【 希望をつむぐのは誰のためでもなく 】
◆D7Aqr.apsM




457 名前:希望をつむぐのは誰のためでもなく 1/9  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/11/19(日) 22:58:57.84 ID:Wu0gjPdq0
 ガラスで隔てられた部屋は、白とステンレススティールの銀の世界だった。
向こう側の音は全く聞こえない。集中治療室の中ではかなりの台数の機械が動いている
はずだが、音一つ伝わってこなかった。
 無表情な色彩の中で、ただ一つ、壁に掛けられた青い瞳を持つライオンの紋章が場違いだった。
 集中治療室にいる患者達は、チューブや機械につながれ、ベッドに横たわっている。

 廊下からその部屋を見守る中に、一対の青い目があった。黒いレザージャケットに
ブーツ、ジーンズという服装は、廊下を足早に歩く病院関係者の中で浮いて見えた。
長い金髪は、無造作に無骨なジャケットの背中に垂らされている。
「必ず仇は取ってやる」
 シンシアは小さくつぶやくと、背後に気配を感じて振り返った。
「お友達ですか? ――残念だけど、今は中に入れてあげられないの」
 ファイルを抱えた看護士が立っていた。無言で肯き、部屋へ目を戻す。
「ふん、民を守る王家の獅子か。現に守れなかった者達がこうしているではないか」
 吐き捨てるように言う。何か言いたげな看護士を残して、エレベーターホールへと向かった。

「シンシア。よろしいですか?」
 病院のロビーに立っていたダークブラウンのパンツスーツを身につけた女性が、シンシアに並び
歩きながら、声をかけた。
「よろしいもよろしくないもない。彼は機械のコードやチューブに絡め取られて、真っ白に見えるくらい
包帯でぐるぐる巻きだ。表情なんてものもマスクで見えないときている。しかも治療じゃないぞ?
延命でしかない」
 パンツスーツの女性は、悲しげに目を伏せた。エントランスのドアを開け、先に外に出ると、
シンシアを待って歩き始める。
「すまない。八つ当たりだ。フェーイ、許せ」
シンシアが小さく頭を下げた。十六歳の顔は、沈んでいた。
「いえ」短く答えると、フェーイは空を見上げる。
「時間だ。いこう」
 シンシアも赤い空を見上げた。大きな太陽がすすけた街の向こうに沈もうとしている。
 もうすぐ夜がはじまる。

458 名前:希望をつむぐのは誰のためでもなく 2/9  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/11/19(日) 23:00:17.37 ID:Wu0gjPdq0
 誰もが、戦後という言葉をためらいもなく使った。
 敗戦の後、戦勝国の連合統治を受け入れ、責任を全て軍に押しつけた結果、辛くも体制を
維持したこの国は、少しずつ復興の階段を上りつつあった。まるで、何事もなかったかのように、
全てを忘れようとするかのように。暗い場所から目をそらすように。
 艦砲射撃によって、壊滅的な打撃を受けた湾岸部のビルはその傷跡を生々しく晒している。その脇
にある、敗戦後に最優先で整備された湾岸道路を、シンシアとフェーイの乗ったワンボックスカーは
進んでいた。太陽は海にしずみ、夕日の残光がかろうじて空と海に残っていた。シンシアは中空に
浮かぶ携帯電話基地局用の飛行船が、赤いランプを灯しているのを助手席から見上げていた。
 敗戦は、この国の中に戦勝国の連合軍が駐留するという状況を生み出し、主権が返還された
後も引き続き維持された。治安維持、というのがその名目となっていたが、往々にしてこの国の
警察機構との勢力争いの為のいざこざが多発し、国民に不安を与える元になることが多かった。
 信号が壊れたまま放置されている交差点を曲がり、海沿いの道から離れると、シンシアは窓を開けた。
廃墟となった倉庫街のその向こう側がぼんやりと明るく光っているのがみえた。時折、風に乗って
一般車とは明らかに違う排気音が聞こえる。軍の空港跡地。閉鎖されたその場所を二人は目指していた。
「結構な台数が出てますね」
 フェーイは雄志の手によって瓦礫が撤去された駐車場へ車を乗り入れた。あたりはヘッドライトの
白い光と、テールライトの赤に埋め尽くされ、タイヤが焼けこげる匂いが漂っていた。ここにいる
車のうちのほとんどはギャラリーだが、それでも二輪四輪合わせて数十台の『レーサー』がいた。
 ルールは単純だった。この空港跡地の外周路をぐるりと一周してどちらが早くゴールするか。そして、
その対戦は往々にして、駐留軍している軍関係の人間と、この国の人間で行われる事が多かった。
速い奴には敬意が払われ、負けた奴にはそれなりの称賛が与えられる。そして、卑怯な走りは双方
からの手痛い処罰が下された。
「あの、くどくなりますが」
「無理はしない。マシンを壊さない。負けても泣かない。……なんなら額にでも入れ墨にするか?」
「それではご自分で見えません。マシンに書きたいくらいですが、それは止められました」
「まあ、そうであろうなあ。世が世なら国宝になってもおかしくない逸品だ」
 フェーイはくすり、と笑ってマシンを降ろすために車外へ出た。
 シンシアは足下に転がしておいたヘルメットバッグからヘルメットとグローブを取り出す。
クラシカルなストライプの入ったそれを、抱えるように持って深く息を吐いた。
きつく目を閉じる。ふるえを押さえるために。

