【 魔界荘 】
◆ybxPR5QFps




595 名前:魔界荘(1/6) ◆ybxPR5QFps 投稿日:2006/12/02(土) 22:27:57.04 ID:xVDJRLtK0
「お客さん、お目が高い。こちらの物件はとってもお得でございますよ」
 一部のスキもなく七三に分けられた頭髪をテカらせて、チョビヒゲの不動産屋の男は歯を見せて笑った。
 秋風も爽やかな昼下がりの住宅街を、二人連れ立って歩く。
 香良洲啓一(からすけいいち)はとなりからの口臭が届かぬ一定の距離を保って歩くよう心がけた。
「こちらでございます。ガス電気タダで家賃は5万。礼金敷金は、少々相場よりはいただきますが、これは家賃が安いためでして……まあご勘弁ください」
 不動産屋に案内されて着いたのは一件のボロアパート。いや、ボロというより単に古びているだけか。そこかしこに雨あとのシミが黒ずみを作っている他、これといって問題は見当たらない。
 敷金礼金共に三月分。これは相場と比べると確かに高い。しかしこのバカげた安さの家賃と、光熱費がタダという特典は他の物件ではまずありえないだろう。
 だが大抵の場合、敷金はいいとしても礼金が高いというのはあまりいいことではない。それは幽霊が出たり、騒音や公害がひどかったりと、人がいつかないような理由があるからだ。
 啓一は入り口の札を見て眉をしかめた。
「魔界荘……」
 不動産屋は落ちた柿にしわが寄ったような笑顔を浮かべた。
「ええ、ええ。変わった名前でしょう。ま、そんなことより中をご覧ください」
 案内されたのは二階の奥、四部屋並ぶうちの三つ目の部屋だった。少なくとも二階の他の部屋には表札がかかっていなかった。
 ドアの前に立つと、あたかも何か動物の檻を前にしたような、臭気とは別の異様な気配が漂ってきて、それは啓一の不安を煽った。
 そして何より、気になるのはとなりの部屋。最奥の角部屋のドアの異質さだった。それはたった今中を覗こうとしているこの部屋の不気味さとは別の、もっと直接的な異様が存在を誇示していたのだ。
「あの……こっちの部屋は?」
「ああ、その部屋はですね、見ての通り立入禁止になっておりまして。まあ、これは念を押すまでもないことなんですが……その部屋には決して入ってはいけませんよ。鍵はかかってはいませんが、とにかくよく注意してください」
 『立入禁止』と錆色のドアにかすれた朱文字で大きく書かれている。その周りを、さらに立入禁止を示す黄色いテープが縦横にのたくっていた。
 その一部ははがれて、まるで蛇の頭のように鎌首をこちらに向けているのだった。
「はあ……分りました」
「それでは、こちらの部屋の中をご確認ください」
 不動産屋がドアを開けて中へ入る。啓一も四角く暗い穴の中へその身を沈ませた。
 背後でドアが閉まる寸前、隣の”あの部屋”がガチャリと不気味な音を立てた気がした。
 部屋は思ったよりまともだった。特にカビの類が我慢できない啓一は、部屋の壁のどこにも黒いシミが見当たらないことを確認して胸をなで下ろした。
 以前カビの胞子のせいでぜんそくにかかったことがあったからだ。
「どうでしょう? 何かお気に召さない点がございましたら、遠慮なくおっしゃってください」
「いえ……いや、いい部屋ですよ。驚いたな」

596 名前:魔界荘(2/6) ◆ybxPR5QFps 投稿日:2006/12/02(土) 22:28:56.88 ID:xVDJRLtK0
「そうですか! それはよかった」
 これまでこの部屋を借りた人間も、こんな反応をしたのだろうか。不動産屋が快活な声で頷くと、さっそく契約の運びとなった。
 部屋を出ると、またあの部屋が目に入った。ただそこにあるだけで、目を奪われずにはいられない存在感があるのだ。
 背を向けた啓一は、階段を降りるまで誰かの視線を感じていた。
 事務所に戻った二人は無事に契約を済ませ、いよいよあの部屋での暮らしが始まる。
 少々の不気味さは、世間一般の家賃の相場から考えても目を瞑るべき程度であったし、なにより足を棒にして探した啓一は、ここで諦めるつもりはなかった。
 
 何日か経ったある日。
 七三分けに暗い影を落とす一人の男がアパートのドアの前に立っていた。
 あの不動産屋である。
「香良洲さん、もしもし香良洲さん」
 ドアをノックしても返事はない。男は躊躇なくドアノブに手をかけた。ドアはあっさりと開いた。
 部屋には引越しのダンボールが山と積まれ、その大半は手つかずで置かれている。
 男は部屋の中央に備え付けのテレビがあることを知っていた。それは啓一が入居する以前から置かれていたのである。
「兄さん……兄さん……」
 テレビに向って低くささやいた瞬間、”それ”は目を覚ました。
 耳障りなノイズと白黒の砂嵐の奥で、ぬらりと湿った大きな人間の目が二つと、どろりとした紫の唇が画面には映っていた。
「弟か……」
 ノイズにまみれたかすれ声。男はこの部屋の借主について聞いた。
「兄さん、やはりあの男はもう?」
「ああ食べた。今頃は俺の腹の中だ。くくっ、馬鹿なやつだ、人間ってのは。入るなと言われると入ろうとする。おかげで俺様も食事に困ることはない」
 男も目を糸のように細めて言う。
「ふひっ、本当に。兄さんは分らないかもしれないですが、わたしゃ人間の金を集めるのが一番の楽しみなんですよ。おかげで私も儲けさせてもらってます」
「ふん、理解できんな。俺は美味いメシが食えればそれでいい……」
「ええ、ええ。そりゃあもう」
 腰を折り曲げて顔にしわを寄せる弟を見て、テレビは不快そうな声をあげた。

