【 断罪の先に祝福を 】
◆dx10HbTEQg




248 名前:断罪の先に祝福を(1/6) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/11/26(日) 22:28:27.57 ID:YT4MH6CS0
 膨れた鞄を担いで駆ける男を、ネーアは剣を携えて待ち構えた。禍々しい、罪の気配だ。
 その鞄には、人を殺して奪った宝石が詰まっていた。罪を犯してまで物に執着する男の醜さに、彼女は顔を歪めた。
(――殺す)
 心を。立ち直れなくなるほどに、切り裂いてやろう。罪を犯す者など許さない。主のもたらす平和を、かき乱す愚か者など。
 人間にとって、ネーアは不可視の存在だった。彼女の姿に気付くことなく、一直線にやって来る。相手は雑魚だが、彼女は警戒を怠ら
なかった。問題は邪魔が入るか否かだ。
「トリスティ!」
 案の定聞こえた、ばさりという羽音に彼女は叫んだ。大きな翼で満月を背負い、トリスティはすばやく滑降してくる。逆行で表情は判別
し難いが、また彼女の獲物を横取りしようとしているに違いなかった。
(先を越されてなるものか!)
 男に向かって、跳ぶ。足で地を蹴り飛ばし、風に身を任せる。右手の剣を振りかざし、心の臓へ――!
 しかし、辿りつく一瞬前に剣は弾かれた。ネーアの物よりも一回りほど大きな、トリスティの剣だ。
 根性で剣は手放さなかったが、じんじんと痺れるように痛む。悔しいほどの歴然とした力の差。
「そこをどけ謀反者! お前の出る幕はない!」
 それでも気丈さだけは失わず、ネーアは叫ぶ。使命は遂行せねばならないのだ。
 男は二人の体をすり抜け、駆け抜けていく。トリスティが遮る道の向こう側へと。
 ネーアから逃げられはしない。罪の気配は依然として男に纏われている。だが、トリスティも彼女と同じ能力を持っていた。
「傲慢だよ、ネーア。人は人の手で裁断されるべきだ。俺達は……」
 背を向ける彼に、剣を振りかざす。しかし痺れる手は思い通りにはならない。
 焦燥のままに飛ぼうとしたが間に合わず、トリスティは男に追いつき――その剣を軽く振り降ろした。
 

 断ち切られた月光が細身の刀身に反射し、ネーアの顔を照らした。
 背に掲げられた、一対の翼が音を立てる。天使と呼ばれうる様相を持つ彼女は、しかし慈愛溢れた表情とは程遠い目つきで空を
睨みつけていた。
 主の意志を遂げるもの。天罰を実行する彼女達は、自らを“天の御使い”と称した。

249 名前:断罪の先に祝福を(2/6) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/11/26(日) 22:28:48.72 ID:YT4MH6CS0
「くそっ」
 足元には、一人の男が横たわっている。死んでいるわけではなく、気絶しているだけだ。外傷は全くない。おそらく手緩い断罪を
された時にでも躓いたのだろう。馬鹿な男だ。
 男の大きな鞄から、光り輝く宝石が大量に零れ落ちていた。すぐに他の人間に見つかり、然るべき処置がなされるだろう。
 天罰は既に下された。一度下されたそれを変えることは出来ない。
「……トリスティ」
 ネーアは忌々しげに臍を噛んだ。人間のことなど、どうでもいい。彼女の頭を占めるのは、獲物を横取りした挙句に逃げ去った元
同僚の事。
 どんな罪人でさえも許してしまうという寛容さで免職された彼は、迷惑なことに今も尚、自分の担当していた地区に居座る。
 八つ当たりで男を蹴るが、足はすり抜けて空気をかき切る。御使いが人間に物理的な介入をすることはできない。そのことが更に
ネーアを苛立たせる。
 ため息をつきながらチャキリと剣を鞘に収めた。人に関与する唯一の手段は、最近ほとんど使われることがない。
 本来ならばその剣で以って、罪を犯した者を断罪するのだ。斬られた傷は外傷としては現れないが、使い方次第では精神を崩壊
させることさえも出来る。精神の崩壊は、すなわち死を意味した。
 彼女にとっての問題は、同じ者を同じ罪で裁断を下せないということだ。トリスティによって断ぜられた強盗は、もはやネーアには
どうすることもできない。
 なぜ、離反した。なぜ、邪魔をする。なぜ、逃げる。疑問は尽きず、投げかける相手は既に目前には居らず。
「次は逃がさない。逃がすものか、絶対に……」
 罪が起これば、奴もまた現れる。
 翼を大きく広げて、ネーアは空へと羽ばたいた。