460 名前:希望をつむぐのは誰のためでもなく 3/9  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/11/19(日) 23:01:47.32 ID:Wu0gjPdq0
「ひぁカムザにゅーチャアアアアアんプ! なんだなんだぁ ! どっからきたそのマシン!
ウィンカーもナンバーもない、どっからどーみてもレーサーそのまんまです。本当にありがとう
ございましたっ! これまで生きてきてこんな化け物見た事ねえ! ってたかだか十二年。短い? ダメ?
ああんもうっ。許してお兄ちゃん! でも、好きなのっ! これっていけないこと?
えー。……さて、と。次の挑戦者はー? いないのー? コンジョーなしー!」
 シンシアは車体を片足で支え、傍らに立つフェーイに小声で声をかけた。
「あれは、なんだ?」
「レースオーガナイザーのアリスさんだそうです。このレースの仕切り屋ですね」
「や、それはわかるんだが。なんで、学校指定の水着……しかも、どう見ても子供だぞ?」
「なんか、人気らしいです。これ、ブロマイドも売ってました。水着はレースだと伝統らしいのですが」
 三回のレースをこなした時点でシンシアは負け知らずだった。チューンしてあるとはいえ、
市販車両をベースに改造したものと、パーツというパーツを軽量化し、部品の個体差を可能な限り無くした
レーサーではその差が出て当然だった。シートの下、今はスタートラインの手前。
エンジンは乾いた音を立ててアイドリングしている。車輪の横と四本のマフラーから、青白い煙が
はき出されていた。
 シンシアはゴーグルと、口元を隠しているバンダナを引き上げた。レーサーには不似合いな装備だが、
顔を完全に覆うタイプのヘルメットはどうしても好きになれなかった。ここで顔を晒したくはない。
髪の毛はレザージャケットの中にたくし込んで隠している。
 ギャラリーは、興奮しながらも遠巻きにコース上にいるシンシアとフェーイを見守っていた。
レーサーがコースにいる間は、関係者以外はコースに入らない、という不文律を守っているのだ。
「ねーまじで誰もいないのー? いないならアリス帰りたいんだけど。宿題とかやってないしー」
 アリスがマイクコードを持ってぐるぐるとマイクを振り回しはじめる。退屈そうだ。
 その時。うおおっ! という歓声がギャラリーの後ろから上がった。一斉に人が道を空け始める。
 低い、明らかにこれまでと異質なエンジン音が近づいてきていた。
 複眼のように見える異形八灯の丸いライトがシンシアを照らし出す。アクセルの空ぶかしが繰り返される。
低く、横幅の広い車体は黄色に塗り上げられていた。そして、その車には屋根が無い。オープンカー。
 コースに入ってきた車は最後にタイヤを空転させてシンシアのオートバイの横に車体を並べた。
ゴムの焦げる匂いが鼻につく。
「トライデントGTスパイダー……」シンシアは低くつぶやき、運転席のあたりをにらみつけた。
 ゴーグルのレンズ越しにフェーイと視線をかわす。フェーイは肯いてコースから離れた。

