【 家政婦探偵みづ江の事件簿 】
◆wDZmDiBnbU




426 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (1/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/11/19(日) 22:35:34.23 ID:67i38BXU0
 とかく世の中というのは悪人だらけだ。人を見たら泥棒と思えと言うが、財田(さいた)
に言わせればそれは随分と間の抜けた話だった。見てからやっと泥棒だなどと思っている
ようでは遅すぎる。この世の人間はすべからく悪党なのだ。そして彼らの起こした厄介ご
との後片付けが、財田の仕事だった。正直言えば、反吐の出る思いだ。
 芝の上に降り立つと同時に、後ろ手に自動車のドアを閉める。今にも雪がちらつきそう
な空の下、思わず漏らしたため息が白く染まった。身を切るような冷気。薄汚れたコート
の襟を立て、首をすくめる。こんな日にこんな薄給で仕事などやっていられない、適当に
済ませて切り上げよう――財田は、目の前の巨大な館を見上げた。
 郊外の山裾にひっそりと建つ、豪奢な洋館。相当に古い建物ではあるものの、かなりの
豪邸と言っていいだろう。開け放たれた巨大な扉を通り抜け、館へと上がり込む。内装は
その外見に負けず劣らず、いかにも、と言った趣だ。
 ――まさに人が殺されるにはおあつらえ向きの館。
 無駄に大きな階段を下りると、地下のフロアに辿り着いた。古びた館に似つかわしくな
い、何かの機材がそこら中に見かけられる。スピーカー、ギター、マイク。他は何のため
の機械なのかわからないが、随分と高価なものなのだろう。その中を、見慣れた連中が忙
しく動き回っている。
「財田警部。お待ちしておりました、こちらです」
 同じ捜査一課の新人、川相刑事に招かれ、財田は現場へと足を踏み入れた。その興奮し
た様子に、財田はため息の出る思いだった。なにしろ被害者が被害者だ、それもやむを得
ない事なのだろうが――正直、面倒くさい。
 機材の積み上げられた狭い部屋の真ん中に、仏が一人。だがその死に様が尋常ではなかっ
た。床から天井までせわしなく部屋全体に張り巡らされた荒縄。その中央に全裸のまま、
全身を荒縄で縛り上げられた男が吊るされている。まるで蜘蛛の巣にかかり糸で縛り上げ
られた虫のような風情だ。
「こんなことやらかすのは余程の変態だろうな、おい」
 まるでその仏に話しかけるかのように一人ごちる。モヒカン頭のその男は、世間の流行
に疎い財田でも顔くらいは知っていた。
「被害者、阿南(あなん)定吉、二十八歳。芸名『ジッパー定吉』です」
 ジッパー定吉。今世間で大人気のロックバンド『ヴァンサンカン』のリーダー。街を歩
けば必ず彼らの曲を耳にするほどの売れっ子ぶり。それに最近ではテレビでもよく見かけ

427 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (2/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/11/19(日) 22:36:08.39 ID:67i38BXU0
るようになった。彼らが『ロック魂』と公言してはばからない、毒っ気のある発言が受け
ているらしい。要するに人気絶頂の大スターということだ。
 こういう手合いに死なれると大変面倒くさい。がたいのいい若い衆を先にやっておいた
のは正解だった。屋敷の正門前でマスコミたちをシメておいてくれるからありがたい。
「死因はなんだ」
「見ての通り、心臓を一突き。そう考えて間違いないでしょう。詳しくは検死の結果待ち
ですが、他に目立った外傷はありません」
 縄の縫い目から、バックリと開いた傷口が見える。ためらいのない良い一撃だ。余程の
恨みを買っていたのだろうか。有名人で、大金持ち。しかも小生意気な毒舌屋と来た。別
に誰から殺されてもおかしくない。
 財田はぼさぼさに伸びた髪を掻いた。三十九歳の中年になっても、この癖は抜けない。
「厄介だな」
「ええ。ですがもう一つ、厄介な事が」
 うんざりする財田にお構いなく、興奮しきった様子で川相が告げる。
「発見当初、この部屋――つまりスタジオなんですが、密室だったんですよ」

