【 密室恋人事件 】
◆7CpdS9YYiY




27 名前:密室恋人事件(1/7) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/03(日) 14:12:37.83 ID:BaVqQ/Ey0
 義堂奈津子に相談を持ちかけてはいけない。なぜなら彼女は『世界の果て』だからだ。
 彼女の人間性は世間の常識や一般論的態度から完全に乖離しており、『平凡』の柵の輪から最も遠いところにいる。
それはまるで一人だけ世界の崖っぷちに立ち尽くしているようなものである。
 そんな彼女に何がしかのアドバイスを求めたら最後、その崖の向こう側へ容赦なく放り投げられるのは確実である。
キャッチャー・イン・ザ・ライなど望むべくもない。

 ただし、彼女に弱点がないわけではない。
 彼女の行動を長期的に捉えた場合、ある一点に関して奇妙な符合が見受けられるのだ。
 それは、ある種の呪いとも思える一つの言葉で表現できる。
 『義堂奈津子は食卓から遠い』。
 因果関係は不明だが、彼女が食卓に着こうとすると大抵邪魔が入る。それも電話が鳴るとかいう類の生半なものではない。
食事が続行不可能になるような取り返しのつかない事態が勃発するのである。
 まるで世界中のテーブルから嫌われているかのように、
私たちが安息の食卓に付くのとほとんど同じ頻度で彼女は食卓から撥ね付けられている。
 もっとも、この弱点をどう生かせば彼女より優位に立てるのか、それは私には分からないが。

 私は、義堂奈津子という存在の超常性を読者諸兄に示すため、ここにある一つのエピソードを紹介しようと思う。
 義堂奈津子のような『世界の果て』と敵対した場合、具体的にどう対処すればいいのか、そのメソッド確立の一助となれば幸いである。

28 名前:密室恋人事件(2/7) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/03(日) 14:13:13.27 ID:BaVqQ/Ey0
 それは、夜も更けて時計の短針が天頂を越えようとしているときのことだった。
 俺は婚約者とホテルのレストランで食事を終えた後、バーラウンジでグラスを傾けていた。
 彼女は明日も仕事があることをほめのかして早く帰りたがっていたが、
俺はそれを執拗に引き止めていた。大切な話があったからだ。
「……君との結婚を、延期したい」
 やっとのことでそう告げた俺は、苦々しい思いを流し込むように手元のハイボールを乾した。
「どうして?」
 意外と彼女は冷静だった。それに勇気付けられて、俺は先を続ける。
「妹が、妊娠した」
「え、でも妹さん、確か……」
「そう、あいつは引きこもりだ。この三年、家から一歩も外に出ていない。
 靴は埃を被ったままだし、部屋には鍵が掛けられたままだ」
「じゃ、誰とどうやって」
「分からない。妹も口を閉ざしている。病院にも行こうとしない。きっとその男を庇っているんだ。
 母も心配している。母子家庭だから、余計に心配なんだろう。
 だから俺がその男を、妹の恋人を探し出す」
「探し出して、どうするのよ?」
「……あいつは人見知りが激しいやつだ。君にも心を開いていないのは、分かってるだろう?
 そんな妹が好きになった相手だ。出来ることなら、妹の望みどおりにさせてやりたい」
 そしてしばらく、俺たちは黙ったままそれぞれのグラスを見つめていた。
隣の客のひそひそ話が、聞くとはなしに聞こえてきた。向こうは向こうでなにか揉めているようだった。

29 名前:密室恋人事件(3/7) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/03(日) 14:13:43.69 ID:BaVqQ/Ey0
 そのときだった。
「なーにを馬鹿なこと言ってるのかしら。天使なんているわけないでしょう? んん?」
 声の主は、隣の席に座る見知らぬ女だった。連れの男は驚いたようにその女を見つめている。
 そいつはにやにやと口の端を歪ませるアルカイック・スマイルを顔に貼り付け、手にしたグラスを掲げてみせた。
「聞きかじっただけでも話は明白だわぁ。犯人はあんたよ、お兄さん」


