【 獲物 】
◆SenpaiXN.E




181 名前:獲物(1/6) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/19(日) 08:09:01.80 ID:8NSkdYa50
案内された応接間の黒い革張りのソファーに腰を下ろすと、俺は周りを見渡した。
落ち着いた雰囲気の部屋の中には、高価そうな物が綺麗に配置されている。
このソファーだけでも目の飛び出るような値段がするだろう。
庭に面した大きなガラス窓はどうすれば破れるだろう、などと考えていると、部屋のドアが開いて男が姿を現した。
男が持ったお盆から、コーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。
男の正確な歳はしらないが、恐らく五十過ぎだろう。髪は黒々としている。
肌色のシャツに茶色いベストを重ねて着ている。
お洒落だという訳ではないが、自分の歳と風貌をよく理解した上での小奇麗な服装だと感じた。
「いやいや、お待たせしました」
そう言って男は瀟洒なコーヒーカップを二つテーブルの上に並べた。
「いえ、とんでもない」
礼を言ってから窺うように男の方を見ると、男はわかっておりますとばかりに満面の笑みを浮かべた。
「例の物を取って来ますのでもう少々お待ちを」
そう言って、もう一度部屋を出て行った。
俺はコーヒーカップの一つに口を付け、苦いコーヒーを一口喉に流し込んだ。

182 名前:獲物(2/6) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/19(日) 08:09:21.97 ID:8NSkdYa50
男に出会ったのはつい三日前の事。いつもの様にやさぐれて、あの店で一人酒に溺れていた時だ。
マスターに一通りの愚痴をこぼした後、カウンター席に突っ伏していると、いつの間にか隣に男が座っていた。
「ご一緒してもよろしいですか」
男はウイスキーのボトルとグラスを二つマスターに頼み、グラスを一つ俺に手渡した。
よく考えれば酒を奢ってもらういわれなど全く無かったのだが、その時はそんな事も考えなかった。
いつも俺が飲む安物とは違う、おそらくあの店で一番値が張るであろうウイスキーだった。
「上手くいかないですよ、何もかもが」
マスターにこぼした愚痴となんら変わらぬ事をぼつぼつと話すと、男はうんうんと頷いていた。
とにかく合いの手を打つのが上手く、聞き上手と言うのはこういう人のことを指して言うのだろう、などと考えていた。
警戒感が全く生まれなかったのは、酒のせいだけではなかっただろう。
「見せたいものがあるんです」
男がこう言い出したのは、既に他の客がいなくなり、マスターが店を閉める準備を始めたころだった。
「きっとあなたの人生を変えてくれる物です」
男はそう言って俺に一枚の紙を渡してきた。
「住所が書いてあります。いつでも遊びに来てください」
そう言って男は席を立った。ボトルにはまだ半分ほど酒が入っていたが、「差し上げます」との事だった。
「マスター、どう思う」
男が去った後、ボトルを渡しながらマスターに尋ねた。
「見たところ、金は持ってそうなんだが」
「向こうから誘ってるんだ、願っても無いだろ」
マスターはボトルを棚に仕舞いながら答えた。
「泥棒に追い銭、じゃないがな。泥棒をわざわざ引き入れるなんて可哀想なヤツだ」
違いない、と笑い合ってから、俺はグラスに残ったウイスキーをぐいと飲み干した。

