【 タブーに乾杯を 】
◆GWoAF55M4I




59 No.19 タブーに乾杯を (1/3) ◇GWoAF55M4I 06/12/09 22:15:43 ID:yP2xS2zu
 あの時、制服を着た彼女は俯いて涙を流しながら言った。
「あなたのこと、嫌いになったわけじゃないの。でも、その……」
 俺は呆然と立ち尽くし、ただ彼女の声に耳を傾けるのが精一杯だったが、結局続く言葉が彼女の口から漏れることはなく──。

 ……ソファにもたれていたずらに煙草を吸っていたら、懐かしい記憶が頭をかすめた。煙草を灰皿に押し潰しながら、意図せずため息にも似た笑みがこぼれる。昔の事を思い出すなんて、歳は取りたくないものだ。
「何を笑ってるの?」
 声の方向に顔を向けると、ベッドから上半身を起こした彼女が気だるそうに俺を見ていた。
「起きたのか」
「一人で起きて笑ってるなんて、趣味が悪いわ」
 裸身を隠すためにシーツを胸元まで引き上げながら、言葉とは裏腹に彼女が笑う。俺は眉を片方吊り上げて、肩をすくめてみせる。
「趣味のつもりはないんだけどな」
「じゃあ、性格が悪いんだわ」
「あえて否定はしないよ」
 言って俺は立ち上がると、キッチンからワインとグラスをテーブルへ運んだ。彼女がシーツを体に巻いて、ソファまで移動してくる。
「それで、何がおかしかったわけ?」
「ちょっと昔を思い出しただけさ」
「……女?」
「まあね」
 白いワインを二つのグラスに注いで気安くうなずくと、年甲斐もなく彼女がむくれる。
「面白くないわね」
「面白くないのはこっちさ。十年前に君に振られた時のことなんてな」
 できる限り冗談めかして言ったが、それでも彼女の顔にはわずかに困惑の色が浮いた。
「あの時は……」
「いいんだ、わかってる」
 グラスを彼女のほうに滑らせると、中でワインが踊った。それを見ながら、俺はまた過去を振り返る。
 俺と彼女が交際して三ヶ月も経った頃、彼女の家は崩壊の危難に襲われ始めていた。両親の離婚話なんてありふれた原因は、高校生の彼女にとって耐えられない問題ではなかったが、中学に入ったばかりの妹には厳しすぎる現実だった。
 そんな妹を守るために両親の間に立って離婚の解消を進める役目を背負った彼女に、家族以外の誰かに時間を割くほどの余裕があるわけもない。それだけでさえ、彼女の限界を越えようとしていたのだから。
 そうした事情を抱えて、別れ話はやってきた。
 俯いて説明しながら次第に嗚咽が混じり始めた彼女に、高校生の俺は何もしなかった。優しい言葉の一つもかけられなかったし、彼女を抱きしめて癒してもやれなかった。ひたすら無力を痛感し、馬鹿みたいに突っ立っていた。
 俺にかろうじて出来たのは、最後まで彼女の言葉に耳を澄ますことだけだった。そして、だからこそよく覚えている。彼女があの言葉だけは一度も言わなかったことを……。