 もわっとした空気に眉間に皺を寄せて、ネーアは小さく呻いた。仕事のない時には、大抵ここに来る。御使い達の拠点の一つで、
時間つぶしと連絡に使われる場所だ。
 犯罪が少ないのか、それともサボっている者が多いのか。どちらにせよ、暇人が多いのは確かだ。
 隙間を縫うように真っ直ぐ目的地に向かう。憂鬱だが上司の呼び出しを無視するわけにはいかない。大仰な扉をノックし、入る。

250 名前:断罪の先に祝福を(3/6) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/11/26(日) 22:29:12.41 ID:YT4MH6CS0
「ああ、ネーア。また失敗したんだってな。いつからそんな役立たずになったんだ」
「ヘラ様! わ、私は!」
 歯に衣着せぬ物言いに、思わず叫びそうになる。だが、ヘラの眼光に気が萎えた。
 言い訳出来るものならしてみろと言わんばかりの視線に、挫けそうになりつつも気を張って答える。
「私ではありません。前任者が、その……勝手に」
「懲戒された御使いが、堕ちずに仕事を続ける? 誰が信じるっていうの、そんな戯言」
 何度目とも知れぬ回答を鼻で笑われ、二の句が告げなくなる。そんなことを言われても、事実なのだ。
 行き場をなくした御使いが堕天せずにいるなどという事は、その目で見たネーアにさえ信じられなかった。そもそも彼は主の意志に
逆らったために追放されたのだ。その存在が悪以外の何者かであるはずがない。
 堕ちた者が罪を奨励こそすれど、間違っても断ずることはない。
「全く、お前は本当に極端だな。以前はやりすぎ、今度は甘すぎ。何がしたいんだ」
 天の御使いは、人間の土地を分割し、担当する地域で犯された罪を断罪する。元々ネーアは別の地区を担当していた。しかし、や
りすぎ――つまり、容赦のなさ過ぎる天罰の下し方に、謹慎処分を命ぜられていたのだ。
 そして、復帰後のやり方はまるでトリスティのようだと言われるほどに甘かった。実際、行っているのは彼なのだが、他の者は信じない。
「次に失敗したら……分かるな?」
 更なる反論は許されず、部屋を追い出される。前科ある立場は弱すぎた。
 ――次は、ない。
 邪魔をされるのも、そのせいで処分されるのも、ましてや堕ちるのもごめんだった。


 この感覚にだけは慣れない。罪が発生する気配は、神経を焦がすような痛みを持つ。
 不快感を押さえつけ、ネーアは飛んだ。赤い夕焼けを背に、雲を抜け、羽ばたく鳥を越えて。
 世界はなんて美しいのだろう。それに比べて、人はなんて醜いのだろう。
 汚い町並みを見据えながら、彼女は呪う。貧民街の人間が罪を犯す確立は酷く高い。
「なぜこの世界を汚す。なぜ人は罪を犯すんだ!」

251 名前:断罪の先に祝福を(4/6) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/11/26(日) 22:29:30.03 ID:YT4MH6CS0
「そんなに、人が嫌いか? ネーア」
 は、と我に返ると前にトリスティが居た。思考に没頭する余り、気付かなかったらしい。
 また邪魔をするのか、と忌々しげに睨み付ける。扉の前で立ちふさがる彼に対峙する。
「皆、理由がある」
「何が」
「罪を犯す理由だよ、ネーア。人の問題は人が解決すべきなんだ」
 ちりちりと神経が痛む。時間がない。
 罪が犯されると分かっていながらも止められない。御使いは、正しき者に関与することは敵わないのだ。
 だからせめて、すばやく断罪したいのに。
「ふざけるな。人に任せていられはしない。私が、この手で殺してやる」
「人間が滅びるまで繰り返すつもりか? 何も解決はしないとは思わないのか?」
「我らは天の御使いだ! 主の意志は絶対。罪を犯す者など――」

 おぎゃああああ!

