【 海沿いのカーブ 】
◆D8MoDpzBRE




82 名前:No.15 海沿いのカーブ (1/9) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/30 00:49:30 ID:JOPAXJ7C
「明日から一週間ほど実家に帰るんだ、ごめんな」
 私と向かい合って座っている和也が、謝罪の言葉を発した。
 喫茶店から見える街の景色が、夕刻が迫り微かにオレンジ色を帯びる。青々と茂る街路樹たちが、沈み行

く太陽との別れを惜しみながら風に揺れている。夏の日は長い。時計の針は、既に六時を回っていた。
「今年も置いてけぼり? 八月一日が何の日か、和也なら知ってるくせに」
 私が恨めしそうにぼやいた。空になったコーヒーカップの取っ手に指をかけて、無意味にもてあそぶ。精一

杯の苛立ちの仕草。
「千夏のお誕生日は、俺が帰ってきたら祝ってやるから」
 和也が、私と目を合わせないように、外を見ながらつぶやいた。むかつく生返事。誕生日を、誕生日以外の

日に“祝ってやる”んだって、何様なんだろう。
 去年も、一昨年もそうだった。私のお誕生日が近くなると、和也は実家に帰る。理由を聞いても「ごめん」の

一点張りなのだ。泣いても無駄だと言うことを、去年私は学習していた。
「お土産、買ってこなかったら許さないよ」
 私の言葉に、和也が安堵の表情を浮かべながらうなずいた。単純な男。
 道行く人たちの群れが、そわそわし始めた。晩餐の香りに、脳幹の空腹中枢を刺激される時間帯だ。まだ

外は、西日に照らされて明るい。


83 名前:No.15 海沿いのカーブ (2/9) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/30 00:49:54 ID:JOPAXJ7C
「ここで食べてく?」
 小一時間居座った喫茶店で、そのまま夕食を済ませようと和也が切り出す。だが、今日の私はそんな気分
ではなかった。
「やめとく、帰る」
「あ、そう。じゃあ、送ってくよ」
 そう切り返した和也を尻目に、私は伝票を置いたままさっさと喫茶店を出た。

 表通りは蒸し暑さの余韻を残して、熱気に包まれていた。ヒートアイランド現象ってやつか、などと意味も分
かっていない単語を思い描いて、勝手に納得する。首筋の汗が筋となって背中を伝った。
「おーい、千夏ァ」
 後ろから和也の声。構うものか。私は敢えて振り向かずに早足で歩いた。
「危ない!」
 突然の叫び声と共に、私は背中から突き飛ばされ、路面にたたきつけられた。ほぼ同時に、バイクの走り
去る音が聞こえた。私を突き飛ばしたのは、和也だ。
「ぼーっとしながら歩いてちゃ駄目だろ。奴に轢かれるところだったぞ」
 珍しく、和也が怒っている。私だって怒っていたのだけど、さすがに怒鳴り返せるような場面ではなかった。
「よくあることだから、気を遣わないで」
「ったく、よくあっちゃ困るだろ」
 和也が呆れたように言った。そして、続けてつぶやく。
「……また……か……」
 また、か? それ以外の言葉は上手く聞き取れなかった。敢えて聞き出そうとも思わなかったが、少し心に
引っかかるものがあった。


84 名前:No.15 海沿いのカーブ (3/9) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/30 00:50:13 ID:JOPAXJ7C
 黄昏の歩道が、夕日を受けてオレンジ一色になる。遠くに浮かぶ入道雲が、いつか食べた夕張メロンのソフ
トクリームに見えた。空腹も限界に近づいているようだ。
 二人は気まずさを抱えたまま、お互い少し距離を取って歩いた。
「私も一緒に行ってもいい? 和也の実家」
 少し後ろを歩いていた和也の方へ振り返って、私は思い切って切り出してみた。気まずい空気を、一層気ま
ずくする質問を。
「駄目、絶対」
 速攻で却下。私の誕生日なのに、記念日なのに、どうして一緒にいられないのだろう? 私には、和也の気
持ちが分からなくなった。元々分かっていたとも言い難いのだけれど。
 結局、私はその後一度も和也と目を合わせることなく、家まで帰ってきた。後ろから、弱々しく謝る声を聞きな
がら。謝るくらいなら、最初から実家になんか帰らなければいいのに。
 そんなことを思いながら、私は家のドアを閉じて鍵を掛けた。