461 名前:希望をつむぐのは誰のためでもなく 4/9  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/11/19(日) 23:03:04.32 ID:Wu0gjPdq0
 コースは右回り。挑戦者のスタート位置は必ず右側がルール。
 シンシアの右側につけたトライデントのドライバーズシートに座っているのは、女性だった。
「こんばんわ。レースの条件は一つだけ。あなたが勝ったら私を自由にしていいわ。私が勝ったら
あなたのその素敵なマシンをもらうわ」
 無言でアクセルを大きく開けるシンシア。
 甲高い排気音があたりに響き渡り、排気管から盛大に煙が吹き出した。
「いいみたいね? アリスちゃん。頼むわ」
 二台の間に立っていたアリスがにっこりと笑った。
「おっけー! クイーンとルーキーの闘いだぁ! ワンオンワン! マウストゥマウス! 
盛り上がってまいりましたぁ! ど、どきどきしてる! 胸が痛い――これが、恋? 
っていうか。最近服とこすれてまじ痛いんだよね……どうしたらいい? お兄ちゃん?」
 アリスは胸にマイクをかき抱いて体をくねらせた。ギャラリーが盛大にヤジを飛ばす中、シンシアは
ため息をついた。そこかしこに見慣れた顔がある。連合軍の兵隊や、警察の人間達だった。
完全に彼らはこのレースを故意に見逃している。ちょっとした無法地帯だ。
 ――ガス抜きの為か……それとも、ここ自体に何らかの意味があるのか。
 シンシアはもう一度、トライデントの運転席を横目で睨んだ。
 ――落とし前をつけさせてもらう。
 病院の集中治療室。チューブや機械の配線にがんじがらめにされている元レーサー。彼らは全て、
トライデントGTスパイダーに乗り、クイーンと呼ばれるレーサーに負けた後、瀕死の状態で
見つかっていた。

「なぁーうヒィぁかむザファイナーッる! みんな、一緒にイこうね?
オンユアマーク……セット。 レディ?」
 アリスは二台の間に立ったまま、片腕を夜空に向けてまっすぐ振り上げた。弓のように体が反る。
 二つの対照的なエンジン音があたりをふるわせた。トライデントはアクセルにブレーキが負けて
じりじりと車体がにじり出始めている。シンシアは無心にアクセルをアオリながら、アリスの手を
見つめていた。
「ゴゥッ!」
 勢いよく手を振り下ろしながらアリスがしゃがみ込む。
 その横を二台のマシンがタイヤを軋らせながら飛び出していく。

