【 少しばかりの愛をこめて 】
◆2LnoVeLzqY
337 名前:少しばかりの愛をこめて 1/6 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/26(日) 23:35:12.86 ID:yl0EDgVY0
夜の闇に沈んだ住宅街が後ろへ流れてゆく。
もつれそうな足をなんとか前に押し出してひたすらに走る。
後ろは振り返らない。いくつもの街灯の下を、ただ前だけを見て駆け抜ける。
ちくしょう、ちくしょう、俺が何を――
「俺が何をしたって言うんだ、とでも言うつもりですか?」
ひどく落ち着いた、中性的な声。
「あなたが何をしたか、なんて、あなた自身が一番よく知っているはずです」
これが後ろからの声だということを、俺は知っている。
そしてこれが誰の声かということも、俺は知っている。
「それでもなお『俺が何をしたんだ』などと言うなんて、それは少しばかり、傲慢すぎるというものです」
聞くな、無視するんだ、俺。
今はただ、走ることに集中しろ。
今はただ、逃げることに集中しろ。
今はただ、後ろを走るあの蜘蛛から、逃げきることだけに集中しろ。
しゃべる蜘蛛に出会った。嘘じゃないんだ、信じてくれ。
そのオスの蜘蛛は小さな体で、「ひとつだけ願いを叶える」と俺に向かって言った。
だが俺の願いは、諸事情あって――理由は聞くな――叶わなかった。
そのことに落胆して床に手をついた俺は、その拍子に、あろうことかこの蜘蛛を潰してしまったのだ。
これだけなら、ただの間抜けな男が蜘蛛を潰した、というだけの話だ。
事実、俺自身は蜘蛛を潰してしまったことを、残念とは思わなかった。
願いが叶えられないならば、ただの蜘蛛だからだ。
無残な姿の蜘蛛の亡骸を、俺はティッシュに包んでゴミ箱へと捨てた。
それからお目当ての岬の魔女っ娘物語のアニメを見た後で、俺は二階の自室へと戻ったのだ。
だが自室には、客がいた。
――化け物じみた大きさの、真っ黒な蜘蛛が。
俺が家から逃げ出すのに、理由はもういらないだろう?
339 名前:少しばかりの愛をこめて 2/6 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/26(日) 23:35:53.32 ID:yl0EDgVY0
会社帰りらしきサラリーマンが前方から歩いてきた。
そして、息を切らして走っている俺を見て怪訝な顔をする。
そう、走っている俺を見て、だ。
――他人からは俺の後ろの蜘蛛は見えない。
家を飛び出したときに隣に住むおばさんとぶつかりそうになって、そのときに気が付いたことだ。
すでに無視を決め込む表情に変わったサラリーマンの横を、無言で駆け抜ける。
その瞬間にちらりと後ろを振り向いてみる。
八本の足を非常識な速さで動かして、俺の十メートルほど後ろを蜘蛛は走っていた。
この距離はさっきから、縮まっても離れてもいない。
あの蜘蛛の限界なのかもしれないし、わざと距離をおいて追いかけているのかもしれない。
そんなことをふと考えてしまった途端、押さえ込んでいた感情が頭を駆け巡った。
どうしてこんなことに。もう嫌だ。もう嫌なんだ。
誰にも見えない蜘蛛に、俺だけが追いかけられるなんて。
――これが、夢だったらいいのに。
そう思っていた矢先に、疲れのせいか足がもつれ、俺はつまづいた。
アスファルトに膝を打ったその痛みは、これが夢じゃないと語っていた。
慌てて起き上がったときにはもう、蜘蛛は俺のすぐ傍にいた。
「あなたを殺しはしません。反省を、してもらうだけです」
街灯の下、やけに冷静な蜘蛛の口調が余計に俺を焦らせる。
ジーンズの、上着のパーカーの、ポケットを探る。
――何か、何か、逃げる術はないのか
ふと、指に小さな痛みが走る。パーカーのポケットを探っていたときだった。
痛みのもとをポケットから取り出す。果物ナイフ。
玄関を目指して居間を横切ったとき、武器になるかもと思ってテーブルの上からとっさに手にとった、果物ナイフ。
悩んでる時間はない。
果物ナイフを握り、蜘蛛に突きつける。街灯に照らされたナイフがきらりと光る。
ほんの数メートル、蜘蛛は後ずさった。
俺はくるりと振り向いて、また走り出した。
340 名前:少しばかりの愛をこめて 3/6 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/26(日) 23:36:52.76 ID:yl0EDgVY0
T字路を右に折れる。
数十メートル先には比較的大きな通りが見えていて、そこを目指して俺は走る。
曲がるときに後ろを見やったが、蜘蛛はやはり一定の距離を保ったままついてくる。
俺の願いを叶えると言った小さな蜘蛛は、神様から力を授かったと言っていた。
後ろを走るあの蜘蛛も、神様からの力のおかげで大きな体になったのだろうか。
それに、俺がバテて走れなくなるのは時間の問題。握ったままの果物ナイフは、それでも心強いとは言い難い。
追いつかれた時とどうするかなんて、考えてられない。
様々なことが頭に浮かんだまま、俺は通りに飛び出した。
右に曲がるか左に曲がるか。悩んでられない、右だ。
通りの様子をろくに確認せぬまま、左右に走る通りを右に曲がる。
曲がったところでふと、手前から走ってくる黄色い車が俺の目に入った――タクシーだ。
手を上げてアピール。タクシーのブレーキランプが燈る。
最後の力を振り絞ってダッシュ。ドアの開いたタクシーに乗り込み、自動のドアを自ら閉める。