183 名前:獲物(3/6) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/19(日) 08:09:47.06 ID:8NSkdYa50
コーヒーをすすりながら高価そうな置物を目で物色していく。
あの壷などは値が張りそうだ……いや、あの絵も捨てがたい。
なにしろ相手は俺の素性を知らない。楽な仕事ができそうだ。
アシが付きにくそうなのはどれだろう、と思いにふけっていると、もう一度男が部屋に入ってきた。
ビロードのような赤い布の掛けられた何か四角い箱を両手で抱えている。
「見せたいと言っていたのはこれなんですよ」
男はテーブルの上に慎重に箱を置き、赤い布を取り払った。
現れたのは、ガラスであろう透明な板で作られた箱。
そしてその中では――小さな蜘蛛が一匹、巣に張り付いている。
それがどうした、と思いながら顔を近づけてから、俺はあっと息をのんだ。
巣が、金色なのだ。ガラスを通して乱反射する光を受けて、蜘蛛の巣が金色に輝いているのだ。
「おわかりでしょう」
男の顔を見ると、マジックの種明かしをしたマジシャンのような微笑みを湛えている。
「世にも珍しい」
男は大仰な身振りで言葉を連ねる。
「金色の巣を張る蜘蛛です」
獲物はこれだ、と思った。壺や絵などではなく、盗る獲物はこれだ。
好事家に高値で売るか、それとも怪盗よろしくコレクションにしてやるか。
どちらにしても、これは珍品だ。
押し黙った俺を見て、話を催促されていると思ったらしく、男はゆっくりと喋りだした。
「これは、先祖代々伝わる蜘蛛なんですよ。ただの蜘蛛じゃありません」
「はぁ」
金色の巣を張るだけの蜘蛛ではないのか。
「この金色の巣が」
いとおしそうに蜘蛛を見つめながら男はこう言った。
「降りかかる不幸や災難を捕らえて、私を守ってくれるのです」

184 名前:獲物(4/6) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/19(日) 08:10:06.47 ID:8NSkdYa50
「不幸や災難を」
思わず聞き返してしまった。男はゆっくりと頷いた。
「不幸や災難が降りかかりそうになると、この蜘蛛は巣を張り始めます。
 まさしくこの家の守り神ですね。親父にも決して手放すなと言い含められたものです」
胡散臭いことを言い出したものだ。まるでカルト宗教に買わされるという壷のようではないか。
しかし、ふと疑問が湧き出てきたので、男に尋ねてみた。
「先祖代々と言っても、この蜘蛛は死んでしまうでしょう」
「あぁ、それはですね」
よくぞ聞いてくれたとばかりに、男はこう言った。
「死ぬ寸前に卵を産むのですよ。そして、その子供がまた私を守ってくれるという訳です」
この蜘蛛が雄なのか雌なのかはわからないが、単体で卵を産むことができるのだろうか。
いや、卵を産むということは雌なのだろうが。
そもそも何を食べているのだ。密封されているらしきガラスの箱に入っているが呼吸はできるのか。
次々に疑問が湧いてきたので尋ねようと思ったが、思い直してやめておいた。
あまり興味を持ったように思わせても良くないだろう。
不幸や災難を取り払う? そんな付加価値は、売り払ってしまう分には何の意味も無い。
金色の巣を張る蜘蛛、それだけで十分なのだ。
それからはもう蜘蛛に興味を失った振りをし、男の行動を探るべく世間話を続けた。
「今日は家内が子供を連れて実家に帰っていましてね」
家族のことを尋ねた時に、男はこう言った。
「明日にならないと帰らないのですよ」
盗みに入るのに、家人が少ないというのは誠に好都合だ。決行は――今日の晩に決定だ。

