【 ひとりにしないで 】
◆SenpaiXN.E




581 名前:ひとりにしないで(1/5) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/25(土) 15:50:48.81 ID:ybBFSyuh0
 また夜が来た。

 書斎というほどたいしたものではない三階の仕事部屋に入り、手探りで電気を点けようとする。
スイッチを入れるとパチパチという音をたてて蛍光灯が点滅し、明るくなりかけて……消えた。
そういえば、妻が出て行ってから蛍光灯を換えた記憶など全く無い。
それでもスイッチをまさぐってしまうのは、長年の習性というものだろう。

 椅子に座り込み、昼間の上司の言葉を思い出す。
「急なことですまんが、岡山のほうに出向してもらうことになった」
「なに、あそこの支店長と私は古い仲だ。私のほうからもよく言っておくが、決して悪く扱われることはない」
「栄転だと考えてくれていい」
会社あっての自分。その逆はないことはよく分かっている。
しかし、この家を離れるのは……

 急に全てが面倒くさくなり、カーテンを開けた。
街灯の光と薄い月明かりが部屋に差し込み、ぼんやりとではあるが乱雑な部屋の内部が浮かび上がる。
蛍光灯が点かない以外は、今日は特に変わったことはないようだ。
机の上の煙草とライターを掴み、灰皿が近くにあるのを確認してから火を点けた。
ライターの火が一瞬だけ私の周りを明るく照らし、火が消えるのに合わせて薄闇が戻ってきた。
煙草を一口吸い込み、ほぅと吐き出すと、煙がまるで意思を持ったかのように踊り、暗闇に散っていった。

582 名前:ひとりにしないで(2/5) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/25(土) 15:51:09.25 ID:ybBFSyuh0
 幼い頃は、どうしてあんなに暗闇が怖かったのだろう。
いや、暗闇だけではない。
寝室の床の間に置かれたガラスケースに収まった、青い目のフランス人形が怖かった。
学校帰りに見つけた、どこか知らないところへと続く路地が怖かった。
ふと見上げた夜空に浮かんだ、青々としたカミソリの刃のような月が怖かった。
放課後に忘れ物を取りに入った無人の教室で、人知れず時を刻む時計が怖かった。
それから、それから……

 ……私は、それらの何を怖がっていたのだろう。
不気味だと感じることと恐怖を覚えることとは、本質的に違いがあるように思える。
大人になった今、不気味だと感じることはあっても、フランス人形や月に恐怖を覚えることはない。
フランス人形が夜中に包丁を持って襲ってくることや、月がニンマリと口を開けて語りかけてくることはないと、わかったからだ。
しかし、幼い頃の私は、そのただ不気味なことでさえ恐怖だと感じていた。
世界が未知のもので溢れていたからか。
起こりうることと起こりえないこととの区別をつけるには、経験が少なすぎたのか。

 今となっては、分析してみることしかできないけれど、幼い頃の私はやはり、未知への恐怖を抱いていたのだろう。
人形も路地も月も時計も、それに対して自分で付随させたストーリーに、怯えていたのだろう。
多人数でいれば、そのストーリーを共有出来ずに恐怖は薄らぐ。
幼い頃に孤独を嫌っていたのも、そのせいなのだろう。


 達也も、そうだったのだろうか。

583 名前:ひとりにしないで(3/5) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/25(土) 15:51:42.28 ID:ybBFSyuh0
 蛍光灯がもう一度パチパチと淡く放電を始め、その光が鉄製の灰皿に反射して妖しく輝いた。
一瞬、ストロボがたかれたかのように、部屋の隅の暗闇までがくっきりと映し出されてすぐさま消える。
ふと指先を見ると、既に煙草が半分ほどまで灰になっていた。
妖しく輝く灰皿に吸いかけの煙草を、赤い火の粉が消えるまで押し付ける。
火の粉が消えるのと同時にまたもや蛍光灯がぼうっと輝きを失う。

 再び薄明かりに浮かび上がる部屋の中、意識は再度過去を彷徨っていく。

 息子の達也も、幼い頃の私に似て、とても怖がりな子供だった。
十歳にもなろうというのに一人で風呂に入るのも怖がる。
一人で留守番など無論の事、常に誰か傍にいないと安心できないようだった。
まるで、一人になった途端に、得体の知らないものがその身をさらっていくとでも考えているように。
と言っても内気で大人しい子だったというわけではなく、むしろ活発だといえる子だった。
おそらく小学校の友達と、毎日どこかで遊びまわっていた。
もちろん、夜が更ける前――空が茜色に夕焼ける頃には、急いで家に帰ってきていたが。