597 名前:魔界荘(3/4) ◆ybxPR5QFps 投稿日:2006/12/02(土) 22:30:02.98 ID:xVDJRLtK0
「おい、そのヘコヘコした態度をやめろ! まったく……お前は少し人間に毒されすぎじゃあないのか? その笑顔もむかつく」
 男は顔に張り付いた笑顔を、仮面をはがすように脱ぎ捨てた。現れたのは冷徹な無表情。これがこそが本性であった。
「おっといけない。兄さんの言う通りだ。これだから人間というやつは……でも兄さん、顔の方は元からですよ」
「くっくっく……」
 テレビは血がしたたるようなくぐもった笑い声を響かせた。
 足の先からか、それとも頭からか。啓一が兄の腹の中で溶けていく様子を想像していた男は、あごを指の先でせわしげになでていた。しかし突然苦しみ出した兄の様子に気付いて慌ててテレビを両手で掴んだ。
「ぐっ……なんだ? 腹が痛い……ぐおおおっ、痛い……ぐあああっ!」
「に、兄さん!?」
「あいつだ! あの人間だ! ぐおおおおおっ!」
 男は奥歯を強く噛み、すぐさま背を向けて走り出した。

「どれが効くか分らないが……この化物がくたばってくれることを祈るしかないか」
 片手に収まる程度の薬ビン。すでに空になった何本かが周囲に散乱している。
 ニコチン、塩素、水酸化ナトリウム。どれも比較的手に入り易い劇薬で、特に純化されたものは生物に対して極めて強い毒性を有する。
 このぶよぶよとピンク色にてらつく肉の壁は、さっそく焼けるような音を立てて穴を空け始めた。
 数年探してやっと見つけたこのアパート。魔界荘という名はすでに知っていた。
 友人が消息を絶つ直前に送って寄越した一通のメール。そこにはとても信じられない、正気を疑うような内容が記されていた。
 しかし友人の失踪は冗談では済まされない真実味を帯びていたのだ。最初は友人を見つけて問いただしてやろうと思っていた。
 だがその行方はようとして捕まらず、月日が経つにつれて脳裏に浮かぶのはあのメールの内容だった。
 そして見つけたこの部屋は、まさにその内容通りの化物だった。
 履いてきた耐酸性の靴のおかげで、まだなんとか溶かされずにいる。
 時折したたる胃液のような汚物は避けなければならなかったが、どうやらこの部屋の主はじわじわと相手を苦しめて、その苦悶を楽しむ性癖でもあったようだ。すぐに溶かされることはないだろう。
 最後の一本をリュックサックから取り出したとき、入り口のドアが勢いよく開けられた。
「お前……許さん! ブッ殺してやる!」
 殺意に歪んだ表情はくさったような灰紫色で、顔じゅうに青白い血管を浮き立たせた、あの不動産屋の男だった。もちろん人間ではないだろう。
「ようやく来たか、マヌケな管理人。友人のかたきめ!」
 襲ってくるその体に向けて、啓一は薬ビンを一振りした。

598 名前:魔界荘(4/4) ◆ybxPR5QFps 投稿日:2006/12/02(土) 22:30:34.64 ID:xVDJRLtK0
 男は驚異的な反射神経を駆使してその体を捻り、薬液の直撃をまぬがれる。
 飛び散った薬液は肉の壁に付着し、新しい穴をいくつも穿った。
 もう足元の黒い穴は床じゅうにひろがり、そこかしこからぶすぶすと煙をあげている。
「ぐぶぶ……人間、お前は俺には勝てん。兄さんの体をよくもやってくれたが……まさかそんなちっぽけな薬一つで、俺を倒せると思い上がってるんじゃないだろうな?」
 その言葉には耳を貸さず、視線を動かさないように周囲の状況を観察する。部屋全体がぶるぶると震えだしている。心なしか壁が狭まってきているような気がした。
 啓一は残りの半分ごと、薬ビンを不動産屋に投げつけた。
「ばかが! そんなもの当たらないと何度言ったら――」
 しかしその時すでに啓一は身をひるがえして出口へと向っていた。男が入ってきた時、ドアは開け放たれたままだった。
「遅い! 間に合うと思うのか!」
 啓一の体があとほんの数センチで外に出るというところで背中に指がかかり、背後の邪悪が笑みを強烈に浮かべて勝利の笑い声をあげようとして――。
 部屋がぎゅるっと縮んだ。
 それはまるで胃袋が急な刺激に驚いてその入り口を締め付けるような生物的な反応だった。
 血管の浮き出た肉壁に体を締め付けられて、不動産屋は声にならない悲鳴を上げた。
 立入禁止のドアからはいまや肉の塊がぶよぶよと外に溢れるかのような様相を呈していた。その中央に一本の手首だけが、獲物を求めて突き出ていた。
 啓一は素早く自分の部屋に駆け込んで、新聞紙にライターで火を付ける。
 あらかじめ油の染み込ませてあったそれは勢いよく燃え出す。そして迷いのない動作で部屋へ投げ入れた。
 部屋の奥のテレビから耳障りなノイズが聞こえていたが、啓一は一度も振り返らずにアパートを飛び出した。
 部屋に積んであったダンボールの中身は衣類などではない。大量の発火性燃料に火が付くと同時に、アパートは炎に包まれた。
「………」
 啓一は苦しいような泣き出しそうな顔をして、しばらくその紅い炎を瞳に映していた。
 
 その場所はただの空き地で、そこにアパートがあったことを知っている者はいない。後に近所の住人が、黒焦げで寄り添うように横たわる、二匹の猫を発見する。
 一匹の猫はまるまると太っていて、もう一匹はひょろりと痩せていたという。



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