【 懲戒バット 】
◆mTsmZDGOUQ




358 名前:懲戒バット(1/6) ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/11/26(日) 23:48:33.07 ID:ajMCZZM10
「懲戒じゃ! 懲戒免職じゃ!!」
 数人の男が、老人を取り押さえた。
 老人、いや、我が社の社長の本間一雄は、完全に錯乱していた。
 手にしたステッキを四方八方に振り回し、集まってきた専務やら副社長やらをめった打ちにしていた。そこに、理性は感じられない。
 でもその目は、怒りに充ち満ちて――とても澄んでいた。

「社長! 気をお静めください!」
「やかましい。この会社は儂の物じゃ。絶対に誰にも渡さんぞ!」

 突然、社長が噎せ始めた。痰が絡んで、不快な音がした。
 かつて、その辣腕で会社を一人で育て上げてきた男も、老には勝てないという訳か。
 社長はまだ喚き続けている。何度も、何度も。
 みっともない。社長はどうやら自分の座右の銘すらお忘れのようだ。
 ならば仕方がない。俺が思い出させてやるまでだ。

 俺はゆっくりと、襟を正し、わざと大きくらしく咳払いをした。
 社長も、慌てふためく幹部達も、俺の咳払いに動きを止めた。

359 名前:懲戒バット(2/6) ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/11/26(日) 23:49:45.09 ID:ajMCZZM10
「なんじゃ、きて……いたのか?」
 社長、いや、もうすでにただの隠居か?
 隠居はゆっくりと、震えるような声で吐き捨てるように呟いた。

「この、恩盗人めがッ!」

 隠居はゆっくりと、胸元から強心剤を取り出し、飲み込んだ。
 そのまま頽れるように社長席に倒れ込む。息はまだ荒い。
「貴様を育ててやったのは誰だと思っている」
 俺は隠居の悪態を鼻であしらった。
「お前が孤児となったとき、引き取ってやった恩を忘れたわけではあるまい!」
 老人はまた噎せる。もう長くはないだろう。
 俺は老黄忠から目をそらした。老顔には深い皺が刻まれていた。時折全身が痙攣しては、苦しそうに深呼吸を繰り返していた。気管支が悪いのだろうか、呼吸音にヒューヒューというノイズが混じっていた。
「お義父さん、安静にしていてください。そうでなくても、お体の調子は芳しくありますまい」
 老い先短い老社長は、俺を苦虫を噛み潰したような顔で睨み付けた。
 身体が未だ壮健ならば、今すぐにでも俺にバットでも手にして殴りかかってきそうな形相だった。
 しかし顔はゆっくりと弛緩し、嘲笑するような笑みになった。
「貴様はあのときに、クビにしておくべきだったよ」
 本間産業創始者、本間肇は、そのまま息を引き取った。

 ついに、俺は勝ち取ったのだ。俺の死んだ親父の念願であった、社長の座を!
 次期社長は、この、俺だ。

361 名前:懲戒バット(3/6) ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/11/26(日) 23:51:35.67 ID:ajMCZZM10
「ハァイ、カット!!」
 メガホンからの叫声で、俺は我に返った。
 ゆっくりと周りを見渡せば、さきほどまで噎せ返していた老人は、ピンピンして腕をぐるぐる回し、専務として創業者の死に直面し慌てふためいていた、七三わけの男はすぐさま髪の毛を手櫛で解かし、大仰に溜息をついていた。
 老人の元に、数人の――同級生が駆けつけた。

「先生! 凄いですよ! 迫真の演技です!」
「あはは、そうかな?」
「すげーよ先生。あんた野球部辞めて演劇部の顧問になったら?」
 すぐさま大道具係によって、セットが撤去されていく。
 そう、これは文化祭の出し物なのだ。俺達のクラスの2−Aは、映画を撮影することになっていた。

タイトルは、『懲戒免職』。

俺はそのタイトルに、良いようもない不穏な気配を感じたが、何故かクラスの一部が狂信者的な興奮を示し、そのまま採用の運びとなったのだ。
 まったく、こういうときのよく分からない団結力が、高校生という奴なのだろうな。ただ先生が、廊下で誰かと口論してるのだけが気がかりだ。
ときに俺は、クールな奴だよな、と言われるがそのつもりは皆無だ。
ちゃんと体温は36.3度あるし、眼鏡だって掛けてないぞ。
だがどういう訳か俺は、映画の主人公に選ばれてしまった。
 ちょっと憂鬱に鳴りつつも、映画の主役という大役に少しばかりの興奮を隠せずには居られない俺だった。

362 名前:懲戒バット(4/6) ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/11/26(日) 23:52:41.37 ID:ajMCZZM10
 俺は普段、女子とは滅多に口を利かない。
 口を利く必要がないからだ。
 よく友人からは、お前もっと喋ればもてるのに、とかお節介な忠言があるが、正しくこれこそ余計なお世話だ。
 それに女子との会話はどことなく疲れる。
 俺の性格上、どうしても身構えてしまうからだ。クラスなんかで、異常に女子とばかりおしゃべりしたがる奴がいるが、俺にはどう頑張ってもその正確は理解できそうにない。
 だが、冴子だけは別だった。こいつとは、幼馴染みでもある。
「誠ちゃん、何ぼおっとしてんの?」
「へ? あ、いや、なんでも」
 俺は急いで顔を伏せ、向かい合うようにしてくっつけられた机の上に広げられた台本に目をやった。
 そうじゃないと……俺の顔が赤いのがばれちまうからな。
「でさあ、私は誠ちゃんの台詞、もっと多くてもいいと思うんだよね」
「どうしてさ。悠平や純の方が演技上手なんだから、あいつらに割り振れよ」
「でも、誠ちゃん主役だし」
「俺演技下手だしなあ。お客さんには、純の饒舌さの方がうけるんじゃないか?」
 消え入りそうな声で、冴子は呟いた。
「私は……、誠ちゃんの演技が――見たくて――」
 俺は聞こえないふりをして、台本を手に取った。
 冴子も、何事もなかったかのように、台本を手にした。でも顔は真っ赤だった。
「おい冴子。顔、赤いぞ? 洗面台で顔洗ってきたらどうだ?」
 冴子はふふっ、と微笑んだ。だめだ、俺はこの笑顔が――。

