【 悪魔の懲戒 】
◆DzHpA/9hyM




231 名前:悪魔の懲戒(1/8) ◆DzHpA/9hyM 投稿日:2006/11/26(日) 22:21:01.27 ID:ISy/nfFm0
 携帯電話にメールが届いた。夫、健児からだ。
 このメールが届くと、もうすぐ家に着くよ、の合図。だから私はその間に、ディナーの仕上げを
するわけ。私はエプロンを着けてキッチンへと向かった。
 今日は、健児の好きなハンバーグ。ただのハンバーグじゃなくて、自家製の、秘伝ソースをかけ
る。それが健児の大好物。週に一回は食べたがるんだ。
 健児と結婚して、もう五年になる。二人の愛は冷めないまま、むしろ、どんどん増していってる
。仕事が終わると、すぐに帰ってくるし、週末はデートに誘ってくる。浮気なんて絶対ありえない。
二人はきっと選ばれた夫婦。でも、現実的に考えてみると、まだ子供が生まれていないのが、仲の
続く理由だと思う。子供がいたら、いろいろ大変そうだし。
 だから私は、そんな旦那様のために毎日、精一杯料理をするわけ。健児に喜んでもらえると、私
も嬉しいからね。
 「ただいまー」
 玄関のドアが開く音と同時に声が聞こえた。健児様のご帰宅。
 私は再加熱しているフライパンを置いて、ガスコンロの火を止めた。
 「おかえりなさい。お疲れ様」
 わざわざ着たエプロンを外し、タオルで手を拭く。粉とかが、健児のスーツに付いたら、いけな
いからね。まぁ、大して手は汚れてなかったんだけど、雰囲気ってものがあるじゃない?
 「おおおー。ちょうど、これが食べたかったんだよ。さすが由紀。俺の妻」
 健児は大げさに言うと、私の頭を撫でた。
 「食べるのは手を洗ってからだよ?あとスーツもちゃんとハンガーにかけてからね」
 お預けを食らった子どものように、不満な顔を残して洗面所に向かう健児。。
 着替えた健児が食卓に着く。私のハンバーグは健児の三分の一。それなのに先に食べ終えたのは
、私じゃなかった。ちゃんと噛んで食べてるのだろうか。
 「ごちそうさま!」
 健児が箸を置いて椅子の背にもたれる。
このあといつも健児の口癖が出る。それを聞くことが私の生きがいだ。ほら、言って。言ってよ健児。
 「やっぱ、由紀がいないと俺って生きていけそうにないな。うん」
 はい、ごちそうさま。


232 名前:悪魔の懲戒(2/8) ◆DzHpA/9hyM 投稿日:2006/11/26(日) 22:21:22.35 ID:ISy/nfFm0
 健児が風呂に入っている時に、食器を洗うのが毎日の日課。健児は風呂が長いから、充分間に合う。
 まず、全部の食器を水で流して、スポンジをあわ立てる。後はきゅきゅっとやって乾燥機に突っ
込むだけ。それだけ。
それから少ししてからだった。私が異変に気付いたのは。
 何か物音が聞こえる。と言うよりも気配を感じる。
 「健児?出てきたの?」
 返事はない。健児ではないようだ。
 そのうちに、ひたひたと足音が聞こえてきた。
 手の泡を洗い流して、後ろを振り向く。そこには一人の男がいた。
 「どうも。悪魔です。あなたの命を奪いにきました」
 人間と言うには不自然な、ひょろ長い手足。全身に生えた短くつやのある毛。とがった耳に目、
歯。長い尻尾の先端は、丁寧にも矢の形をしている。
 「本物?」
 悪魔は、ヒヒっと笑う。
 誰でもこの姿を見れば、悪魔を疑わない。彼は、それそのものだった。むしろこれが人間とは
信じられない。悪魔に違いない。
 「本物ですよ。そしてあなたの命を奪うのも本当」
 「ちょっと待ってよ。そんなの嫌だわ。だいたいなんで私が」
 「あなたは罪を犯しているからです」
 健児を呼ぼうかと思った。でも、よく考えれば、この悪魔がそれを考慮に入れてないわけがない。こ
の悪魔の余裕の笑みは恐怖を感じさせた。あまりそういう行動は、控えたほうがいいのかもしれない。
 「罪っていったい何のこと? 万引きをしたことも、虫を殺した事もないわよ」
 悪魔はまたヒヒっと笑う。
 「悪魔の懲戒と、人間のそれを一緒に考えないでいただきたい。なんなら、人を殺しても、大金
を盗んでも、我々はそんなこと、責めやしないからな」
 そうか。こいつらは悪魔なんだ。悪が悪を裁けるわけがない。じゃあ、なに?


