【 草刈家の兄妹喧嘩 】
◆xZX.1KPwQU




319 名前:草刈家の兄妹喧嘩(1/6) ◆xZX.1KPwQU 投稿日:2006/11/19(日) 19:22:39.77 ID:xHnzmaKa0
 その日の朝、草刈ユキヒロ中学一年生が目覚めて真っ先に発したのは、「おはよう」でも「あと五分」でも
なく、大音量の悲鳴だった。心地よい朝の空気を台無しにする、絹を裂くような男の悲鳴。
 ユキヒロに悲鳴を上げさせた元凶である草刈こずえ小学五年生は、兄が慌てふためくさまを見てしてやった
りという顔になった。ショートカットの下にある得意げな顔は普段なら可愛いと言うのもやぶさかではない。
しかし今のユキヒロにとっては最高に癪に障る顔だ。こずえがもう一匹の蜘蛛を盾のように自分の目の前に掲
げてさえいなければ、ユキヒロはすぐにでも重量、時間無制限の一本勝負を始めていたに違いない。
「おっ、お前、こずえ。朝から何するんだよ!」
「へっへっへー。この前あたしのプリン勝手に食べた仕返しだもんね」
「だからって僕のベッドに蜘蛛を放り込むことはないだろっ」
 ユキヒロは蜘蛛が大の苦手だった。昆虫類やダンゴムシ、ムカデなど似たような形状、雰囲気を持つものは
おおよそ平気なのだが、蜘蛛だけはピンポイントでだめなのだ。
 もっとも、目覚めてふと横を見たら蜘蛛が添い寝をしていましたというシチュエーションでは、特別蜘蛛が
嫌いではなくても平静を保っていられるかは怪しいものだが。
「なによ、本当はお兄ちゃんが寝たすぐ後で蜘蛛を放り込んでおこうと思ったけど、そこまではしなかったん
だからね」
 なんて恐ろしいことを考えるんだこの妹は。ユキヒロは精一杯妹を睨みつけようとしたが、妹の手にある蜘
蛛がどうにも気になって今一つ迫力のある表情が出せない。
「それじゃ、朝ごはんできてるから早く降りてきてね」
 プリンの仕返しをして気が晴れたのか、こずえはにっこり微笑むと軽やかな動作でユキヒロの部屋から出、
リズミカルな足音を立てて階段を下りていった。ユキヒロが引き止める間もなかった。
「こっ、この蜘蛛を片付けてからいけええええええぇっ!」
 今日も草刈家は賑やかだ。

「くそう、こずえのヤツめ。何も蜘蛛をベッドに入れなくてもいいだろうに」
 ブツブツとつぶやくユキヒロは、さっきから英語の古田先生にマークされていることには気づいていない。
 ちょっとプリンを食べただけだし、あれだって僕としては借りただけのつもりで後でこっそり返しとくはず
だったんだ。それなのによりによって僕が大の苦手な蜘蛛を使って仕返しだなんて。ようし、お前がそう来る
なら僕にだって考えがあるんだぞ。

320 名前:草刈家の兄妹喧嘩(2/6) ◆xZX.1KPwQU 投稿日:2006/11/19(日) 19:23:28.22 ID:xHnzmaKa0
 ユキヒロはくっふっふっと悪人にしか見えない忍び笑いをもらした。朝の一件でへっへっへと笑ったこずえ
と似たような顔になっているあたりはさすが兄妹と言っても差し支えない。もしも当人たちにこの事実を話し
たら、きっとお互いを指差して「僕は(あたしは)こずえ(お兄ちゃん)みたいなあくどい笑い方はしないっ」
と言うに決まっているのだろうが。
「草刈君、次の段落の訳を」
 唐突に、少なくともユキヒロにとっては唐突に、古田先生から指名された。え、なんで。今日は七日だから
出席番号七番の川辺が当たる日じゃないの。そもそも次の段落って、あれ、今どこやってるんだっけ?
「草刈君、授業を聞いてなかったのかな?」
「・・・・・・はい、すみません」
「困るな、そんなことじゃ。次回の授業では必ず当てるからしっかり予習しておくように、わかったね」
「は、はい」
「よろしい。では、次の訳を・・・・・・」
 次の授業での一位指名と引きかえに何とか解放してもらえた。古田先生は気分屋なところがあって、機嫌が
悪いときは授業態度が不真面目だった生徒に長々とお説教するという習性がある。今日は比較的古田先生の心
のうちは穏やかだったようだ。ユキヒロはほっと胸を撫で下ろした。
 それでも、家に帰ってからやらなければならない予習の量を思い浮かべてゲンナリとなりつつ、ユキヒロは
懲りずに対こずえ用の作戦を再び練り始めた。もしもまた古田先生に見咎められたら、今度こそ寸毫の余地も
なく説教コースにご案内されるのだが、今のユキヒロはそこまで気が回っていない。
 そう、そうだ。僕が蜘蛛が苦手なように、こずえにも苦手なものはある。
 蛙だ。
 僕が今朝どんなに恐ろしい思いをしたか、こずえにもわからせてやる。お前は僕を怒らせたっ。
 その時、授業終了を告げるチャイムが鳴った。
「あー、今日の授業はこれまで。次は今日の続きから。・・・・・・それと草刈君」
「は、はいっ?」
「君は今日の授業中ずっと、教科書を睨んでたり、かと思えば急にニヤニヤしたりで、全然勉強に身が入って
ないようだな。放課後、私のところまで来なさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい」
 古田説教コースご一名様ご案内。教室のあちこちからクスクス笑いが漏れていた。
 くそ、これも元はといえばこずえのせいだ。