「誠ちゃんも、顔、真っ赤だね」

 ――俺は、顔が熱くなるのを感じた。

364 名前:懲戒バット(5/7) ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/11/26(日) 23:54:06.89 ID:ajMCZZM10
 すでに窓の外は真っ暗だった。
「うおッ、これはまずいんじゃないか?」
 すぐさま時計を読む。2−Aの掛け時計は五分遅れているから現時刻はつまり。
「もう、八時だね。最終下校時刻、大幅オーバーッ!」
 いつでもハイテンションな冴子を尻目に、俺は少々焦燥を感じた。
「冴子だって、俺らの先生のカタブツさ知ってるだろ?」
「知らない奴は、もぐりだよ」
「内の学校にスパイがいるとは思えないけどな。とにかく先生に見つかるとまずい。さっさと片づけて下校しちまおう」
「賛成ー!」
 話が決まれば俺達の手際は素晴らしく早かった。
 おそらく男女ペアで俺達ほど息が合っている奴は居ないに違いない。
 本当に、俺と冴子なら、会社だって経営できそうだった。
 そこに、悠平や純も加えて、クラスみんなで幹部会議。
「楽しそうだ。本当に」
「え、何が?」
「なんでも、ねぇよ」
 冴子は小首をかしげ、俺の鞄をとってきてくれた。
 女子中学生しては冴子の身長は、一六五センチと高めだった。
 俺より、ちょいと背が低いだけだ。
 俺は冴子の肩越しに見た物に、絶句した。
 瞳孔が全開になった。全身が、痙攣したように震え出す。
「どうしたの?」
「――逃げるぞ」
「え?」
「逃げるぞ冴子ォッ!!」
 俺は冴子の手を引いて、廊下を全速力で疾走した。背後に、漆黒のシルエットを残して。

365 名前:懲戒バット(6/7) ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/11/26(日) 23:55:19.50 ID:ajMCZZM10
「ハァッ! ハァッ! ……なんだよ、アレ」
「ど、どうしたの誠ちゃん。突然」
 俺は目にした物は、基本的に信じる主義だ。
 逆に自分が目にした物以外、つまり伝聞や噂、そして得体の知れない占いの類は信じない。
 でもあれはなんだ! 俺がついさっき、冴子の肩越しに目撃してしまったアレは!

 足音が聞こえる。

「静かに!」
 俺は、冴子の口を押さえた。唇が当たり、その柔らかさが手に伝わった。
 唇は、ほんの少し湿っていた。

 俺達の隠れる、男子トイレを、その足音はゆっくりと降りすぎていった。
 心臓が早鐘のように警鐘を鳴らした。多種の脳内物質が流れているのを体感する。
 ぷはぁ、という声と同時に、冴子が口を開いた。
「ねぇ、何がどうなってんの? 先生なら、大人しく自首した方が」
 ああ、冴子は何も気付いていない。
 俺だってできればそうしたかった。でも、駄目だ。あの人はもう、かつてのあの人じゃない。

 幸い、あっちはまだ、俺達に気が付いていないようだった。
 静かに、静かに俺達は、校舎を後にした。

 何かを叫ぶ声がして、悲鳴が聞こえた気がした。
 俺は頑張って、聞こえないふりをしていた。
 手に握りしめた台本は、汗でぐちゃぐちゃになっていた。

367 名前:懲戒バット(7/7) ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/11/26(日) 23:58:02.10 ID:ajMCZZM10
 翌日、朝のニュースには先生の名前が踊っていた。
 母さんは、嘘……とつぶやき、親父は物騒だな、と嘆いていたが、俺だけは全て知っていた。

 あのとき先生は、間違いなく同僚と諍いを興していたんだ。
 先生のあの目、冴子の肩越しに立っていた、先生の、澄んだ瞳。
 相手の頭を手にしたバットで殴ることだけを考えた、瞳。

 きっとあのあと、手にした金属バットを四方八方に振り回し、憎き新卒教師をめった打ちにしていたんだろう。
 二人の間に何があったのかは、俺達には分からない。
 でも一つだけ分かる。あのとき、あの映画撮影の時、先生が口論していた相手は、こいつだったんだ。

 ひょっとしたら、あの撮影の時、殺意は固まっていたのかも知れない。

 憂鬱な気持ちで冴子と登校していたとき、俺は一つのことに気付いた。
 そう俺には校舎を後にするときに、声が聞こえた気がしていた。
 アレは、先生の声だった。間違いない。
 先生は、確かにこういっていた。

「懲戒だ! 懲戒免職だ!!」

 しわがれた声で、噎せ返しながら。
 野球部のバットで相手を殴り追い掛けながら、何度も、何度も。
 
 映画『懲戒免職』は、即刻撮影中止になった。



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