463 名前:希望をつむぐのは誰のためでもなく 5/9  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/11/19(日) 23:04:20.28 ID:Wu0gjPdq0
 車体に無理矢理くくりつけたライトが照らし出すコースは、幻灯機に現れる風景のように、
ぼんやりとしていて、どこか懐かしささえおぼえた。現実味のない風景。現実的ではない速度。
コーナーにさしかかる。シンシアが人差し指で軽くレバーを握ると、前輪のサスペンションが
沈み込む。路面に砂が浮いていれば、それだけで死ぬには充分だ。タンクの上に伏せたまま、
カーブの出口を睨む。アクセルを開けるとずるずるとタイヤが滑っていくのを体で感じた。それを
微妙な体重移動とハンドル操作でごまかしながらスピードを乗せていく。その繰り返し。
 車体の割に小さな八個のライトが、シンシアの背後に迫っていた。トライデントのドライバー、
クイーンはシンシアの腕前を計るかのように後ろに張り付いている。所々街灯が欠け、路面の状況が
読めないこのコースであれば、先に走っている車についていく方が圧倒的に楽だ。しかも、
トライデントはまだまだそのパワーを出し切っていない。
 コースの半ばを過ぎ、大きなカーブの手前でシンシアは揺さぶりをかけることにした。ぎりぎりまで
ブレーキングを遅らせる。風防に潜り込むような体勢から、一気に体を起こす。風圧に体がもっていかれ
そうになるのを必死にこらえながらブレーキング。後輪がロックして悲鳴のような音を上げる。
ほとんど前輪だけでカーブを曲がり終える。つづいてトライデントがカーブへ入る。完全にオーバー
スピードだ。直線を加速しながらシンシアはバックミラーに目をやった。あの角度であれば、
アクセルは開けられない。これで突き放せる――。シンシアがそう思った瞬間、トライデントが
吼えた。車体があり得ない角度に向きを変え、そのまま加速しはじめる。タイヤではなく、まるで
ボールの上に乗っているかのような動き。
 ――小細工無し、一発勝負だ。
 シンシアがトライデントを引き連れたまま最終コーナーへ向かった。奴が仕掛けてくるのもそこだろう。
 緩い左カーブから連続して、大きな右カーブへとつながる最終コーナー。
 シンシアは左カーブに突っ込みすぎたフリをしてトライデントに有利なラインを開けた。黄色い車体が
横に並んでくる。このまま行けば右カーブで内側を回るトライデントが優位だ。同じ速度でコーナーへ
入れば、外側にいるシンシアははじき出されるかブレーキをかけるしかない。
 早めにシンシアは伏せていた体を起こした。少し遅れてトライデントのブレーキランプが光る。
 するするとシンシアが前に出て行った。
 ブレーキトラップ。原始的な手だが、有効な時もある。特に、相手がこちらの出方をうかがっている
場面では。シンシアは体を立てたまま、更にアクセルをひらいて最終コーナーへ飛び込んでいった。
トライデントが慌ててあとを追う。
シンシアは体をタンクに預け、ひたすらにアクセルを開けた。ゴールへ向かって。

464 名前:希望をつむぐのは誰のためでもなく 6/9  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/11/19(日) 23:04:56.67 ID:Wu0gjPdq0
「まけちゃったわね」
 トライデントから降りてきた女性はぺろり、と小さく舌を出した。
 肩までの緩くウェーブがかかった髪、白いカットソーとブルージーンズ。車の豪勢さに比べて
服装はシンプルだった。シンシアはシートにまたがったまま、無言で見つめ返した。
「……じゃ、行きましょうか? オートバイはお友達に預けたら? それ、さすがに街中は
走れないでしょう?」
 復興の途中とはいえ、ウィンカーもナンバーもついていないオートバイで街中を走れる訳がなかった。
そこまでは見逃してもらえない。シンシアはマシンをフェーイに預けた。ドアを開け、ゴーグルも
ヘルメットもつけたまま、トライデントの助手席に乗り込む。
 クイーン、と呼ばれた女性は何か問いかけたげな視線をフェーイに向けた。
「恥ずかしがりなんですよ。くれぐれも優しくしてあげてください」
オートバイを支えながらフェーイが返すと、肩をすくめて運転席へ乗り込んだ。

 トライデントはコースを後にすると、ゆったりした運転で裏寂れた旧市街へ入っていった。
深夜のひっそりと冷たい空気が、オープンカーの座席を吹き抜けていく。二人とも無言だった。
 裏通りをいくつも曲がり、小さなビルの前で車は止まった。
「ここなんだけど。いい?」
 シンシアは無言で肯いた。お椀型のヘルメットが、シートのヘッドレストにぼすん、と当たる。
苦笑しながらクイーンは車を地下駐車場へと進めていった。白い、簡素なライトが照らし出す
駐車場に無造作に車を止めると、鍵も閉めずそのまま歩き始める。シンシアが振り返ると、駐車場の
入り口はシャッターが降りはじめていた。
 白熱球がぶら下がったエレベーターを下りると、クイーンは小さな部屋に入った。シンシアもそれに続く。
テーブルとベッド。小さな冷蔵庫。奥に見えるのはシャワールームだろう。小さな電灯がいくつか天井から
さげられ、部屋を照らしていた。
「ねえ、そろそろ取ったら? ……まさかそのままがいい、って訳じゃあないわよね?」
 ベッドに座り、足を組むとクイーンはシンシアを見上げた。
 グローブを外し、ヘルメットとゴーグル、バンダナをむしり取る。
 レザージャケットの背中に隠していた髪の毛を抜き取り、ばさり、と頭を振った。金色の髪が
電灯の明かりに照らされて光った。クイーンはジーンズのポケットから取り出した煙草をくわえたまま、
それを眺めていた。

