【 夢の向こうに逃げる 】
◆2LnoVeLzqY




511 名前:夢の向こうに逃げる 1/7 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/19(日) 23:31:59.78 ID:l0SJECVn0
「つまり僕が言いたいのはね」
 とんちんかんな説明のあとで、シャルは改めて僕の方を向いた。
 すっかり薄汚れてしまった白いセーターと、やっぱり薄汚れているシャルの顔を見て、僕はため息を漏らす。
「……つまり?」
 そう聞き返すと、シャルはきょろきょろと何かを探す仕草をし始めた。
 貧民街の中を歩く僕らの左右には、おんぼろの民家が所狭しと連なっている。
 ついさっきまで降っていた雨のせいだろう、ぴちゃんぴちゃんという水の滴る音があちこちから聞こえてくる。
 ふと、シャルが立ち止まった。それからぱたぱたと、とある民家の軒先へと走っていく。
 ようやく、シャルはお目当てのものを見つけたらしかった。
「つまり、こういうことなんだよ!」
 そう叫ぶシャルに近づいてみると、シャルが何かをつまんでいることに気がついた。
 傍には、雨できらきらと光る……蜘蛛の巣。
 そしてその巣の主は、死んだふりでもしているのだろうか、じっと動かずに、シャルの指の間にいた。
 けっこう大きなクモなのだけれど、その大きさよりも、僕はシャルが素手でクモなんかをつかんでいることに驚いていた。
「兄ちゃん、どうしてクモは自分の巣にくっつかないか、知ってる?」
 シャルに突然そう聞かれ、僕は家での勉強で――そう、あの家での勉強で――いつか習ったことを思い出す。
 もしかしたら、読まされた本の中の内容だったかもしれないけど、それはどちらでも同じことだ。
「クモの巣には粘る糸と粘らない糸があって……クモは粘らない糸の上しか、歩かないから」
「だいせいかい」
 そう言うとシャルはくるりと僕に背を向けて、またクモの巣に近づいていく。
 それから巣についていた水滴を「ふっ」と息で少しだけ吹き飛ばすと……シャルは手に持っていたクモを、その巣に押しつけた。
「自分で作った巣に、やられちゃえばいいんだよ!」
 シャルは何度も何度も、粘る糸で手が汚れるのも構わずに、クモをその巣に押し付ける。
 けれど一向にクモは巣に絡まりもくっつきもせず、やがて諦めたようにシャルが手を離すと、クモはぼとりと地面に落ちた。
「何で……何でくっついてくれないのさ」
 涙声で、力なく呟くシャルを見て、クモの巣のたとえ話はするべきじゃなかったな、と僕は思った。



512 名前:夢の向こうに逃げる 2/7 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/19(日) 23:33:03.80 ID:l0SJECVn0

「兄ちゃん、家出、しようよ」
 家出という単語をどこで覚えたのかは知らないが、弟である十歳のシャルが十三歳の僕にそれを提案してきたのは今から二日前だった。
 最初は冗談だと思ったけれど、あまりにシャルが真面目に迫ってくるので、思わず僕は「ああ、いいよ。そうしよう」と答えていた。
 僕ら兄弟が生まれたのは、小さな国の、上流階級の家だ。
 物心ついた頃から専属の家庭教師が傍についていて、勉強といえばその人から教わった。
 母さんに言わせれば「学校なんて低俗な場所は、あなたたちにふさわしくありません」だそうだ。
 そんなわけで、僕らのすることといえば、勉強するか、本を読むか、やたらと広い庭で召使いの人と遊ぶか、ぐらいのものだった。
 でも、僕がシャルぐらいの年齢のときには、家出するなんて考えもしなかった。
 家出する理由が、そもそもなかったからだ。
 退屈といえば退屈。けれど、この家での生活に不満などほとんど抱いていなかった。
 だからシャルへの提案に乗ったとき、驚いたのは僕自身だったのだ。
 もしかしたら、心のどこかでは僕も、この家を出たいと思っていたのかもしれない。
 とにかく二日前の夜、みんなが寝静まった頃に、僕らは家を抜け出したのだ。