 ***

「よし、自殺だな。帰る」
 足早に部屋を出る財田の後ろから、慌てた足音が聞こえてきた。
「ちょっと待ってください、そう断定するには早すぎます」
 いつものことながらこの川相という男、いささか性格が真面目過ぎる。刑事にしては珍
しい、というよりも、向いていない。
「自殺だとしたら動機がはっきりしません。それに全裸で縛り上げられた状態で自分を刺
すだなんてことができるとも思えません。これは殺人の可能性が大きいかと」
 筋の通った、論理的な意見。まともな仕事に就いていれば出世もできただろうに。
「そうだな。密室じゃなければな」
「それです。その密室が逆に怪しいとは思いませんか。なにかトリックがあるんです」
 怪しいもくそもない、密室は密室だ。
「そういうことはそのトリックとやらを解いてから言え」

428 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (3/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/11/19(日) 22:36:54.37 ID:67i38BXU0
「そんな、急には無理です。第一それが僕らの仕事じゃないですか」
 まったく、ああ言えばこう言う――財田はその歩みを早めた。この川相、確かに優秀に
は違いないが、いかんせん頭が固い。真に優秀な刑事にとって、捜査のときに考えるべき
ことはただ一つ、早期解決だ。
「ロックがどうとかぬかす変態野郎が変態的なやり方で命を絶った。そもそもこれから死
のうって人間に怪しいもくそもあるか。万事解決だ」
 階段を上りきり、ロビーに出る。あとは安全運転で家に帰って酒を飲むだけだ。
「待ってください財田警部、この事件は――」
「すぃませぇん! 全部、私が悪いんですぅ!」
 川相の懇願は、突然の声に遮られた。間延びした気の抜けた声。振り向くと、ロビーの
片隅に若い女がいた。他の刑事と話をしていたらしい。
「……なんだ、ありゃ。一体なんの自供だ」
「ああ、第一発見者のうちの一人です。暖野(のんの)みづ江さん、二十二歳。この館の
家政婦さんだそうで」
 手帳をめくる川相をよそに、財田は女の元に歩み寄った。近くで見ると随分と小柄だ。
それにこの、割烹着と三角巾という出で立ち。さすがに家政婦というだけはあるが、洋館
の趣には似合わない気がしないでもない。大仰な黒縁眼鏡に、おかっぱ頭を思わせる髪型。
まだずいぶんと若く美人だというのに、この時代錯誤な格好は何事だろうか。
 目の前で立ち止まる財田を、彼女が見上げた。その目には明らかな怯えの色が見て取れ
る。怯える人間というのは何か隠し事をしているものだ。財田は最大限の威圧を込めて、
ドスの利いた声を響かせた。
「お前が殺ったんだな。そうだろうがゴラァ!」
 ひっ、と小さく息をのむ声。彼女は肩を震わせると、そのままその場に泣き崩れた。必
死で何か言おうとしているようだが、しゃくり上げるばかりでまるで声にならない。
 罪の意識に後悔する人間というのは、えてしてこういうものだ。
「よし逮捕だ。川相、犯人見つかったぞ。よかったな」
 事件解決。何やら口やかましく抗議する川相をよそに、財田は館をあとにした。

 ***


430 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (4/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/11/19(日) 22:37:28.12 ID:67i38BXU0
 あくる日の朝。家で晩酌をしている間に川相が片付けてくれる、そう思っていたその事
件は、余計にややこしい様相を呈していた。
「あのメガネ女、話を面倒くさくしやがって。素直にとっ捕まりゃいいものを」
 財田のぼやきに対し、川相が「そうでもありません」と答える。
「その暖野さんなんですけど、色々と有益な話が聞けましたよ。例えばあの館、出入りす
る人間は限られているみたいなんです」
 川相が手帳をめくる。開かれたそのページには、三人の人物に関するメモ書きがあった。