234 名前:悪魔の懲戒(3/8) ◆DzHpA/9hyM 投稿日:2006/11/26(日) 22:21:54.23 ID:ISy/nfFm0
 「じゃあ、私が犯した罪って何なのよ? 裁かれる理由は?」
 「悪魔はこう考える――」
 そう言って、悪魔はふわりと浮かんで、冷蔵庫上の狭い隙間におさまった。
 「われわれにとって、悪行は罪ではない。そして、悪を懲らしめる正義も、罪ではない。なぜな
ら、それらは必要なものだからだ。この社会、この世界にそれらは必要不可欠で、どっちも存在す
る意義がある。」
 健児が風呂から上がったようだ。ドライヤーの音が聞こえる。
 「では、罪とは何か。それは必要のない事。必要とされていない人間は、社会に何の影響も与え
ない。これでは魂の無駄ではないか。ただでさえ、魂の数が減ってきているのに、必要のない人間
が持っているのは、もったいない。だから奪う。そして神に納める。それが悪魔の仕事」
 「でも、私は必要とされているわ。健児は私がいないと困るはずよ。それじゃ駄目なわけ?」
  悪魔はまた不敵な笑みを浮かべて、私を見た。
 「駄目だねぇ。たった一人にそう思われているだけじゃ、全然足りないんだよ。悪魔が奪っても
いい魂は条件がある。一人以下の人間にしか必要とされていない魂。あなたを必要としている人間
はどうやらケンジ一人だけ。私が命を奪っても、全然問題ないわけだ」
 「でも、それならもっと奪うべき人間たちがいるでしょ? 他にもたくさん。それが何でよりに
よって私なの?」
 健児がドアを開いた。突っ立っている私を不思議そうに見たあと、冷蔵庫のドアを開けた。気付
いていないのか、さては、悪魔が見えていないらしい。
 「何で私なの? だって? 決まってるじゃないか。面白そうだからだよ。悪魔達は暇をしてい
るんだ。仕事だってやりたくてやってるわけじゃない。それなら、その条件の下で遊んでやろうっ
て考えさ。お前が死んだときの、この男の顔が見てみたいもんでね」
 そういって、悪魔は健児の顔を逆さにのぞいた。
 やはり健児には見えないらしい。それどころか声も聞こえてないようだ。
 悪魔だ。いまさら言うことではないが、こいつはまさに悪魔なんだ。
 「あさってのこの時間まで待つよ。お前がどう動くか。それも、悪魔の楽しみだからね」
 ヒヒっと言う笑い声を残して、悪魔は闇に溶けていった。
 「どうかした?」
 健児が声で我に帰った。悪魔が見えていないのならば、明らかに不自然な立ち回りをしていたと思う。


235 名前:悪魔の懲戒(4/8) ◆DzHpA/9hyM 投稿日:2006/11/26(日) 22:22:21.05 ID:ISy/nfFm0
 「さっきから焦点あってないんだけど? どこか調子悪い?」
 私は、今の事を言うべきか言わないべきか、迷った。
 迷った挙句、答えは出なかった。すなわち言うタイミングを逃した。
 「もし、調子が悪くて――」
 私の返答に健児は発泡酒の栓を開ける手を止める。
 「私が、あさって死んでしまうなら、健児はどうする?」
 健児は優しい笑顔で答えた。
 「いつも言ってるじゃないか。君がいないと僕は生きていけない。僕の人生で絶対必要な存在だ
からね。だから、そういう時は、一緒に死んでしまうんじゃないかな?」
 いつも、生きがいとして感じていたその言葉が、ひどく苦しく感じた。
 健児の優しい笑顔が痛かった。
 私の様子を見て、さすがに変に思ったのか、健児は私の顔を不安そうにのぞいた。
 「ううん。なんでもないの。忘れて」


