【 ご主人様はわたさない 】
◆uzrL9vnDLc




91 名前:No.16 ご主人様はわたさない (1/2) ◇uzrL9vnDLc 投稿日:06/10/30 00:52:34 ID:JOPAXJ7C
 あいつが家にやってきたのは、桜も散って爽やかな風がひげを撫でる頃だった。
 ご主人様も何を考えてるのか。私というものがありながら、あんな馬鹿みたいにでかい
犬をもらってくるなんて。私が喰われてしまってもいいのだろうか。
そう。私は猫。黒猫だ。昔は名前をつけてもらえなかった猫もいたようだが、わたしには
ちゃんと名前がある。「コジロウ」。メスなのに男の名前なんてと思ったが、ご主人様が
つけてくれた名前なので気に入っていた。ところが、あのゴールデンにご主人様がつけた
名前。「ムサシ」だって。ちょっと安直すぎやしないか。コジロウはムサシに負けたって
ところが、よけいに気にくわない。
 だから私は色々イヤガラセをしてやった。あいつの餌皿をひっくり返したり、しっぽを
ひっぱってみたり、犬小屋で爪を磨いでやったり。あいつはいつも怒りもせず、ただ哀し
そうな瞳で私を見た。それがますます私の癪に障った。

 今そのムサシは、小屋の前で丸くなって眠っている。基本的にこいつはいつも寝ている。
ご主人はお出かけ中だ。暇になった私は、ひとつ伸びをして家を出た。自由に外に出られ
るのは猫の特権だ。幸いこんな田舎、めったに車も通らない――

 そう鷹をくくっていたからだろう。
 真横からくる軽トラックに気がつかなかったのは。


92 名前:No.16 ご主人様はわたさない (2/2) ◇uzrL9vnDLc 投稿日:06/10/30 00:52:50 ID:JOPAXJ7C
 気がつくと、私はふさふさした場所に寝転んでいた。規則正しく上下するそこがムサシ
の背中だと理解するのに随分かかった。
「気がついたか」
 ムサシが言った。言い返そうとして、うまく声が出ない事に気づく。全身が痛い。やっ
ぱり跳ねられたんだ。
「獣医さんの所まで行く。もうしばらく寝ていろ」
 ムサシの口調はぶっきらぼうだったが、どこか温かみがあった。重たい首を動かしてみ
ると、ムサシのリードが引きちぎられているのに気づいた。
「君がいなくなると、ご主人が悲しむからな」
 とたん、涙が溢れ出してた。馬鹿、私の馬鹿。私はムサシの背中に爪を立て、子猫みた
いに泣いた。

 私の怪我は、案外大したことは無かった。あわてて引き取りに来たご主人様に抱きしめ
られた時、私はまた泣いた。いつからこんな涙もろくなったのだろう。
 ムサシはあの日からもずっと寝てばかりいる。何度かあの日の礼を言おうとしたが、照
れくさくっていまだ言えずにいる。もうすぐクリスマス。あの日の礼がわりに、骨の一本
でも調達してきてやるかな。
(おわり)



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