 妻と私、それから達也の三人しかいない家の中でも、達也は遊びに明け暮れていた。
クレヨンを持てば、居間の床一面にサインの練習をする。
私の祖父が、生前家宝のように大事にしていた古伊万里の壺の中に、泥を詰め込む。
微笑ましいいたずらともいえる一人遊び。
今になって思えば、家の中に誰かがいる時ですら、達也は孤独に怯えていたのだろう。
くだらないいたずらをする事によって私や妻の気を引き、傍にいて欲しかったのだろう。
私にも身に覚えがある。
父に相手にしてもらいたくて、父の茶色い革靴に真っ黒い靴墨を塗りたくったこと。
私にも身に覚えがある。
母に傍にいてもらいたくて、ひどい腹痛に襲われた振りをしたこと。
そう、私にも身に覚えがある。

 なのに、私は。

584 名前:ひとりにしないで(4/5) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/25(土) 15:52:06.37 ID:ybBFSyuh0
 点くや点かぬやのところでパチパチと鳴り続ける蛍光灯の下、もう一度煙草に火を点ける。
立ち上る煙は体にまとわりつき、手で払うと部屋の隅に吸い寄せられるように消えていく。
差し込む薄明かりは、煙が迷い込んだ部屋の隅までを照らすことはない。
そう、暗闇の世界はこの世界と交じり合うことなど無くていい。
暗闇に知らん振りをして通り過ぎても、私を責める者など誰もいないだろう。
……私が、私を赦すことができるのなら。

 躾のつもりだったのだ。
自由奔放に育てた達也に、少しだけ世間の厳しさを教えてやろうと思ったのだ。
庭で細々と育てていたトマト、その小さな農園を無邪気にも踏み荒らしたことへの戒めのつもりだったのだ。
よほど私は焦っていたのだろう。
達也に全て――食べ物を大事にすること、人の大切なものを尊重すること、親の言葉は聞くこと――を教え込まなければ、と。
頑なになっていたと自分でも思う。
そう、私は達也をこの部屋に閉じ込めた。
ご丁寧に廊下側に重い本棚を置き、蛍光灯の切れたこの部屋の中に、達也を一晩中閉じ込めた。

 孤独と暗闇が嫌いな達也は、どうしただろう。
ごめんなさぁいごめんなさぁぁい、だしてぇえええだしてえええええええ、と叫んだだろうか。
叫び疲れて、それでも赦しを得られないと知った時、達也はどうしただろうか。
いくらスイッチを押しても蛍光灯は点かず、暗闇の中で膝を抱えて震えただろうか。
ひとりにしないでひとりにしないでこわいこわいこわいこわいこわいひとりにしないでこわい、と呟き続けただろうか。
それとも、カーテンを開ければ幾ばくかの月明かりが入ってくることに気が付いたのだろうか。
部屋の隅に巣食う暗闇よりも、外を流れる薄闇に、何か近しいものを感じたのだろうか。

 青々とした月を掴もうとして、達也は窓から飛んだのだろうか。

585 名前:ひとりにしないで(5/5) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/25(土) 15:52:26.32 ID:ybBFSyuh0
「岡山に転勤か……」
煙草を口にくわえたまま、わざと呟く。
赤く燃える煙草の先から立ち上る煙が、闇の中へと消えていく。
それに呼応するように、部屋の隅に沈殿していた闇が、ざわざわと動く気配がする。

 そう、達也は、アスファルトに脳を打ち付けて死んだ後も、この部屋にいる。
この部屋で、あれほど嫌いだった闇に同化し、それでも孤独に怯え続けている。

 パチパチと音が鳴り、とうに切れているはずの蛍光灯が瞬き始める。
その鋭い光が部屋の隅を照らすと、そこには闇を捕まえたような影が見える。
膝を抱え、こちらをうかがうように見ている漆黒の影が見える。
蛍光灯のパチパチという音に合わせて、影は何かを呟いている。

 ひとりにしないでひとりにしないでひとりに……

 妻は、達也が死んでからこの家を出て行った。
達也のいないこの家にいるのは辛い、そう言い残して。
もちろん妻に責任はないが、今達也の傍にいてやれるのは私だけ、というのが事実だ。
今度は達也を一人にはさせられない。
それは私の戒めなのか、達也への愛情なのか。
どちらにせよ、これからも私は達也と共にいよう。
私が闇に溶け込むまで。

「もちろん、断るがな」
もう一度私が呟くと、闇は安堵したようにざわざわと鳴った。






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