 夕日が貧民街のおんぼろの家々を赤く染め始めた頃になって、ここで夜を明かすのは得策ではないな、と僕は思い始めた。
 家出一日目の昨日の夜は、安い宿に泊まることができた。
 宿の主人は怪訝な顔をしていたけれど、二人ぶんのお金を払うと何も言わなかった。
 お金なら、抜け出してきたときに家から持ってきていたのだ。
 昨日はそれでよかったが、今日はそうもいかない。二人とも、服はひどく汚れているし、そもそもこの辺りにまともな宿がありそうもない。
 よく考えもせずに貧民街なんかに入ったのが間違いだった。日が沈むまでに、ここから抜け出す必要がある。
「ねえ兄ちゃん……僕ら、どうなるの?」
 泣きはらした目をこすりながら、シャルが聞いてくる。
 クモの巣のたとえ話をして以来、シャルはかなり落ち着きがないように見えるのだ。



513 名前:夢の向こうに逃げる 3/7 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/19(日) 23:34:00.82 ID:l0SJECVn0

「僕らの家は、この国のいろんなところに人のつてがある。まるでクモの巣みたいに広がったそのつてから、僕らが逃げきれるかどうか、自信は無いよ」
 だから僕らは、まるで飛び回る虫みたいだよ、と。
 ふとしたことからシャルにこう言ったのが、今日の昼のことだった。
 僕は、家出してから二度と帰らない、なんてもちろん思っていなかった。
 普段なら決して拝めない外の世界を、何日か見て回りさえすれば、それでいいと思っていた。
 ところが、シャルはそうは思っていなかった。
「クモの、巣……? 僕ら、本当に逃げ切れるの?」
 シャルはどこまでも、どこまでも僕と一緒に逃げる気でいたらしいのだ。そして、どこまでも逃げることができると本気で思っていたらしいのだ。


「ねえ兄ちゃん……僕ら、本当に、どうなるの?」
 シャルがもう一度、僕に聞く。
 僕はシャルの方を見ることなく、ただ前を向いて歩きつづける。
「僕、見つかって、連れ戻されたくないよ……」
 この場でぴたりと歩みを止めて、くるりと振り向いてからまた逆方向に歩き出して、一日かけて家に帰ることはできる。
 家でも今頃、みんな大慌てで僕らを探しているだろう。
 だけど僕は、歩みを止めて振り向いて、家に向かって歩き出したりはしない。家出を、僕は続けようとする。
 それは、シャルの幼稚な幼稚な夢を少しでも叶えようとする兄としての思いやりかもしれないし、家に帰ってから怒られるのが嫌なだけかもしれないし、クモの巣から逃げようとする虫として、チャレンジしたくなったからかもしれなかった。
 とにかく確かなことは、僕はクモの巣のたとえ話をして以来、この家出に、ちょっとだけやる気を出していたのだ。
 クモの巣のような情報網に挑むという、家にいた頃には味わえなかったスリルを、僕は楽しんでいる。
「まずはこの貧民街を抜ける。それから泊まれる宿を見つけて、この服を洗う」
 横にいるシャルを見ずに言う。まず、汚れた服が大問題だった。
 着替えを持ってこなかったのは、やはり失敗だったと思う。
 この服のおかげで貧民街を歩けるのだが(他人には、僕らが貧民街の金の無い子供に映っているにちがいない)、ここを抜けたらすぐに洗わなくては我慢できそうにない。
「疲れてると思うけど、今はまず、ここから出ることに集中しよう」
 そう言うと、シャルは「うん」と力強く頷いた。

516 名前:夢の向こうに逃げる 4/7 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/19(日) 23:35:07.03 ID:l0SJECVn0