 翌朝、出勤する健児を見送ったあと、私は朝ごはんのトーストをほおばった。
 あまり現実味がない。明日の夜、私は死ぬそうだ。
 死ぬ前に私がしなくちゃいけないこと… スーパーで溜めたスタンプどうしようかな… あ、そ
ういえば割引券だって使い切ってない。世界三大珍味だって、まだどれにもありついていない。
 思いつくのはせこい話ばっか。そういう事じゃないんだ。私がやり忘れた事、しなくてはいけないこと。
 一番大事なのはやっぱり、健児の自立だ。私がいなくても生きていてくれなくちゃ、困る。
 私は家計簿に使うつもりで買っていたノートを取り出した。それの表紙に大きな字で、家事ノー
ト、と書く。そう、一人で何でもできるように、ちゃんと残しておくべきなの。
 開いた一ページ目「料理編」機材の使い方、簡単なレシピ。野菜も魚も、全て一緒に見える健児
には難しいかも知れないから、解りやすい様にほとんど絵で書く事にした。当然、あの秘伝ソース のレシピも忘れずに記した。
 そのあと、キッチンの調味料全てに名前の付箋をつけた。
 「掃除編」「洗濯編」「食器洗い編」思いつく限り全てを書き終え、一息ついた。
 ベランダには夕日がさしていた。我ながら一日、よくがんばった。
 「さて、夕食の支度をしなくちゃ…」

236 名前:悪魔の懲戒(5/8) ◆DzHpA/9hyM 投稿日:2006/11/26(日) 22:22:42.96 ID:ISy/nfFm0
 「ねぇ。昨日おかしかったけど、大丈夫?」
 テレビを見ていた健児が、突然話しかけた。
 「なんでもないよ。ちょっとボーっとしてただけ」
 なんでもない事はない。明日死ぬらしいんだから。
 「ん――そうか」
 そう言って、健児はテレビに視線を戻した。
 きっと、本当の事は言うべきではないんだ。信じてもらえるかどうか、それよりも、頭が狂っ
たと思われたら困るもの。そんな死に方、嫌だ。
 「あ――」
 私はふと、気が付いた。もし、二人きりの部屋で、突然私が死ねば、どう考えても健児が容疑者
にされる。健児が犯人でない証拠はちゃんと出るだろうけど、それでも、会社の立場だとか、裁判
だとかいろいろ大変な事になってしまう。だからそうならないために、その時間に私と健児は別の
場所にいる必要がある。
 「どうしたの?変な声上げて」
 「え?ああ、うん。そう、言い忘れてたんだけど、明日、知り合いにご飯誘われてるんだ。だか
ら健児も、夜はどこかで食べてきて」
 口からでまかせ。でもこれでとりあえず、健児にアリバイができる。
 「うん――わかった。楽しんでこいよ」
 そう言って、健児は優しい笑顔を見せた。
 ふと、考えてみると、明日の夜はもう会えないわけだから、今日は健児との最後の夜、と言う事
になるのか。ちょっとあまりにも短すぎない?
 そう考えると途端に実感がわいてきた。あと健児と一緒に入れるのは、数時間だけか。最後の二
日くらい、仕事休みだったらよかったのに。
 「ねぇ。健児」
 「ん?」
 私は健児のひざの間に座った。一人用の椅子がきしんだ。
 「私のこと、愛してるよね?」


237 名前:悪魔の懲戒(6/8) ◆DzHpA/9hyM 投稿日:2006/11/26(日) 22:22:57.10 ID:ISy/nfFm0
 「なんだ? 酔ってるのか?」
 「答えて」
 ちゃかしていた健児が、やっとその雰囲気に気付いてまじめな顔になった。
 「愛してるよ」
 「あたしも――」
 涙目を隠すように抱きつくと、健児の香りがした。
 そのあと二人は、数週間ぶりに体を重ねた。健児が愛してると呟くたびに、嗚咽と喘ぎ声の混じ
った不思議な声を漏らした。いろんな涙が体中から出るのがわかった。全ての感覚が鋭くなってい
るのに、脳だけは鈍くなっていた。彼が愛しい。それだけを考え続けた。
 これがきっと最後の夜。
 それでいい。
 それでいいよ。