466 名前:希望をつむぐのは誰のためでもなく 7/9  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/11/19(日) 23:05:33.85 ID:Wu0gjPdq0
「あら。可愛らしい子だなあ、とは思っていたけど。女の子だったの? うーん。わたしはどっちでも
かまわないんだけど、いい? ……意味は、わかるよね?」
 クイーンは少し首を傾けて、シンシアの顔を見上げた。
「名前を、教えていただけるだろうか」
 ベッドに座ったクイーンと相対するように立ったシンシアが尋ねる。
「そういう手順、大事にする人なの? そうね、じゃあ、パメラなんてどうかしら? あなたは――」
「尋ねたいことが二つある」シンシアはパメラの言葉を遮った。「これまで、あなたに勝ったレーサー達が
今どうしているか知っているか?」
 パメラはゆっくりと煙草に火をつけた。ベッドの下から灰皿を取り出す。
「ちょっと仲良くしただけ。後は知らないわ。……あなた、誰かの妹さん? こういう関係って
まだ理解できないのかな」
「関係は理解している。あなたは捕食者で、彼らはあなたに喰われた。そして、もう一つ尋ねたいのは」
 シンシアはグローブを握りしめた。
「あなたの『子供達』はどこにいる?」

 瞬間、パメラの体が跳ね上がった。手には無骨な黒い塊。小型の拳銃、と気づく前にシンシアは
彼女の懐へ入り込んだ。突き出された腕を取ると、腹に肘をめり込ませ、そのまま床へ叩き伏せる。
拳銃は乾いた音を立てて床を滑っていった。
「早く言ってくれ。国は、あなたの『子供達』を助けなければならない」
 シンシアは馬乗りになったまま、パメラの体を押さえつける。
「子供はいないわ。そんな年に見えるのかしら?」
 パメラはうそぶいた。口の端に血が流れている
「大戦中、国内の研究機関が一部の軍からの命令を受け、ある研究を行った。内容は薬物投与による
人間の強化だ。一般に向けては、理論研究のみで実質的な実験までは踏み込まなかった、と
言われているが。しかし実験は行われていた、それがあなたの『子供達』の正体だ」
 手と両膝を使ってパメラを押さえ込んだまま、シンシアは続けた。
「その実験データを握っている生き残りは、貴方だけだ。それに関して国と――戦勝国側は、手を
結んだ。その上で、あのレースで、あなたが餌をとる事を黙認したんだ」
「何を訳のわからないことを」
「一人、生き残った。偶然だったのだがな。まだ生きてる」

467 名前:希望をつむぐのは誰のためでもなく 8/9  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/11/19(日) 23:06:15.62 ID:Wu0gjPdq0
 背後でドアが開く音がした。
「シンシア」
 フェーイが拳銃の銃口を天井に向けて部屋に入ってきた。そのままパメラに照準を合わせる。
「助けることなんて、できないわよ。副作用は誰にも押さえられない。あの子達には内臓が必要なのよ。
もう、誰にもできないの。私たちは喰らいつづけていくしかないの」パメラは銃口を無視した。
シンシアをにらみつける。シンシアは押さえつけていた手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「口では何とでも言えるわよね。で? あなたはどこの人なわけ? 警察?」
「確かに――内臓をくれてやるわけにはいかない。それでも、できる限りの事はしよう。事実を
教えて欲しい。そうすれば」
「どうやって、それを信じればいいわけ?」
「シンシア・ユージーン・ラッテンスレガー。わたしの名と、獅子の紋章にかけて」
 シンシアは胸元からペンダントヘッドを取り出す。青い瞳の獅子が宝石と金細工で浮かび上がっていた。
この国の国民であれば、誰もが知る紋章。国の礎を造り、今では議会に執政権を譲ったものの、なお
国民の尊敬を集める王族のもの。パメラは獅子の瞳ににらみつけられ、息をのんだ。
「すまんな。驚かせるつもりはなかったんだが。あなたが知ってのとおり、この国が戦火に焼かれた時、
わたしは他国に足止めされていた。何の責務も果たせずに。これが罪滅ぼしにならないのは解っている。
ただ、この期に及んで、わたしは自国の国民が傷つくのを見たくないのだ。わがかまを許して欲しい」
 シンシアはパメラに向かって頭を下げた。