 J・J(本名:峰松男)。男性、二十九歳。バンドのメンバーでドラム担当。ジッパー
定吉とは古い仲で、親友同士だった。ただ飲み会の場などでは音楽談義に熱が入りすぎて
定吉と喧嘩することがしょっちゅう。
 キャンキャン(本名:小津花子)。女性、二十五歳。バンドのメンバーでベース担当。
もう一人の第一発見者で、通報は彼女によるもの。定吉との中が噂されたこともあったが、
事実恋人だったらしい。ただし二ヶ月前に別れたばかり。
 三稲(みいな)レイ。女性、三十一歳。バンド『ヴァンサンカン』のマネージャー。利
発でとても優秀。バンドの成功は彼女のおかげと言っても過言ではない。しかし最近は方
針を巡ってバンドメンバーたちとの間で対立気味。

 一通り目を通したのを確認して、川相が手帳を閉じる。
「容疑者はこの三名と、暖野さんに絞られるんじゃないかと思います」
 それと、あとはモヒカン本人の自殺のセンだな――財田は煙草に火をつけた。
「よし。こいつら全員しょっぴくとして、第一発見者が二人いるってのはどういうことだ」
 財田の疑問に、時系列を追って説明しましょう、と川相は再び手帳をめくりだした。
「昨晩九時、打ち合わせをしていたメンバー二人とマネージャー、それと家政婦の仕事を
終えた暖野さんが帰路についています。これが被害者が目撃された最後の時間です。被害
者の死亡推定時刻が深夜零時前後。誰かが戻って殺害したのでしょう」
 手帳に引かれた時間軸、零時のところに×印を付ける。
「翌朝九時に出勤した暖野さんが、様子がおかしいことに気付きます。施錠された地下室
を勝手に開けていいものかどうか迷い、一番近くに住んでいるベースの女性――キャンキャ
ンさんを呼び出し、一緒に開けたのだそうです。暖野さんは気絶、キャンキャンさんがど

432 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (5/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/11/19(日) 22:38:03.44 ID:67i38BXU0
うにか通報して、今に至るというわけです」
「密室はどうなったんだ」
「発見当初、スタジオには鍵がかかっていました。被害者が個人で練習するためだけの小
さなものですので、他に入り口どころか窓もありません」
 お手上げか。いや、だがしかし――財田の脳裏に引っかかるものがあった。
「おい待て、じゃあ発見したときはどうやって開けたんだ。外から室内は見えないだろう」
「館の鍵の管理は暖野さんが任されていたそうですから、その鍵で」
 財田は煙草の火をもみ消すと立ち上がった。
「決まりだな、奴が犯人だ」
「ちょっと待ってください、彼女には無理です。最初に現場を見て気絶したくらいです」
「そんなもんどうとでもなるだろうが。他に殺せる奴がいないんだから決まりだ。締め上
げて吐かせろ。俺は帰るぞ」
 言いながらせわしなくコートを羽織る。厄介な事件も無事解決。今はとにかく、一刻も
早く酒を飲むだけだ。
 うっとうしい川相の小言を封殺すると、財田は電光石火の勢いで帰路へとついた。

 ***

 財田の予想に反して、捜査はいまだ難航しているようだった。ここ数日は、川相と顔を
突き合わせる日々が続いている。それにもいい加減飽きてきた。
 言われた通り、メンバーの二人とマネージャーに話を聞いてきました、と川相。
「でも何も出てきませんね。誰の証言にも矛盾はなく、それに全員アリバイもないので横
並びです。なにか証拠でも出て来ない限りどうにもなりませんよ」
「あのメガネ女は取っ捕まえたのか」
「ええ。言われた通り容疑者として取り調べてはいるんですが」
 泣いて謝るばかりで、全然話が進まないのだと言う。
「なにちんたらやってんだ。もう一週間もマスコミに騒がれて酒がまずくてしょうがねえ」
 じゃあ手伝ってくださいよ――情けない川相の懇願を、財田は渋々ながら受け入れた。
悪党共の面倒を見るのは嫌いだが、とはいえこんな面倒な事件をいつまでも引きずっても
いられない。財田はまっすぐに取調室へと向かった。中には暖野がいる。