 目が覚めると、もう外は明るくなっていた。
 一晩中、健児を見つめていようと思っていたのに、非情にも睡魔が襲ってきたのか、寝てしまっていた。
 横で寝ている健児が起きるのは、三十分後。そのあと、三十分で支度をして出勤するから、あと
一時間だけ。一緒にいられる時間は。
 最初の三十分はあっという間に過ぎた。
 目を覚ました健児は、不思議そうに私の顔を見た。
 私は今日、死にます。きっとそう顔に書いていたの。あからさまに。
 「どうした?由紀」
 「なんでもないよ。ほら、顔洗って、朝ごはん作るから」
 「う、うん」
 トースターにパンを二枚入れて、スイッチを入れる。その間に、冷蔵庫からジャムを取り出す。
 いつもの朝ごはん。
 今日はいつもどおり、何もおかしくない朝だからね
 スーツを着てネクタイを締めて、財布、ハンカチ持ち物確認。
 朝の時間って、すぐ過ぎるけど、今日は特別速かった。残りの三十分、本当にあっという間。

240 名前:悪魔の懲戒(7/8) ◆DzHpA/9hyM 投稿日:2006/11/26(日) 22:23:13.90 ID:ISy/nfFm0
 気が付けば玄関で、健児の靴を履く姿を見ていた。
 「由紀――」
 靴べらを片付けながら、健児が呟いた。
 「大丈夫… だよな?」
 私は大げさに笑った。
 「ははは。健児。あんたこそ大丈夫?変だよ最近」
 「うん。大丈夫だよ」
 健児もつられて笑う。
 私は大丈夫だよ。あんたの方が心配なんだから。
 ほら、嫌な予感ってのはたいてい外れるもんなの。
 だから、いってらっしゃい。健児、仕事頑張ってね。
 さようなら。健児。


 「よう」
 聞こえた声に顔を上げると、すでにそこに悪魔がいた。
 「え? あれ。もうこんな時間?」
 外はもう真っ暗。
 時計を見ると、いつもなら健児がすでに帰ってきてる時間だと気付く。
 目が腫れていて、袖がびちょびちょにぬれている。ずっと泣いてたのか。私ってば。
 悪魔は辺りを見回している。どうやら健児を探しているらしい。
 「健児ならいないよ。悔しい?」 
 「いや、全然」
 悪魔は相変わらずおぞましい姿をしている。
 「さぁ。どうぞ。逃げも隠れもしないよ。魂でも何でもシュっと取っちゃってよ」 
 悪魔は辺りを見回しながら頭をかいた。そしてやがて、何かに気付いたように私の顔を見た。
 「そうか、なるほど。いったい誰なのかと思ってたが、やっとわかった」
 「何を言ってるの?さっさと魂をとりなよ。ひとおもいに」
 「してやられたと言うわけか」
 「え? どういう事? 何の話」

241 名前:悪魔の懲戒(8/8) ◆DzHpA/9hyM 投稿日:2006/11/26(日) 22:23:40.24 ID:ISy/nfFm0
 「俺はお前の魂を取れない、という事だ」
 魂を取れない?生きていいってこと?でもなんで。
 「教える義務はないが、こんなのは初めてだからな。特別に教えてやる。お前は、悪魔が魂を
取れない存在になったんだ。二日前と違ってな。」
 魂を取れない存在?
 「二人以上に必要とされる?」
 悪魔はこくりと頷いた。部屋から去ろうとしている悪魔に、慌てて問いただした。
 「ちょっとまって。だとしたら、あと一人。誰なのよ。私を必要とした人は?」
 悪魔は、ヒヒっと笑って、私の下腹部を指差した。
 「そこのぼうやだよ」



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