 フェーイが銃を構えたまま、イヤフォンに手をあてた。無線が入っているらしい。
「――了解。保護を続けて。シンシア。階下で『子供達』の保護を完了しました。三人のうち二人は
安定していますが、もう一人は容態がよくありません」
「今回は、それでここに直接連れてきたわけか」
「――連合軍と警察が、黙っていると思う? 一部の政治家も関わっているのよ?」
「その辺は、おいおいな。王家はな、世間知らずなんだ。多少の横車は押させてもらおう。
すまんが、安全が確保されるまで、いっとき自由を奪わせてもらう。あなたは近衛兵団に
捕縛された事になる。これで当座は誰も手出しできない」
 フェーイから手渡された手錠をパメラにかけると同時に、部屋に数人の男達が入ってきてパメラを
連れ出して行った。銃に安全装置をかけて、フェーイがため息をつきながら、左脇に吊った
ホルスターに銃をおさめた。ふうっ、と大きなため息をつく。

468 名前:希望をつむぐのは誰のためでもなく 9/9  ◆D7Aqr.apsM 投稿日:2006/11/19(日) 23:06:57.10 ID:Wu0gjPdq0
「とりあえず、一段落ですが……思ったよりも根が深そうです。色々な者達が関わっているみたいで、
かなり複雑ですよ。意外な大物の名前も出てきてるみたいです」
「糸が絡まりすぎてるなら、正面突破だ。真ん中を切ればいい。たとえばそれが王室であっても」
「王位継承権者が恐いこと言わないでください」
「たかだか第十二位だ。気にするな」

 シンシアはぐるり、と部屋を見回した。
 何もない、眠るだけの部屋。この場所で彼女は、何を待っていたのだろう。全ての終わりか、
それとも――新しい希望か。
 自分に解るわけがない。シンシアはドアをそっと閉めた。

 建物の外に出ると、数台のバンに別れて近衛兵団が走り去る所だった。シンシアはそれぞれに
小さく敬礼送ると、一台の車に目をとめた。黄色いトライデントGTスパイダー。地下駐車場に
おかれていたはずの車が、エンジンを静かにアイドリングさせていた。
「トレーラーが出払ってるとかで。王城まで陸送することになりました」 フェーイが笑う。
「人手が足りてないのだから、致し方ないな」シンシアはドアの上に手をつき、飛び越えるようにして、
助手席へ乗り込んだ。
「お行儀がわるいですね」
「映画で見てね。一度やってみたかったんだ」
「すみません。実はわたしもさっきやりました」
 ぽつり、と水滴がフロントガラスにあたる。
「雨ですね。幌をしめましょう」フェーイは発進させようと入れたギアをニュートラルへ戻した。
「放っておこう。なんせスパイダーだ。幌だって簡易なものでしかないだろうし。
……それとも、本降りになる前に王城までたどり着くなんていうスピードで
こいつを走らせるのは、フェーイには無理かな?」
 フェーイはにやりと笑うと、返事の代わりにギアを一速へ叩き込んだ。アクセルが
大きくあけられ、盛大にホイルスピンをして車は走り出した。
 シンシアは金色の髪を、ポケットに入れておいた髪留めで止め、シートに座り直した。
 まだ明けない夜の街を、車は走っていく。
 青い双眸は、その闇の向こうを見ていた。



BACK−家政婦探偵みづ江の事件簿 ◆wDZmDiBnbU  |  INDEXへ  |  NEXT−勝てない戦 ◆hqr855lGDg