「ちょ、ちょっと先生。いきなりなに言ってるんですか。失礼ですよ」
 私は今度こそ本気で呆れながら、彼女の肩を引いた。
 隣のカップルの話に聞き耳を立てつつ、「ふん、密室恋人ってわけか」とかなんとかぶつぶつ言ってるうちは
私も小声で諌めるだけだったが、ここまで非常識な行動に出られたら私も強い態度に出ざるを得ない。
「先生、やめてください。なにが犯人ですか。なんでもかんでも犯人にしないでください。西尾維新の読みすぎです」
「うっさい馬鹿。君になにが分かるってゆーの? 私はね、ただ物事をすっきりさせたいだけよ。
 天使なんかいないの、すべては、血と肉のある人間の仕業なのよ」
 どうしても意味不明なことしか言わない女である。
 それはそれとしてさて、この場からどうやって逃げ出そうか真剣に考え始めた私だったが、
「待ってください。それは、どういう意味ですか?」
 件の兄君が口を挟んできた。(先に口を挟んだのは彼女なのだが)

31 名前:密室恋人事件(4/7) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/03(日) 14:14:21.35 ID:BaVqQ/Ey0
「意味? 意味に意味なんかないわよ。意味は意味で意味なのよ」
 その気持ち悪くなるようなトートロジーはやめてほしかったが、兄君はそれを意に介さぬだけの賢明さはあるようだった。
「いえ、俺が犯人だと、言いましたよね。それって」
「え? ああ、言葉通りよ。……そこの未来のお姉ちゃん」
 と、兄君の(おそらく)婚約者を指差す。
「はっきり言いなさいよ。あなたはこう思ってる。『それって、想像妊娠じゃないの?』と」
 婚約者女史ははっと息を呑み、震えるように首を縦に振った。
「部屋から一歩も出ない女が、この世に対して篭城戦を仕掛けている女が、妊娠なんてできるわけがない。
 いい? 間男とか目を盗んで出かけるとか、そういうチャチな方法論なんかこの際問題にもならないの。
 あたしには分かるわ。その妹ちゃんは、自分の殻から一歩も出ていない。戦況図は現状維持で不変のままよ。
 しかし、さて、妹ちゃんの世界に元からいた男ってのは、どこのどいつだろうね?」
 彼女が偉そうに長広舌を振るっている間、私はなんとか彼女を表に引きずり出そうと奮闘していたのだが、
最後の言葉を聞いて力が緩んだ。俺の悪い癖が鎌首をもたげたのだ。つまり彼女を助長させる質問癖だ。
「先生……えーと、要するにこういうことですか? 妹さんの想い人はお兄さんだ、と」
「イグザクトリー!」
 彼女は満面の笑みを浮かべてビシッとVサインを決めてきた。そうすることになんの意味があるのか、私は知らない。
「そんな……馬鹿な……あれが、想像妊娠だって?」
 兄君は青ざめながら呟いている。グラスを握る手が、ほとんど白くなっていた。
 そんな兄君を馬鹿にするように、彼女は実にあっけらかんとした声音で言い放った。
「おいおいおい。なにを寝言言ってるのよお兄ちゃん。想像妊娠だってあたしが言ったかい?」

32 名前:密室恋人事件(5/7) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/03(日) 14:15:02.48 ID:BaVqQ/Ey0
 これにはさすがの私も間抜けな声を上げてしまった。
「はあ? 先生こそなにを言ってるんですか? 今、自分でそういう方向に話を流したんじゃないですか」
 彼女は心底可哀想なものを見るような目で、私を見た。そんな目でこっち見ないでほしい。
「ど、どういうことですか。妹は、妹はいったい?」
 兄君は混乱の極みにあるようで、すがりつくように彼女へ詰め寄っている。
 その必死を軽く受け流し、彼女は兄君の耳元にささやいた。
「あなたは正常な人間だわ。あたしが請け負ってもいい。
 ここまでヒントを与えているのに、なにも思い当たらないのがいい証拠よ。
 でもね、そんな普遍や不偏が通用しない場所がるの。それを知ったら、決して後戻りできない。
 それでも知りたい? この世の実相を、世界の真実を。
 『世界の果て』を……見たい?」
 兄君は婚約者女史を見、私を見、そして彼女を見た。その視線は揺るぎなく、彼女の瞳を貫いていた。
 やれやれと首を振った彼女は、いつもそうしているように、人差し指を立てて……講義を始めた。

