいて、お姉ちゃんも幸せだったと思います。
 ××××××。私の勝手な思い込みですよね。
 ……あの、もしよかったらまた会ってくれませんか。お姉ちゃんのこと、もっと聞きたいです。
 迷惑だったらいいんです。××××××」

 そんな馴れ初めで、俺は蛍と付き合うようになった。
 そして今に至る。
 その二年にも及ぶ付き合いの中で、蛍が何度「××××××」と言ったか、それは分からない。
今までに食べたパンの枚数を数えるようなものである。
 まー、なんつーか、色々神経を使う相手ではあるが、それが蛍の口癖だと割り切ってしまえば、
それは単なる日常の一部になる。例えば朝起きて顔を洗うのは面倒だが、生活とは切り離せない日課なのだから仕方がない。
そんな感じだ。

「そう言や、小雪の命日ってもうすぐだよな」
 ある日の夜、食後に蛍の淹れてくれたお茶を飲みながらテレビを眺めていた俺は、なんの気なしにそう呟いた。
「……うん」
「喪服ってどこにしまったけな。知らないか?」
「……知らない」
 いつになく沈みがちの蛍だったが、常日頃からダウナー型のやつだし、
去年もその前の年も小雪の命日が近づく頃にはどっぷり沈んでいたのを思い出したので、
その暗い声に対して何かを言うことはしなかった。

64 No.20 涙の代償 (3/5) ◇7CpdS9YYiY 06/12/09 23:11:42 ID:3ZPC2zfE
 仕方ないので、俺は消えた喪服のありかを考えながらテレビに視線を戻した。
 しばらくは二人の間に静かな空気が流れていたが、無口低反応の蛍と付き合っていれば時単位の沈黙など苦にもならない。
 しかし、そこで俺の予想を裏切る展開が発生した。
 蛍のほうから沈黙を破ってきたのだ。
「……私、行かないから。お姉ちゃんの三回忌」
 ちょうどドラ焼きを口に入れようとしていた俺の手が止まり、上の皮が床に落ちた。
「なんで」
「お姉ちゃんのこと、嫌いだったから」
 蛍にしては強い言葉を使っている。「しない」とか「嫌い」とか、その類の語彙からは縁の遠いやつだと思っていたのだが。
 しかしそれでも、それは俺にとって聞き捨てのならない言葉だった。
「お前さ、死んだ人間のことまで嫌うことないだろ。それにお前の姉ちゃんじゃねーか」
 蛍はくっ、と小さくうめくが、それでも大きく息を吸って、
「どうしてお姉ちゃんの肩なんか持つの? あの人はもういないの、死んじゃったの、お墓の中なの。
 私よりも死んだお姉ちゃんのほうが大事なの? 生きてるのは私なの。私を見てよ。
 今あなたのそばにいるのは私、私なの」
 なにを言っているかよく分からなかった。
 まるで俺が小雪の思い出を引きずって、蛍をないがしろにしているような口ぶりではないか。
 そうでなければ、俺が小雪の面影を蛍に求めているような。
 だが、だがそんなことはない。決してない。
 初めて蛍と出会ったとき、小雪の妹だとは気がつかなかった。それだけ二人は違う人間なのだ。
 そして俺は、小雪と過ごした日々を吹っ切って蛍と一緒に歩む道を選んだ。
そしてそれを口には出さねど常に態度で示してきた。
 小雪のような明朗さやさっぱりした気性やすぐキレる導火線の短さは無いが、
蛍には線の細い可憐さや優しさや強迫観念的な滲み出る神経質がある。
 俺は蛍が好きなのだ。そこには一点の疑いもない。
 ……それなのに、なぜ?