321 名前:草刈家の兄妹喧嘩(3/6) ◆xZX.1KPwQU 投稿日:2006/11/19(日) 19:24:06.32 ID:xHnzmaKa0
「いやあああああああああああああああぁぁっ!」
 次の日の朝も、草刈家には悲鳴が響き渡った。絹を裂くような少女の声。
 作戦成功の知らせを聞きつけて、ユキヒロがこずえの部屋に入ってきた。
「爽やかなお目覚めだな、こずえ」
「な、ななな何が爽やかよこのバカ兄っ。なんであたしの部屋にか、かか蛙がいるのっ」
 こずえは既に半泣きだ。平時なら「乙女の部屋に勝手に入ってこないでよバカ兄っ」となるはずだが、さす
がに今はそんなことにまで気は回らない。
「きっとその蛙はこずえのことが好きなんだよ。で、最初はラブレターを出そうと思ったけど、蛙は字が書け
ないから直接熱い想いを」
「バカなこと言わないでっ! どうせお兄ちゃんがあたしの部屋にこっそり置いたんでしょ!」
 蛙を直視しなければ兄に向かって怒鳴るぐらいはできるらしい。昨日のこずえと違い、ユキヒロは予備の蛙
を用意していないので、彼の方を見るなら障害は何もない。
 しかし、こずえが座っているベッドのすぐ横にあるサイドテーブルには、紐でつながれた蛙がくりくりとし
た瞳でこずえを見つめているので、彼女としては内心気が気ではない。まさか跳びかかってくるなんてことは
あり得ないと思うが、それでもこずえは蛙が紐を引きちぎり彼女の顔面に跳躍するという想像を振り払えない。
 時々思い出したかのように恐る恐る蛙の方を見、蛙と視線が合うと、見るんじゃなかった! という感じで
若干青ざめた顔を正面に向けて兄を睨んでいた。
 言うまでもないが、蛙に紐をつけて行動範囲を制限したのは、ユキヒロのわずかな気遣いである。蛙がこず
えの部屋で自由闊達に飛び跳ねた挙句行方不明になってしまうと、こずえに泣きつかれた母の命令で蛙の捜索
をさせられるのが確実だから、という打算的な理由もあるが。
「わかったか、お前が僕にしたことがどんなに嫌なことか」
「うるさいバカ兄っ、元はと言えばプリン食べたのが悪いんでしょっ」
「それはそのうち買い直してやるよ」
「そのうちっていつよー」
「そのうち」
 ユキヒロは言いながらサイドテーブルの手前まで来ると、蛙を掴んだ。体を戒めている紐をほどきにかかる。
「な、なにするつもり……」
「これを回収するんだよ。それともこのままがいいか?」
「嫌っ!」
 ユキヒロは手際よく蛙を回収した。

322 名前:草刈家の兄妹喧嘩(4/6) ◆xZX.1KPwQU 投稿日:2006/11/19(日) 19:25:09.01 ID:xHnzmaKa0
 そしてそれをいきなりこずえの目の前につきつけた。
「いやあああああああああああああああぁぁっ!」
 二度目の悲鳴。昨日のユキヒロのものとあわせると都合三度目。そろそろご近所からの不審度がボーダーラ
インを振り切りそうだ。
「ほー、先月のアマガエルよりも今回のウシガエルの方が驚いてるな。やっぱ、大きい方が嫌なんだ」
 古田先生から指導を受ける原因になったくふふ笑いをする。
「それじゃ、朝ごはんできてるから早く降りてきてね」
 ユキヒロはそう言うと軽やかな動作でこずえの部屋から出、リズミカルな足音を立てて階段を下りていった。
残されたこずえはしばらく怒りに身を震わせてから、一気に感情を爆発させた。
「こっ、このバカ兄いいいいいいいいいいいいいいぃっ!」
 今日も草刈家は賑やかだ。