433 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (6/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/11/19(日) 22:38:41.85 ID:67i38BXU0
「おいコラ、いい加減ゲロしろや。もう嘘でも何でもいい。殺しましたって言え」
 財田の一喝に、みるみる暖野の表情が変わった。今にも泣き出しそうな顔で、ただひた
すら「ごめんなさい」と謝っている。
「謝るってことはお前がやったんだな? オラ早く頷け」
「ちょっと財田警部、やめてください! いくら何でも無茶苦茶です!」
 川相が必死に制止しようとする間にも、暖野は謝り倒すばかりだった。見ているだけで
腹が立つ。この女はいつもこんな調子なのか――傍らの川相に愚痴をこぼす。
「いつもはここまで酷くはないんですけどね」
 言いながら暖野の前に腰を下ろす川相。なだめるような調子で語りかける。
「暖野さん、落ち着いてどうか協力して欲しい。あの密室のトリックが解けない限り、あ
なたが犯人ということになってしまうんだ」
「どうして私なんですか、なんで密室なんですかぁ!」
 暖野がぼろぼろと泣きながら答える。財田はいら立ちが限界に達するのを感じた。
「あの部屋には鍵を持ってるお前しか出入りできないだろうが! 殺したのはお前だ!」
「すっ、すいませぇん! ごめんなさぁぁぁい!」
 思わず飛びかかりかけた財田を、必死で抑える川相。その肩越しに泣きわめく暖野の姿
が見えた。なんなんだこいつは。泣き顔の暖野が小声で呟く。
「……でも、その、すいません。あの部屋、誰でも入れるんです」
 財田は耳を疑った。誰でも入れる、だって?
「あ? おい貴様、どういうことだコラ」
「す、すいません! やっぱり密室で結構ですっ!」
 本気ですくみ上がる暖野をどうにかなだめすかし、川相が話を聞き出す。その内容はに
わかには信じがたいものだった。
「おい川相、こんな馬鹿げた話があると思うか」
「確認すれば済むことです。ですが、誰でも出入りできるとなると、犯人を絞り込むのは
難しそうですね」
 首をひねる川相。だが、そのとき再び暖野が意外なことを口走った。財田はもう一度、
自分の耳を疑うことになった。
「あの、えっと、ごめんなさい。犯人、だいたい目星がつくと思うんです」


434 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (7/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/11/19(日) 22:40:07.35 ID:67i38BXU0
***

 財田は再び定吉の屋敷へと戻っていた。館の前には既に人影が見える。J・J、キャン
キャン、三稲レイの三人。いい加減な理由をでっち上げて無理矢理呼び出したのだ。財田
の後ろには暖野がいる。これで役者は全て揃った。
 財田は四人を付き従え、屋敷の地下室へと向かった。殺害の現場だ、普通の人間ならあ
まり近寄りたい場所ではない。事情を聞かされていない三人を代表するかのように、J・
Jが声を発した。
「刑事さん、こりゃどういうことなんだ」
 どういうこともくそもない。刑事なら一度はこういうことをしてみたいもんだろうが。
「なに、犯人がわかったもんでな。あと密室のからくりも」
 その言葉に一同がざわめく。わざわざ人を集めたということは、つまりこの中に犯人が
いるということだ。財田はもっともらしく咳払いをすると、大仰に語りだした。
「きっかけはほんの些細なことです。小さな蜘蛛でした。おい、メガネ女」
 傍らの暖野を小突く。
「その、ごめんなさい、お掃除していると気がつくんですけど、この地下室に蜘蛛の巣が
あったんです。それも結構な頻度で」
 反応を伺いながら、怯えた様子で話す暖野。
「この部屋って完全防音ですから、蜘蛛がはいってくる隙間なんてないはずなんです。出
入りのときに紛れて入ったにしては結構いますし。それで、申し訳ないとは思ったんです
けど、勝手に探してみたんです。そしたら見つかりました」
 天井から、がたがたと物音が聞こえた。しばらくの後、天井の板のうちの一枚がぱかり、
と外れる。その穴から顔を出したのは、川相だ。
「財田警部、通路になっていましたよ。外の物置から繋がってます」
 財田は頷いた。ようするに密室でもなんでもなかったってことだ。
「というわけだ。さてそうなると、犯人はこの通路を知っていた奴ってことになる」
 つまり身近な人間以外には考えられない。財田は周囲をじろりと睨み付けた。全員が驚
いた様子でかぶりを振る。天井の穴からその身を下ろした川相が、口火を切った。
「まあ少なくとも定吉さんは知っていたでしょうね。防音になってない部屋でギターなん
て弾いたら、外に音が漏れちゃってすぐにおかしいとわかりますから」