「お前ら、見ない顔だな。家はどこだ?」
 貧民街をもう少しで抜けるというときになって、突然声をかけられた。
 ここに入ってから人に話し掛けられるのは初めてだった。僕は逃げ出すこともできず、黙って声がした方向に振り向いた。
 そこにいたのは、僕と同じぐらいの年齢に見える少年だった。
 栗色の短い髪で、薄汚いシャツと短いズボンを、彼は纏っていた。
「やっぱり見ない顔だ、うん。ここには最近来たのか?」
 何て答えようか、どうやったら上手く切り抜けられるか、そんなことを考えていると、
「……ぼ、僕ら、家出してきたんだ」
 唐突にシャルが答えた。
 しまった、と思ったときにはもう遅かった。
 少年はきょとんとした顔を見せたあとで……、
「はっはっは、お前らおもしれーなあ!」
 思いっきり、笑い出したのだった。

「何もないところだけど、一晩ぐらいゆっくりしていけや」
 ウィローと名乗った少年は、そう言って、本当にほとんど何もない部屋の端に腰を下ろした。
「一番近い宿までかなり距離があるし、その服装じゃ入れてもらえないぞ」とウィローに言われ、警戒はしていたものの、他にあてもなく、結局部屋に上がることにした。
 部屋の中にあるのは粗末なテーブルにランプ、それに、つぎはぎだらけの毛布。
 それから、ウィローから僕とシャルに手渡された黒パンが、ひとつずつ。
 黒パンをじっと見つめてから、ふとシャルが口を開いた。


517 名前:夢の向こうに逃げる 5/7 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/19(日) 23:36:29.89 ID:l0SJECVn0
「勝手に上がりこんで、ウィローのお母さん怒ったりし」
「いない」
「えっ?」
 シャルが驚いた顔をする。僕は薄々気付いていたので、会話を聞きながら、パンをかじるふりをしていた。
「俺はここの生まれなんだ。父親は最初からいなくて、母親は俺が十歳のときに死んじまった」
 ごくり、とシャルがパンを飲み込む音がする。シャルの方を見ると、あからさまに、美味しくないという表情をしていた。
「くははっ、美味いモンじゃないかもな。で、母親が死んで以来、仕事を見つけては、どんなに安い給料でも働かせてもらってる」
 またシャルがパンを飲み込む音がする。今度は、何も表情に出さない。
「俺の夢は、金を溜めて、こんなところから出ていくことだ。ところで、お前らどこから来たんだ?」
「それは秘密」
 シャルが何か答える前に、僕が答える。流石に、家まで言うのはマズいから。
 まぁ秘密でもいいさ、とウィローが呟く。
「まあ俺みたいな身分じゃないことは確かなんだろう。どうして家出なんか?」
 それは、僕も気になっていたことではあった。シャルが家出したいと言い出すきっかけを、僕はまだ聞いていなかったからだ。
 横にいるシャルの方に目をやると、シャルもそれに気付いたようだった。
「……本を、読んだんだ。主人公が、自分の住んでる国を出て、いろんなところを旅するお話」
 それなら僕も読んだ、とは言わなかった。
 いままでたくさんの本を読んできたけど、人が本に抱く考えなんて、人それぞれだと思う。
「面白そうだな、そりゃ。俺は字を読むの、得意じゃないんだ。だから本なんか読んだことない」
 そう言うと、ウィローが立ち上がった。
「水汲みに行ってくるよ。パンだけじゃつらいだろう。戻ってきたら、その本の話を聞かせてくれよ」
 シャルが嬉しそうに頷く。ガラスがはまってない、壁の穴みたいな窓からは、冷たい夜の空気が流れ込んでくる。

