【 棺の奥 】
◆pZKLgkblQY




185 名前:棺の奥 1/5 ◆pZKLgkblQY 投稿日:2006/12/03(日) 22:53:53.15 ID:ApuytYzw0
幾多の警告表示を無視し、薄暗い針葉樹林を抜けると、
はるか先に薄灰色の石棺が見えた。

私は祖国英国を遥か離れ、ウクライナ連邦共和国にいた。
石棺の中の物の嘗ての呼び名はこうだ。
V・I・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所。
1986年4月26日1時23分、4号炉の爆発によって欧州全域に放射能を撒き散らし、
そして半径26km内の街、町、村と共に「埋葬」された発電所だ。
結果として、事故後の対応においての秘密主義が時のソ連書記長ゴルバチョフによる、
グラスノチを初めとした一連のペレストロイカ(改革)を巻き起こした一因と捉えるならば、
チェルノブイリはソビエト連邦をも道連れに滅びたと言えるかもしれない。

一歩一歩足を前に進める毎に、私の背筋に腐敗したナメクジが這い回るようなおぞましさが走った。
この巨大な石棺の中に4号炉を埋葬する為に、少なくとも一万三千の命が失われたと云う。
この時私が立っていた地点は、発電所がようやく目視できる程の距離であるが、
ここですら、今なお膨大な放射線に汚染され民間人の立ち入りは厳禁されている。
とはいえ、禁止せずともこのような場所に進んで足を踏み入れたがる人間が私を除いて存在するとは思えないが。
一人の写真家として、また廃墟愛好者として述べるのならば、
私の大腸に潜む腫瘍が、私の寿命を二週間と明確に区切ってくれたことはむしろ僥倖であろう。
生命に対する諦観が、活動に対する渇望とはなり得るのだ。
鳥の鳴き声がせず、自動車の廃棄音がせず、人の話し声がしない市街地を越え、
私は石棺の真下に立った。
コンクリートの石棺は私の想像以上に劣化が進んでいた。
ウクライナの財政状態は石棺の補修、新造には耐え得ず、世界各国から寄贈された資金は
腐敗した官僚機構によって泡と消え、今なお4号炉を完全に封印する目処は立っていない。
測定値を遥か超える放射線量によって無用の長物と化したガイガーカウンターを投げ捨てると、石棺への入り口を探し始めた。
(当然と言えば当然の事だが)この地には侵入者を防ぐ警備兵の一人もいない。
おざなりに据え付けられた監視カメラが数台あるだけだ。
この中には未だ、膨大な核燃料が放置されているというのに。
監視カメラの死角を縫いながら

186 名前:棺の奥 2/5 ◆pZKLgkblQY 投稿日:2006/12/03(日) 22:54:25.35 ID:ApuytYzw0
石棺の表面に私がくぐり抜けられるだけの裂け目を見つけるのは安易な事業だった。
私の入り口の他にも様々な隙間があるらしい。
それらから流れこんだ雨水によって石棺の中には湿った空気がこもっている。
石棺の中には豆電球ひとつ無い。私は懐中電灯を取り出しスイッチを入れた。
この闇に懐中電灯の灯り一つというのはどうにも心許なかったが4号炉の内までの道を照らすには十分だった。
むしろ心配はマグネシウムフラッシュの光量が写真の撮影に足りるかということだ。

石棺内部から4号炉本体までの間、つまり「中間地点」には、
石棺のものだろうか、4号炉のものだろうか、
乱雑に砕けたコンクリート片があちらこちらに散乱していた。
5本目のフィルムを消費し、コンクリートに三度目に蹴躓いた時、
灯りが照らすものが砂利だらけの地面から無機質な壁に変わった。
4号炉にたどり着いたのだ。
何度目ともしれない吐き気がまた起こった。この吐き気が放射線障害によるものなのか、
私自身の生理的嫌悪感によるものなのかはわからない。
今になってわかるのは、この身体による拒絶に従っておくべきだったということだ。
私は愚かにも(勇敢とは言い得ないだろう) 4号炉の中に侵入した。
4号炉は石棺そのものよりさらに破壊が激しかった。
私が踏み入ったのは元は作業員の休憩所だったらしい部屋だ。破壊されたロッカー、
混乱と破壊を象徴する、おそらくは飲みかけで打ち捨てられたであろうコーヒーメーカー。
何もかもがチェルノブイリの最適の証人だった。
私は何度目かのフラッシュを焚いた。
部屋全体が一瞬だけ光を取り戻す。
その時
私の精神に、これまでの悪寒や吐き気とは全くに異質のおぞましい何かが走った。

 柱の影に 視線の焦点の外に 視界の右端に なにかがいなかったか?
その時私はこの部屋に入ってから感じていた違和感の本質に気づいた。
におい。浜に打ち上げられた蛸の様な臭いがその部屋にはずっと立ちこめていたのだ!
ああ、そしてそのにおいはまだ私の鼻にも!