65 No.20 涙の代償 (4/5) ◇7CpdS9YYiY 06/12/09 23:11:54 ID:3ZPC2zfE
 冷静になるべきだと思った。しかし、俺には出来なかった。
 俺の蛍への気持ちが、蛍自身に裏切られたような気がして──。
「言っていいことと悪いことがあるだろ!」
 俺が怒鳴ると、蛍は見る見るうちに目に涙を溜め、まるで小動物のように身体を小刻みに震わせた。
「──っ」
 そして身を翻して部屋から出て行った。
 取り残された俺は気持ちの落とし所に悩んでしばらく部屋の中をぐるぐる回っていたが、
「ええい、まったくもう!」
 ジャケットを着込むと小脇に蛍のコートを抱え、さっきの蛍の三倍のスピードで部屋から飛び出した。
 あいつにしては珍しくの長広舌だったのに、ただの一度も、時に耳障りとも感じるあの言葉を
一言も発しなかったのに気が付いたからだった。

 蛍は近くの空き地にいた。
 かちかちと歯を鳴らしながら膝を抱えるように地面にへたり込んでいた。
 俺がコートをかけてやっても、蛍はこちらを振り返ることなく、じっと冷たい土を睨んでいた。
 それから三分くらい過ぎただろうか。三十秒かもしれないし三時間かも知れない。どっちでもよかった。待つことには慣れていた。
 俺が声を掛けるのを待っているのかとも思ったが、その小さな背中はそれを力いっぱい拒否しているように見えた。
 ──ようやく蛍が口を開いた。
「──だったの」
「ん?」
「好きだったの、あなたのこと。初めて見たときから。ううん、二年前じゃない。もっと前。
 一度だけ、遠くで見かけたの。あなたがお姉ちゃんとデートしてること。そこから先はもう一直線だった。
 知ってた? お姉ちゃん、家ではあなたのことばかり話してたの。
 それを聞いてるうちに、私もあなたのことをよく知ってるつもりになって、でもそれはやっぱり嘘のことだから、
 本当のあなたを知りたくて、それでお姉ちゃんに『会わせて』って頼んだの」

66 No.20 涙の代償 (5/5) ◇7CpdS9YYiY 06/12/09 23:12:13 ID:3ZPC2zfE
 そこで蛍はやっと俺を見上げた。頬から流れる涙が雫になって顎から落ちていた。
「お姉ちゃん、分かってたんだね。きっぱり断られたわ。考えてみれば当たり前のことなのに、私、馬鹿だったから。
 ……言っちゃったの。『お姉ちゃんなんか死んじゃえ』、って」
 ふと気が付いた。今夜はそれほど寒くない。それでも蛍は歯の根が噛み合っていなかった。
「そ、そそそしたら、おね、お姉ちゃん、次の日に、死、んじゃ、たの。
 じ、事故だって分かってるけど、でも、それでも」
 俺は膝を折って蛍の肩を抱いた。蛍の悪癖の、あの何度も繰り返される言霊の、その意味が今やっと理解できたからだ。
「わ私、ひどっ、ひどい、やつなんだ。お姉ちゃん、死んじゃった、のに、私、そ、あなたと」
 俺は蛍を胸に抱いて、頭を軽く叩いてやった。。
「いいんだよ。小雪のやつ、そんなこと気にするタマじゃない。お前だって、知ってるだろ」
 蛍はそれが信じられぬように俺を見つめ、視線を宙にさまよわせ、口元をわななかせ、
「ご、ごめ、ごめ──」
 そして火がついたように泣き出した。赤子にも負けない勢いで泣きじゃくりながら、うわごとのように繰り返していた。


「××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、
 ××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、
 ××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、
 ××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、
 ××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、
 ××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、
 ××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、
 ××××××、××××××、××××××、××××××、××××××、××××××──」

「大丈夫、大丈夫だ。なにも心配いらない──」
 涙で俺の胸を濡らす蛍の頬を優しく撫でながら、俺は天国の小雪に祈った。
(天国に逝けたのかははなはだ疑問だし、そもそも俺は天国なぞ信じちゃいないが)

 この重荷と涙に釣り合うだけの、両手いっぱいの幸せがこいつの元に訪れますように、と。



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