窓の外を見る。歩道の上では、蜘蛛がタクシーの中の俺を、ただ見ているだけだ。
俺の、勝ちだ。口から漏れるため息は、安堵のそれだ。
「お客さんどこまで行きま……って、おおおおお客さん?!」
運転手がミラー越しに驚いた顔をしている。
まさか蜘蛛が見えているのか? と思うが、運転手は俺自身を見ている。
一体俺に何が……あ、ああ。
俺の手には、果物ナイフ。
「ち、ちょっと、これには訳が」
俺の言葉を最後まで聞かずにタクシーから飛び出す運転手。
そして運転手は、そのまま向こうのコンビニまで走っていく。
警察を呼ぶつもりなのだろうか……ナイフを持った男が息を切らしながら乗り込んできたら、確かに驚くよなあ。
追いかけて理由を説明し――理由、そうだ、蜘蛛だ。
ふと見れば運転席のドアは開きっぱなし。そして蜘蛛は……そのドアの、すぐそばにいた。
俺は慌ててタクシーから飛び出した。
341 名前:少しばかりの愛をこめて 4/6 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/26(日) 23:38:08.90 ID:yl0EDgVY0
それから、来た道を全力疾走。残された場所は、自分の家しかない。
街灯の下をいくつも通り過ぎ、もつれる足を無理やり前に押し出し、住宅街を抜けて自分の家に戻る。
玄関を急いで閉めて、カギをかけ、階段を駆け上がり自分の部屋のドアを開く。
床には、何もいない。机の上にも、何もいない。
ほっと胸をなでおろす。何も解決していないが、ひとまずは安心なのだ。
足がひどく疲れている。そりゃあそうだ。ひとまずは、休みたい。
そしてベッドの上へ、仰向けにごろりと寝転んだ俺は――
部屋の天井いっぱいにへばり付いている、おびただしい数の蜘蛛を見た。
「何をやったか、自分でわかっているでしょう」
「あなたは、我々の同朋を殺しました」
天井の小さな蜘蛛たちが口々に言う。
逃げる気力も起きない。いや、足が動かない。疲れのせいか、蜘蛛の力なのか。
一匹の蜘蛛が天井から糸を伝って降りてきて、俺の耳元で言う。
「ですからあなたには、反省してもらいます」
「待ってくれ。偶然だったんだよ。潰すつもりなんかまったくなかったんだ!」
「それは詭弁です。偶然であろうとなかろうと、第三者が観測する限りにおいて、結果は同じことです」
「カミサマから力もらってるんだろ? 偶然だってことぐらいわかるんじゃないのか!?」
「我々がもらったのは、願いをひとつだけ叶える力と、人間の言葉を理解する力のみ」
「じゃぁ……」
「我々から見れば、あなたは悪人です。そのあなたを、いわば懲らしめるために、我々は、神様ではなく我々自身の判断で動いています」
「な、なあ、あの蜘蛛は、俺が助けなけりゃ排水溝に流れて死ぬはずだったんだよ! だから」
「だから、何ですか? 俺が助けたんだから俺が殺してもいい、とでも、あなたは言うのですか?」
342 名前:少しばかりの愛をこめて 5/6 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/26(日) 23:39:31.49 ID:yl0EDgVY0
天井の蜘蛛たちの目線が一斉に俺に向けられた気がした。
このままでは、何をされるかわかったものじゃない。
だが有効な反論なんか見つからない。
たまたま蜘蛛を潰しただけで、こんなことになるなんて。蜘蛛を……。
と、そのときだ。俺の頭に、ある考えが浮かんだ。
「願いだ、そうだ願いだ! まだ俺の願いは、叶えてもらってないんだよ!」
「願い、というと?」
「俺はあの死んじまった蜘蛛に願いをひとつ叶えてもらえるはずだったんだ! でもまだ何も叶えてもらってない。そのぶんを今、俺は使う!」
天井の蜘蛛たちが、ざわめく。
「この期に及んで浅ましい人です。聞くだけ聞きましょうか」
「……俺が潰したあの蜘蛛を、生き返らせてくれ!」
これが、最後の望みだ。
蜘蛛たちが納得し、俺の身も無事のまま。最善手のつもりだ。
天井の蜘蛛たちが、いっそうざわめく。
「……残念ですが」
「なっ」
「不可能なことは、叶えられません」
「そんな……」
最後の手段が、尽きた、かに思えた。
「ですが、その心意気は立派なものです。ひとつ願いを叶える権利を我々の同朋のために使おうとしてくれたその心意気に免じて、今回は見逃してあげます」
「……本当か? なら俺は、何もされないってことか」
343 名前:少しばかりの愛をこめて 6/6 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/26(日) 23:40:38.33 ID:yl0EDgVY0
助かった。助かったんだ。
今日のできごとが思い返されて、思わず涙がこぼれる。
さっきから俺の傍にいた小さな蜘蛛が、耳元で囁く。
「そういえばあなた、人間と交わりたいと、我々の同朋に言ったそうですね。神様から聞きました」
えっと、それが、何か?
「今回限りと思ってください。亡くなった同胞の代わりに、私が願いを叶えましょう」
蜘蛛たちが、一匹を残して一斉に去ってゆく。
俺の横にいた小さな蜘蛛が、みるみるうちに人間に姿を変えてゆく。
ああ、神様、ありがとう!
今日は散々な日だったが、最後の最後で……。
「失礼ですが……性別、は?」
「……オスですが、何か?」
神様、ちょっと、大事なこと、伝え忘れて、俺は、メスとだけ、あ、あ、アッー。
蜘蛛に願いを◆kCS9SYmUOU氏(33回品評会:蜘蛛)に最大限の感謝と謝罪を。