 唐突に訪れた泣き声に、びくりとネーアは身をすくませた。聞こえるのは、トリスティが塞ぐ扉の向こうから。
「退けトリスティ!」
 思いのほか簡単に彼は道を開いた。いぶかしむ間も惜しく、彼女は扉をすり抜ける。
 目前に広がるのは、幸せな光景だった。薄暗い部屋の中、微笑む産婆と、若い一人の女。そして泣き喚いて存在を主張する、赤子。 
「死んでしまえばいいと、思うか?」
「何が……」
 横に立ったトリスティが囁く。死んでしまえと思うのか? この光景を壊したいと思うのか?
 どういうことだろう。ネーアが見てきた罪は、いつだって不幸で血なまぐさく、醜かった。
 何かの間違いかと混乱するが、罪の気配は確かに赤子を包んでいた。
「姦通によって生まれた命だ。……存在自体が、罪だよ。この子は何もしていないのに。なあ、ネーア。それでも、神の意志に沿っ
て断罪するのかい?」

252 名前:断罪の先に祝福を(5/6) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/11/26(日) 22:29:49.89 ID:YT4MH6CS0
 絶句するネーアに、トリスティは言い募った。
 今までこのような時にはどう対処していたかと、思考を巡らす。しかし、思い当たる場面はない。姦通した時点でネーアにとっては
万死に値する罪で、子供が生まれるはずがなかったからだ。
 前任者は誰だ、と憤る。この女を見逃したのは――。
「お前か。お前だったな、前任者は! なぜこの淫乱を許した。なぜ!」
 御使いの役割を免職されたトリスティは、ネーアの詰問にも動じずに微笑む。
「人が嫌いか、ネーア」
「当たり前だ……。人がいなければ、世界は美しい」
「だが、人だって世界の一部だ。主の創り給うた、美しい世界の」
 主でも人でもない御使いが、なぜ個々の判断で断罪するのか。
 彼の疑問が、ネーアを打つ。自分自身の存在に初めて抱く疑念は、彼女を蝕んだ。間違っているのは誰だ?
 幸せを主の意志通りに崩壊させるのが正しいのか、それとも。
「ああ、そうだ。勘違いしているようだけど、俺は許してなんかない」
「今更、何を」
「許すのも罰するのも、人間自身の役目だってことさ」
 だから、トリスティは人間に介入しない。罪の気配をまとわせるなどという、主の驕りによるものだけを払い、後の処置は全て人に任せる。
 そのせいで首になったけれどね、と彼は笑った。
 ネーアは彼が堕天しない理由が分かった気がした。結局のところ、トリスティは誰よりも人間を想っていたのだ。堕ちるはずがない。
「罪を背負って生きていくんだ、この子は。でも……幸せになれればいい。そうは思わないか?」

 動かないネーアに変わって、彼は鞘から剣を抜いた。きらりと薄暗い電灯が反射し、彼女の顔を照らす。
 薄くその切っ先を赤子の手のひらに滑らせ、御使いの、人でない存在による断罪は終わった。変わらず幸福な光景は存続しており、
罪の気配は完全に絶ち消えた。

253 名前:断罪の先に祝福を(6/6) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/11/26(日) 22:30:26.00 ID:YT4MH6CS0
 全てが終わるまで、彼女は何もすることが出来なかった。トリスティを肯定することも、否定することさえも。
「……私も、首か」
「え?」
 目を瞬かせる彼に、ネーアは説明した。トリスティの妨害のせいで、彼女はもう天の御使いに所属することは叶わない。
 拠点に行ったところで、ヘラに冷たく免職を言い渡されるだけだろう。どうにか誤魔化したとしても、次にきちんと使命を遂行できる
自信はなかった。確固としていたはずの信念と人への憎悪は、彼の言葉によって揺らいでいる。
「あー……それは、ごめん」
 能天気に頭を掻く彼に殺意を感じながら、ネーアはため息をついた。この男は彼女を諭すだけ諭し、その後のことは全く考えていな
かったらしい。
 堕ちるつもりはない。しかし、これからどうするべきか。
 悩むネーアに、トリスティは手を差し出した。
「で、どうするんだ? 行く先はないんだろ。よかったら俺と一緒に」
「勘違いするな。……まだお前を肯定したわけではない」
 ――答えを探そう。
 世界を見よう。人を、全てを見よう。
 決意を固める彼女は、生まれたばかりの子供を見た。
 この赤子は、おそらく幸せなばかりではない人生を送るだろう。無邪気に笑って母親の腕に抱かれるその子に、ネーアは微笑んだ。



終わる



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