60 No.19 タブーに乾杯を (2/3) ◇GWoAF55M4I 06/12/09 22:15:53 ID:yP2xS2zu
 差し出されたグラスを前にいまだ戸惑いの瞳に揺れる彼女の手に、俺はそっとグラスを握らせて、そのまま両手で包み込む。
「そんな顔するなよ。俺はただ、昔も今も君以外の女のことなんか考えてないって言いたかっただけだ」
 優しく微笑んで見つめると、根負けしたのか、彼女が諦めたように笑った。
「いつもそうやって口説いてるの?」
 微笑みながらも、どこか挑発的に俺を睨む。俺は彼女の視線に導かれるように、ゆっくりとテーブルに身を乗り出す。
「俺が気にかける女性は、君だけさ」
「嘘つきね」
 包む両手から彼女の熱が伝わる。彼女も俺に手を握られたまま腰をあげ、その綺麗な首をわずかに傾けた。桃色の薄い唇が、艶めかしく俺を誘っている。
「でも今だけは、嘘じゃない」
 唇は自然と重なった。互いに体液と熱を奪うように、時間を掛けて求め合う。
 ここに確かに彼女がいることを唇で実感しながら、俺は思う。
 突然の再開は、連絡を取ったわけでも、約束をしていたわけでもない。それは本当に偶然でしかなかったが、すぐに今の関係になったのは、少なくとも俺にとって決して偶然ではない。
 十年前、彼女は最後まであの言葉だけは口にしなかった。
 それは二人の交際が過ちであったことを意味するものであり、俺と彼女のどちらか──あるいは両者に、何らかの非があることを認めてしまうものでもあった。「別れよう」よりも「さよなら」よりも、二人を完全に断絶してしまう言葉だった。
 しかし彼女は言わなかった。二人の正しさを残したまま、俺と彼女は別れることができた。いつかまた出会うなんてことは夢にも見なかった。彼女の両親が結局は離婚したように、現実はそこまで甘くないのだとわかっていた。
 それでも、もし何かの偶然で再開したのなら──。
 正しかった二人が正しい関係に戻るのは、必然だった。
 唾液の糸を引きながら唇が離れる。テーブルに身を乗り出したまま、しばらく恍惚とした視線を絡ませた。やがて余韻も消え去った頃、彼女はぽつりと「ありがとう」と、それだけを呟いてソファに座った。手に握られたままだったグラスを、嬉しそうに眺めている。
 俺は彼女から視線を逸らし、聞こえない振りをして腰を下ろした。感謝する理由はあっても、される理由なんかどこにもない。何かを誤魔化すように新しい煙草を取りだし火をつける。
「せっかくのワインが、ぬるくなったな」
「良いワインは温度を選ばないのよ?」
 そう言ってグラスを揺らして香りを楽しむ姿は、なかなか絵になっていた。
「じゃあ、安心して飲むといい」
「そうね……」
 ところが彼女はグラスをじっと見つめて、ワインを味わおうとはしなかった。それどころか、どこか不満そうな顔を上げて俺を睨んだ。
「どうした?」
「ねえ、グラスは二つあるのよ」
「おまえと、俺のぶんだ。それが?」
「どこまで言わせる気? せっかくだから、一緒に飲みたいじゃない」
 頬を膨らませて拗ねる彼女に、そっと笑みをこぼす。大人になった彼女のどこにこの幼さは同居しているのだろうと思うと、その意外性が素直に微笑ましかった。

61 No.19 タブーに乾杯を (3/3) ◇GWoAF55M4I 06/12/09 22:16:06 ID:yP2xS2zu
「そうだな、一緒に飲もう。ちょっと待ってくれ」
 最後の一息を味わってから、吸い始めたばかりの煙草を灰皿に擦りつける。煙草を消しながら、ふと気になることが頭に浮かんだ。
 そういえば彼女は最後の最後に何かを言い淀んだ。結局は飲み込んだそれは、果たしてどんな言葉だったのか。あの言葉だったとしたら、彼女はわかっていたのだろうか。それが二人の関係を崩壊させるものだと、彼女も気がついていたのだろうか。
「なあ……」
「うん?」
「…………いや、やっぱり何でもない」
「何よ、気になるわ」
「いや、どうでもいいことだ」
 そうだ、再開した今となっては実にくだらない瑣末な問題だ。彼女は言わなかった、それだけであの頃の俺には救いだったし、今の俺だって満たされている。
 それに俺はまだ若い自分が惜しい。昔をこれ以上掘り返して、わざわざ歳を取ってやることもないだろう。どうせ放っておいても、学生時代を懐かしむのにふさわしい時期は勝手にやってくるはずだ。
 今はただ余計な事を考えずに、彼女と過ごす時間だけをしっかり楽しめばいい。
 灰皿の中ですっかり沈黙した煙草からグラスに持ちかえる。
「さあ、乾杯しようか」
「何に?」
「そうだな……十年前、君に振られても諦めなかった僕に」
「あなた、やっぱり性格が悪いわ」
「冗談さ。とにかく、乾杯しよう」
「……まあいいか。じゃあ、乾杯」
「乾杯」
 二つのグラスが軽くぶつかって、乾いた音が部屋に心地良く鳴り響いた。
 ワインを味わう彼女を眺めながら、俺は心の中でそっと呟く。
 君と俺との二人の偶然の再開に、
 ──そして、最後まであの言葉を口にしなかった君に。

 乾杯。


<END>



BACK−私は河童である ◆e3C3OJA4Lw  |  INDEXへ  |  NEXT−涙の代償 ◆7CpdS9YYiY