「この場合、問題になるのは──『立入禁止』ね。
 この世に絶対の密室なんか存在しない。シューレディンガーの小箱にさえ、確率の雲が忍び込んでくる。
 あたしたちが普段密室だと思っているのは、まやかし──観念の作り上げた『立入禁止』なのよ。
 誰が彼女を犯したか? というクエスチョンに即物的に応える可能性は、あまりにも多すぎる。
 通りすがりの押し込み強姦魔って説も決して否定できない。 
 では、アプローチを変えてみましょうか。観念的に、文脈的に。
 妹ちゃんは引きこもっていた。そして同時に兄を思っていた。
 そんな彼女の閉ざされた『立入禁止』をキャンセル出来るのは誰か?」

33 名前:密室恋人事件(6/7) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/03(日) 14:15:44.38 ID:BaVqQ/Ey0
「嘘よ!」
 そう叫んだのは婚約者女史だった。
「嘘なもんか。ただ、あんたの考えは浅い。浅すぎる。
 どうせ、『お兄ちゃんが妹を犯した』だとか、そういう愚にもつかない想像してんでしょ?
 それじゃダメよ。まるでダメ。あんたは頭が悪すぎる。
 こういう問題を考えるときに要求されるのは、ね──知的勇気なのよ?
 立入禁止の向こう側にあえて踏み込むような、ありえない可能性にこそ意味を見出すような。
 そうでなければ、『世界の果て』を見る甲斐がないわ。
 本題に戻りましょうか。立入禁止を最も効率よくキャンセル出来るのは、その札を立てた本人よ」
 ここで彼女は一度言葉を切った。そして両腕を大きく広げ、最後の結論に備える。
「妹ちゃんは、兄貴の寝込みを襲い、交わっていた。
 当のお兄ちゃんが気がついていないことから演繹するに、計画的かつ常習的に。
 『誰が彼女を孕ませたか?』という問いには、二項の解がある。妹と、兄と。
 文脈的に言えば、妹でフェイタルアンサーなんだけどね。……さて、質問は?」
 誰もなにも言わなかった。
 彼女はにっこりと笑い、片腕を折りたたみながら優雅に礼をした。


「あの二人、どうなるんでしょうね?」
 夜道を歩きながら、私はぽつりと言葉を漏らした。
 とっくに終電は過ぎているが、タクシーは嫌だと駄々をこねる彼女に従って、二人して静まり返った国道を歩いている。
「二人って、どの二人?」
「どのって……」
「カップリングは大事だよ、そう思わない?」
「また訳の分からないことを……」

34 名前:密室恋人事件(7/7) ◆7CpdS9YYiY 投稿日:2006/12/03(日) 14:16:24.05 ID:BaVqQ/Ey0
 ため息をつこうとするが、うまくいかなかった。どうやらため息はバーで吐き尽くしてしまったらしい。
「ま、私なら妹フラグが立つことに賭けるけどね。秋雄君は?」
「一家離散、婚約破棄という可能性は考えないんですか?」
 どうにもやるせない気持ちになって、ため息が出た。チャージが終わったらしい。

 これが彼女のスタイルだ。
 論理よりも印象を重んじ、瑣末よりも総体を重んじる。彼女は俯瞰する人間なのだ。常人が彼女に勝てない理由がそこにある。
 傍目には破綻してるとしか思えない論理で、確実に物事の急所を突いてくる。
 隣に座るカップルの婚約延期話をここまで発展させるような真似は、彼女の他には誰も出来ない。
 彼女はなにかを超越した視点によって、論理という地を這う私たちには見えないものを見ている。
それはまるでこの世界を見下ろす天使のように。
 故に彼女は『世界の果て』であり、義堂奈津子のスタイルを前にしては、私たちの拙い論理は敗北するしかないのだ。

「あのねえ秋雄くん、それだけは絶対にないわ。断言してもいい。
 胸の悪くなる話だけどね、世界は愛に満ちているのよ?」


 私が語るエピソードは以上である。
 論理と倫理が欠如しており、人の物話に割り込み、立入禁止を踏み越え、食卓からは遠い。
 これこそが義堂奈津子という存在の一面であるということを理解していただけたと信じて、ここで筆を置く。

(episode closed)

「あ、そうだ。この先に確かラーメン屋さんがあったのよ。食べない?」
「無理です」
「どして」
「この先で、年末恒例の予算消化道路工事があります。立入禁止ですよ」



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