435 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (8/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/11/19(日) 22:40:48.20 ID:67i38BXU0
 その言葉に、キャンキャンが口を挟んだ。
「ちょっと待って。中にいるんだから、外に漏れるかどうかなんてわからないと思うわ」
 財田は暖野に目をやった。申し訳なさそうに首を振る彼女。
「すいません、だとしても私には聞こるはずなんです。私がお屋敷のお掃除をしていると
きにも、定吉さんは地下室に入って行ったことがあるんです」
 自信なさげな暖野の言葉に、財田が付け足す。
「だがこの女は漏れてきた音を聞いたことがない。つまり定吉は中でギターなんて弾いて
いなかったってことだ」
「つまりアレか、この部屋ははじめからスタジオなんかじゃなかったって言いたいのか。
だがそれならなんのためにこんな部屋が必要なんだ」
 問いつめるJ・Jに対し、暖野はおずおずと答えた。
「目的はあるかと思います。だいたいこの古い館自体が、派手好きの定吉さんの趣味とは
合いませんよね。この地下室のためにこの家を買ったんじゃないでしょうか」
 そこまで言うと、ふいに下を向いて俯く暖野。頬を赤く染め、もじもじとしている。
「その、すいません、なんていうか……定吉さんって大スターじゃないですか。スキャン
ダルは御法度なんです。ましてや、その、人に知られたくない特殊な趣味というか」
 財田は定吉の死に様を思い浮かべた。全身を荒縄に縛られたその姿。あれは犯人の趣味
ではなく、被害者本人の趣味だったというわけだ。
「スタジオで練習のフリをして、外から女を招き入れていたってことだな。ムッツリマゾ
野郎にはうってつけの館ってわけだ。そしてその趣味を知っていて、この館を手配したの
は……あんただったな、三稲」
 重くドスの利いた財田の声。だが意外にも、三稲の表情は涼しげなものだった。
「確かに、定吉にこの館を勧めたのは私ね。でも、こんな通路があったなんて。それに彼
の異常な性癖も初めて知ったわ」
 財田は自分の頬がつり上がるのを感じた。この女、証拠がないのをいいことにシラを切
るつもりだ。だがここからが刑事の本分。犯人を挙げるのに証拠なんてなんの役にも立ち
はしない、自白が一つあれば十分なのだ。あとは取調室で徹底的に締め上げる――。
 指の骨を鳴らしかけた財田を、暖野の声が制した。
「すいません、そんなはずはないんです。三稲さんは定吉さんの趣味を知っていた。彼を
口説き落とすためにこの館を用意したんです。そしてそれは見事に成功した」