「さて、もう一匹ぐらいウシガエルを調達しておかないと……」
 昨日に引き続き、ユキヒロはぶつぶつ呟いていた。
 こずえの性格はよくわかっている。あいつは兄妹喧嘩になった時には自分の被害を拡大解釈した上でハンムラ
ビ法典を適用するようなヤツだ。きっとまた蜘蛛で攻撃してくるに違いない。今度は本気で僕が寝た直後にベッ
ドに蜘蛛を入れ、朝起きた時に僕が最初に目にするのは、寝返りによって無残に潰された蜘蛛の死がいかもしれ
ない。そんなのは絶対にごめんだ。
 これを防ぐにはどうしよう。ユキヒロは熟考した。考えろ、何かいい方法がある。考えろ、考えろ……
「そうだ!」
 名案が閃いたユキヒロは不覚にも叫んでしまった。なお、今は授業中である。数学の小林先生が眉毛をぴくぴ
くさせながらユキヒロを睨んだ。まずい、火山が噴火する。
「ごっ、ごめんなさい。ちょ、ちょっと考え事をしていました……」
「そうか。草刈は考えるのが好きなんだなぁ。お前だけ宿題追加しとくぞ」
 教室の中に広がるクスクス笑いに頬を紅くしながら、ユキヒロは思いついた作戦を反芻した。

 今夜のうちに家の至る所にウシガエルを仕掛けておく。

 これでいくしかない。家のどこにいても大の苦手がゲロゲロ言ってれば、きっとあいつは僕に対してまともな
反撃なんかできやしないだろう。待ってろよこずえ、今回は僕の勝ちだ。ユキヒロは心の中で高笑いした。

323 名前:草刈家の兄妹喧嘩(5/6) ◆xZX.1KPwQU 投稿日:2006/11/19(日) 19:26:34.14 ID:xHnzmaKa0
 その日の夜。ユキヒロがベッドに寝そべってマンガを読んでいると、ドアが控えめにノックされた。
「お兄ちゃん。ちょっと、いいかな……」
 なんだかしおらしい声だ。こずえはわりと熱しやすいが冷めるのも早い。もしかして仲直りしに来たのだろう
かとユキヒロは思った。朝の一件がよほどこたえたのかもしれない。そう考えてみれば、確かにあれはやり過ぎ
ちゃったかもしれないなあ。もしもこずえが謝りに来たんだったら、僕も謝ろう。
 鞄の中には彼がトラップ用に調達してきたウシガエルが五、六匹ほど隠されてはいたが、ユキヒロはそれを取
り出すようなことはせず、かわりに妹を迎え入れるためドアを開けた。

 こずえが蜘蛛を抱えて登場した。

「なっ、な、な、おまっ」
 ユキヒロは完全にパニックに陥ってしまった。防衛手段のこともすっかり忘れていた。ベッドの上で腰を抜
かしたユキヒロには構わず、こずえは「入るねー」と軽く言うとユキヒロの部屋に入り込んだ。蜘蛛を抱えな
がら。
「へへー、いいでしょーこの蜘蛛」
 こずえはどこまでも嬉しそうに笑っていた。
 対照的に、ユキヒロの顔は恐怖のあまりもの凄いひきつり方をしていた。医者に見せたら顔面神経痛あたり
の診断を下しそうだ。
「なっ、おまっ、そんな蜘蛛っ」
「凄いでしょ、こんな大きな蜘蛛がいるなんてびっくり」
 こずえは抱えている蜘蛛を見やった。
 ユキヒロにしてみればびっくりなどとっくに通り越して恐怖真っ只中だし、他の人にとっても普通はびっく
りで済むようなことではない。
 確かに脚は八本で細長いし、胴体は頭胸部と腹部の二つから成っているようだし、顔は普通の蜘蛛の拡大立
体映像がこれだと言われたら一発で納得するような、要するにその生き物は蜘蛛のように見えるのだが。
 いくらなんでも全長がアルトリコーダーと同じぐらいのそれを素直に蜘蛛と呼ぶのは抵抗があるのが普通だ。
「どっ、どこでっ、そっ」
「どこで見つけたかって? 松坂公園にいたよ」
 近所であっさりと規格外の新種を見つけられても困る。

324 名前:草刈家の兄妹喧嘩(6/6) ◆xZX.1KPwQU 投稿日:2006/11/19(日) 19:26:57.26 ID:xHnzmaKa0
「ね、お兄ちゃん。今度の喧嘩、お兄ちゃんが悪かったんだからね。土下座してごめんなさいって言うなら、
あたしも鬼じゃないから許してあげる」
 人間を捕食してもおかしくないような生命体を抱えながら笑顔で脅迫するこずえだった。彼女の表情と両腕
に抱えられた巨大蜘蛛の姿形とのアンバランスさが恐怖を更に盛り上げる。
「あ、ああ、あがが……」
「もしもまだごめんなさいって言わないんだったら」
 こずえはそこで言葉を切ると、すっと部屋の中に一歩を踏み出した。
 ユキヒロの心が限界を超えた。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああぁぁっ!」
 今日も草刈家は賑やかだ。


 <了>



BACK−五趣六道にこんにちは ◆uFcz9QmOsg  |  INDEXへ  |  NEXT−蜘蛛に願いを ◆kCS9SYmUOU