185 名前:獲物(5/6) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/19(日) 08:10:24.25 ID:8NSkdYa50
午前二時、人気の無くなった通りから男の家の庭に忍び込む。
赤外線などのセキュリティが無さそうなのは、帰り間際に確認しておいた。
応接間のガラス窓の前まで来て、息を潜める。
二分ほど待って人の気配がしないのを確認し、バッグからガラスカッターを取り出し、窓に穴を開け始める。
一分ほどかかったが無事にガラスを切り落とし、そっと応接間の中に入った。
さて、蜘蛛が入ったあの箱はどこだ……と周りを見渡してみる。
すると、赤い布をかぶせた箱がテーブルの上に置かれているのを見つけた。
意外にずぼらな男だ、探す手間が省けたなと内心ほくそえみ、赤い布を摘み上げて中を見る。
蜘蛛はかさかさと動き、なにやら新しい巣を張り始めているようだ。
不思議なことに、この闇の中でも巣は金色に輝いて見える。
反射する光も無いのにうっすらと輝く巣は、まるで発光しているかのようだ。
その光を遮ろうと思いもう一度赤い布をかけ、俺は箱を持ち上げようとした。
と、その時――体中を何かがうごめくのを感じた。
思わず箱を放すと、箱はテーブルとぶつかってガタンという大きな音がした。
しかし、それを気にする余裕は既に無かった。
体中を何かがうごめく感覚の正体は――蜘蛛だった。
無数の蜘蛛が服の上を這いまわっている。
何故、と思うよりも前に、ひぃ、と声にならない声が出た。
蜘蛛を振り払おうと腕を振ったが、ニ、三匹が落ちていっただけだった。
振り落とされそうになろうと構わずに、蜘蛛達は服の上を這い回っている。
足に鋭い痛みを感じたので足元を見てみると、既にズボンがずたずたに食い破られている。
そのまま足に喰らい付いてきているようだ。
最早半狂乱となった俺は、もう音などを気にすることもできず、応接間の中を転がりまわった。
うじゅうじゅと蜘蛛が潰れる音が聞こえ、粘液が体にまとわり付いても蜘蛛は一向に減らなかった。
相変わらず俺の服を引き千切り、肉を齧り、骨を削っていった。
「助けて……助けてくれ……」
視界一杯に蜘蛛の姿が現れ、必死に目を閉じたが、蜘蛛はまぶたに噛み付いた。
耐え切れずに目を開いたが、見えたのは間近に迫る蜘蛛の牙だけだった。
眼球に突き刺さる牙の痛みと共に、俺の意識は闇の中へと落ちていった。

186 名前:獲物(6/6) ◆SenpaiXN.E 投稿日:2006/11/19(日) 08:10:46.51 ID:8NSkdYa50
「う……」
どうやら俺は横たわっているようだ。ぼんやりとテーブルが見え、自分が応接間に倒れているのは分かった。
体を起こそうとするしても、痛みは無いが力が全く入らない。
必死で眼球だけを動かして体を見るが、服が破れている様子は無い。
体中を這い回っていた無数の蜘蛛も跡形残さず消えている。
あれは夢だったのか。それとも……
「気が付いたようですね」
虚ろな思考を遮るように、男の声がした。
視線だけ動かして声のした方を見上げると、男がすまなそうな顔をして立っていた。
手にはあのガラスの箱を持っている。赤い布は取り払われていて、やはり巣が金色に輝いている。
――違うんだ、これには深い訳があって。
深い訳などもちろん無いのだがとっさに言い訳をしようと口を開こうとした。
しかし、口も鉛のように重く、うぁあという意味を成さない音が漏れただけだった。
「蜘蛛を盗もうとされたのですか」
男は穴が開いたガラス窓のほうを見やりながら言った。
「この巣が不幸や災難を取り除くという話は信じられなかったようですね。
 ――蜘蛛を盗まれるという災難をこの巣が見逃すわけがないのですが」
男は少しこちらに近づき、ガラスの箱を俺の傍に置いた。
金色の巣が発光しているが、あの蜘蛛の姿は見当たらない。
その意味が分かった時、おぞましいほどの震えが俺を襲った。
――お願いだ、助けてくれ。
そう叫ぼうとしたが、もちろん声にならなかった。
「いいことばかりに思えるこの蜘蛛にも、少しばかり困るところがありましてね」
男は、やはり申し訳なさそうに喋り続けている。
俺の体中を流れる冷や汗をかいくぐるかのように、かさかさと何かが這い回っている。
「意外とグルメなんですよ。蝶々なんか与えても食べやしない」
喉元に、何かが鋭い牙を突き立てる。
「申し訳ないですが、蜘蛛の巣にかかってしまったと思って諦めて下さい」
ガラス箱に張られた巣は、未だ金色に輝いている。



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