437 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (9/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/11/19(日) 22:43:07.10 ID:67i38BXU0
「暖野さん。だから、それは全てあなたの妄想よね」
 三稲のその口ぶりは、誰の目から見ても余裕たっぷりに見えるほどのものだった。
「それよりも暖野さん、通路の存在を知っていたのはあなただけ。それに鍵だって自由に
できる。私に言わせれば、あなたが一番怪しいように思えますけれど?」
「三稲さん。彼女にはこの犯行は不可能なんですよ」
 突然口を挟む川相に、三稲の眉がぴくりと動く。
「彼女は現場を見た瞬間、気絶したんです」
 三稲が鼻で笑う。そのくらい、演技でどうとでも――言いかけたその言葉を制し、川相
がキャンキャンに視線を送った。
「確かに気絶していましたし、理由もあります。私、暖野さんから聞いていたんです。彼
女はとても蜘蛛が苦手だということを」
 初めて知らされる事実に、三稲は少し狼狽したように見えた。だが、それも一瞬のこと。
「それで蜘蛛の巣が気になったってわけね。でも我慢すれば犯行は可能なんじゃないかし
ら。いくら蜘蛛に見えると言ったって、所詮は見立て、本物とは違うでしょう」
「川相」
 三稲が言い終わるか終わらないかの刹那、財田はすぐに声をかけた。無言で手錠を取り
出し、三稲のもとへ歩み寄る川相。
 目を丸くしたままの三稲をよそに、財田は一言、J・Jに声をかける。
「なにか感想はあるか、J・J」
「ああ。その、蜘蛛に見えるとか見立てって部分は、一体どういう意味だい」
 その言葉に、三稲が息を飲むのが聞こえた。これだから刑事は止められない。
「殺人現場の情報なんてものは機密事項だ。ましてやこんな異常な現場となれば尚更のこ
と。まだ何処にも漏れちゃいないし、あの二人も誰にも話してないそうだが……あんた一
体、誰から聞いたんだね」
 冷たい鉄の輪が音もなく、三稲の細い手首を拘束した。観念したような、その微笑。
「随分と探偵ドラマのような演出だとは思ったけど。見事にのせられたってわけね」
「俺は結構楽しんでいたがな。続きは取調室で聞く。川相、任せた」
 これで今度こそ、万事解決。容疑者を連れ、川相が部屋を出る。その背中を不安そうに
見つめる暖野。その肩を、財田はぽんと叩いた。

87 名前:『家政婦探偵みづ江の事件簿』 (10/10) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:06/11/19 22:51:31 ID:hkRyquN4
 ***

 昨晩の酒は格別に美味かったが、そのせいか少々飲み過ぎたようだ。二日酔いに振らつ
く頭を持ち上げ、気を引き締める。目の前にはもはや見慣れた黒縁メガネ。事情の説明と
いうのも中々に厄介な仕事だ。
「三稲な、妊娠していたよ」
 いきなり切り出したつもりだったが、暖野は意外に平然としていた。俯いたまま微動だ
にしない。ひょっとしたら彼女は気づいていたのかもしれない――財田は続けた。
「定吉は自分の子供と認めず、結婚も断ったらしい。それが殺害の動機だそうだ」
 再び顔を上げた暖野の目には、溢れんばかりに涙がためられていた。
「……すみません」
 目元を拭いながら謝る暖野。財田は居心地の悪さを感じ、ついと目を逸らした。こうい
うとき、なんと声をかけたらいいのかわからない。
「謝ってる場合か。あんた、仕事無くなったんだろ」
 コートのポケットに手を突っ込むと、無造作に立ち上がる。こういうときは早いところ
退散するのが上策だ。
「金に困っても盗みはするなよ。もうお前を取り調べるのはごめんだ。どうせやるなら刑
事にしとけ、あんたなら良いセン行くかもしれん」
 財田はくしゃくしゃと頭を掻いた。自分でなにを言っているのかわからなかったが、照
れくさいことだけは確かだ。こういう仕事は、向いてない。今日はもう帰って酒でも飲む
か――その歩みを早める財田の後ろから、声が聞こえる。
「本当にどうも、すいませんでし――」
 言いかけた言葉がふと途切れ、しばらくの間。再び聞こえてきたのは、思いもしない一
言だった。
 ――本当に、ありがとうございました。

 例を言われる覚えはない。でも、彼女は笑顔になれただろうか。もっとも――それを確
認するのは、刑事の仕事ではないが。

<了>



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