187 名前:棺の奥 3/5 ◆pZKLgkblQY 投稿日:2006/12/03(日) 22:54:57.62 ID:ApuytYzw0
私はその方向にライトの光を向けることすら出来なかった。
今のものが見間違いで、今の臭いは化学物質か何かによるものであったら!
だが私の願いは分厚いコンクリートに遮られ、天にまします主には届かなかった。
音が!濡れたモップを引きずるような、あの呪わしいべちゃりとした音が動いた。
視界の右端から、私の後ろへと。
私は腰に潜ませていた拳銃に手を掛けた。
音は少しずつ、少しずつ私に近づいてきた。
手にした拳銃は私にほんの微か平静を返してくれた。
私はカメラを首に掛けると、右手に拳銃、左手にライトをもって意を決して振り返った。
ああ!ああ!あの時振り返らずにいたならば!そのまま拳銃で自らの頭を打ち抜いていたならば!
光が照らした『それ』は、冒涜的な唸り声を上げると、
紫色の粘液を撒き散らしながらその名状し難い形状をした触手で私に襲い掛かってきた。
私はとっさに身を交わしたが、触手から飛び散った粘液がカメラに付着すると、
カメラはむせ返る様な湯気を発し腐食してしまった。
撮影が徒労となった事を悲しむ暇も『それ』は与えてくれなかった。
それは足元、いや下部にある何十本ものヒレの様な器官を蠢かしてこちらににじり寄って来た。
私は失神しそうになる脳に最後の発奮をかけ銃の引き金を引いた。
『それ』の触手の付け根に弾丸は当たった。
摺りガラスを引掻いた様な悲鳴をあげ、傷口から薄茶色の腐汁を垂れ流す。
それでも尚『それ』は触手を振り回しながら私に迫ってくる。
私は粘液に当たらないように後ずらりながら、二発、三発と引き金を引いた。
しかし、動きながら、そして恐怖で手が震えるせいもあって弾丸は当たらない。
だんだんと『それ』は速度を上げる。
私は悲鳴をあげ、マガジンの中の最後の一発を打ち込んだ。
弾丸は『それ』の中心線にあたる部位に当たった(中心線と呼べるものか!『それ』は対称性などかけらも持ち合わせては!)
『それ』は私の眼前で呪いめいた低い音を発すると、べちゃりと糸が切れた様に崩れ落ちた。
私はマガジンを取り替えると、必死でもと来た道から帰ろうと周囲を照らした。

しかし私は見てしまった。まるでカタツムリの通った後の様に、
『それ』の粘液は『それ』が来た先へと続いていた。

188 名前:棺の奥 4/5 ◆pZKLgkblQY 投稿日:2006/12/03(日) 22:55:29.37 ID:ApuytYzw0
私の好奇心は恐怖に勝ってしまった。
私は発狂しそうになる自我と戦いながらその道を辿っていった。
浜に打ち上げられた蛸の様な臭いは先に進む度に強まっていく。
粘液の道は炉心の方向へと続いていた。
そして私は見てしまった。かつて「炉心があった場所」
そこにグポリと空いた遥か深遠への大穴。
ああ!ああ!その奥にあるものどもを私は書き記す事が出来ない!
もしそれを為そうとするなれば、私はそれを成し遂げる前に狂い死んでしまうだろう!

私はもはやカメラにも何にも見向きもせずに逃げ去った。
追ってくる足音は幻聴か?妄想か?事実なのか?
私は今、石棺から5km程離れた地点にある、見捨てられた民家で震えながらこれを書いている。
ああ、あの棺の奥に開かれた扉よ!
世界が立ち入りを禁じ、
世界が見放した、
あの呪われた棺のはるか奥で、
我々人類が知らぬ間に、
果たして何ものどもが蠢いているのか?
何ものどもが育ちつつあるのか?
あの呪われた空気を吸い、
呪われた水を飲み、
呪われた土の上に歩く、
光無きものどもが!
あのものどもは今も我々を見ている!
あの大穴の奥から!ああ!ああ!
ああ、『やつら』が追ってくる、私を!
ああ、あの臭いが、あの音が近づいてくる!
これが幻覚であると信仰できたなら!これが私の狂気と診断されるなら!
ああ!!窓に!窓に!わた
(以降は文章の体を為していない)

189 名前:棺の奥 5/5 ◆pZKLgkblQY 投稿日:2006/12/03(日) 22:56:01.85 ID:ApuytYzw0
手記の表紙に記された日付の5年後、
ウクライナ当局は、チェルノブイリ立ち入り禁止区内の廃棄された民家の中で
イギリス人写真家の遺体を発見した。
遺体は腐食、損害が激しく死因の判別は困難だが、
死体の手に握られた拳銃等から、自殺の可能性が高いと見られている。
回収された手記は非公表との判断が下されたが、
ある鑑識化職員の手により一部がインターネット上にアップロードされた。
その内容により、様々なインターネットコミュニティ上でその真贋を巡る流行となったが、
結局はすぐに忘れ去られてしまった。
現在も尚、チェルノブイリの石棺は老朽化を続けており、
石棺の補修、石棺に変わるあらたな封印施設の建造、そのいずれの目処も立ってはいない。



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