520 名前:夢の向こうに逃げる 6/7 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/19(日) 23:38:00.46 ID:l0SJECVn0
「……でね、結局その主人公は、生まれた国に帰ることにしたんだよ」
 シャルはときどき水を飲みながら、それでも休むことなく、あの本の内容をウィローに話し続けた。
 ウィローはときどき相槌を打ちながら楽しそうに聞いていたし、僕もまた、昔読んだその内容を思い出していた。
 生まれた国を出て、いろんな国を旅する主人公。
 たくさんの人と触れあい、様々な景色を見るが、主人公は結局、自分の国が一番だと悟るのだ。
「ふう、面白かった。それじゃぁ、そろそろ寝るか。俺は明日の朝も早いんだ」
 そう言うとウィローはランプを吹き消した。
 部屋の中が急に暗くなり、星と月の明かりのせいで、窓の周りだけがぼうっと明るい。
 遠くの方では大きな声が聞こえるものの、このあたりは静かなものだ。
 ウィローから借りた毛布に入ろうとしたら、シャルがぼそりと呟いた。
「ト、トイレ……」
「トイレなら向かいの建物。俺が行かなくても大丈夫か?」
 まだ寝ていなかったらしく、ウィローが答えた。
 僕は大丈夫、と返して、シャルを連れて外に出た。

「うわあ、やっぱり夜って涼しいね」
 夜風を顔に受けながら、シャルが呟く。
 家にいた時は、夜中に外に出たことなんか、めったになかった。
 星と月が道を照らす中、向かいの建物へ向かおうとした、そのときだった。
「おい、いたぞ! あそこだ!」
 慌てて声のした方に振り向いた。
 ランプを持った男たちが、こっちに向かってくる。
 あれは誰? 逃げるか? でもどこへ?
 いろんな疑問が頭を駆け巡る中、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
 夜中に馬の蹄の音?
 ますます混乱する僕の前に、馬車が現れる。
 そして、そこに乗っていたのは……、
「二人とも無事だったのね、本当に……良かったわ」
 僕らの、母親だった。
 家出が、終わりを迎えた瞬間だった。

522 名前:夢の向こうに逃げる 7/7 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/11/19(日) 23:39:47.78 ID:l0SJECVn0

「思ったより早かったなあ。まあ、これで俺の役目は終わりってわけか」
 いつの間にか部屋から出てきたウィローが、そう呟いた。
「お前、僕らを売ったのか……」
「売ったなんて物騒な言葉使うなよ。俺は、人探しを手伝っただけさ。家出した兄弟を見つけてくれた方には金一封。この辺りの奴らはみんな知ってるぜ」
 もっとも、汚れた服を着ていたから誰もお前らだと気付かなかったみたいだけどな、というウィローの言葉は、慰めにもならない。
 そこで僕は、自分の言った言葉を思い出す。
 僕らの家は、この国のいろんなところに人のつてがある。まるでクモの巣みたいに広がったそのつてから、僕らが逃げきれるかどうかなんて……決まってるじゃないか。無理だったんだ。
 カゴの中の鳥という言葉があるけど、そんなカワイイものじゃない。
 まるで僕らは、虫カゴの中の虫だ。
 うっかりそこから抜け出した虫が、クモの巣を避けようと必死に飛び回っていただけだったのだ。
「言ったろう? 俺には夢があるんだ。金を溜めてこんなところから出ていくっていう夢がな!」
 ウィローの言葉を背に受けながら、僕とシャルは馬車に乗せられる。
 温かいミルクが差し出されるけど、僕はそれを断る。
 馬車の窓から、外で一人立っているウィローを見つめる。
 けれど、掛ける言葉は見つからない。
 ウィローの夢は嫌というほど現実味を帯びていて、どこか生々しい、と僕は思う。
 それは僕の住む世界には、決して存在しない夢。
「家に帰れば何でもあるくせに、家出なんかするお前らなんか、心の底から大嫌いなんだよ!」
 それが、最後に聞こえたウィローの言葉だった。
 馬車は走り出す。貧民街に背を向けて、走り出す。
 最後には、生まれた国が一番だと悟ったあの本の主人公を僕は思い出した。
 僕らも、生まれた家が一番だと悟る日が、来るのだろうか。
 僕の隣で泣きながらミルクをすするシャルを見て、ふと、そんなことを思った。



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