85 名前:No.15 海沿いのカーブ (4/9) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/30 00:50:36 ID:JOPAXJ7C
 和也と私が知り合ったのは二年前、ちょうど二人が今通っている大学に入った頃だ。当時の和也は、垢抜け
ない田舎者という印象だった。今もそんなに変わっていないけれど。
 先に惚れたのは私。最初は何気なく声を掛けただけだったのに、相手にされなくてムキになったのだ。絶対
にこっちを振り向かせてやろうなんて考えているうちに、いつの間にか好きになっていた。自分でもこの気持ち
に驚いたくらいだ。
「残念だけど、君とは付き合えないんだ。ごめんね」
 告白したときに言われた台詞を思い出すと、今でも腹が立ってしまう。その頃、和也には付き合っている他の
相手もいないはずだった。
 これで私の執念に火が付いた。欲しいモノは手に入れないと気が済まないという、難儀な癖だ。
 そして、運命の瞬間が訪れたのは、夏の日のことだった。
 大学のキャンパスからの帰り道、私が交差点を渡っていたときのこと。左折してきたバイクと、出会い頭に衝
突してしまったのだ。突然の出来事でその場にへたり込んだ私を、さらに驚きの展開が待っていた。
「大丈夫? あれ、ひょっとしてキミは……」
 ヘルメット越しに聞こえてくる和也の声。私を轢いた犯人は、他ならぬ和也だったのだ。轢いたのが私だと気
づいて、声が震えている。
 私の中で、小悪魔的戦略がひらめいた。このチャンスを、逃す手はない。
「ちょっと、どこ見て走ってるの。ちゃんと責任とってよね」
 逃げ切れまいと悟ったのだろう。この日を境に、私と和也の交際が始まったのだ。


86 名前:No.15 海沿いのカーブ (5/9) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/30 00:50:56 ID:JOPAXJ7C
 ま深にかぶったニット帽、サングラス、キャミソールの上からは念のためにマフラーも。あまりにも季節感を欠
いている点を除いて、私の変装は完璧だった。
 羽田空港発の沖縄便が、私のバイト代と共に飛んでいく。その中に、私と沖縄出身の和也が乗り込んでいた
。とりあえず、和也が私に行き先を偽ってはいない、ということは確認できた。気分はすっかりスパイ大作戦だ
。ほんの少しの後ろめたさと、私の知らない和也が見られるという好奇心が混ざり合って、胸が躍る。
 旅の先では、南国沖縄の夏が肌を焦がすばかりの紫外線をもって出迎えてくれる――
 那覇に到着した私は、とりあえず和也の追跡をやめた。私が知りたいのは、八月一日に和也がどう行動する
のかだ。もし他の日に用事があるのなら、八月一日には間に合うように帰ってきてくれるだろう、という予測も
あっての判断だ。幸い和也の実家の住所は知っているし、実家に停めてあるバイクの動向で、和也が家にい
るのかいないかは大体分かる。
 問題は、私は車が運転できないことだ。当日、もし和也がバイクで出かけたら追跡する手段がない。そこで、
私はタクシーをその日だけ借り切ることにした。またバイト代が飛ぶけれど、仕方がない。それに、タクシーの
運転手が「あのバイクを追って」なんていう要請に応じてくれるのかどうかも分からなかったが、この際頼み込
むしかない。
 まるで、ストーカー行為をしているみたいだな、と自分でも思うのだった。


87 名前:No.15 海沿いのカーブ (6/9) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/30 00:51:12 ID:JOPAXJ7C
 当日の朝は、快晴だった。都会の人工的ではない熱風が、熱いアスファルトの上を吹き抜ける。日本にもヤ
シの木が生えているなんて、初めて知った。絵はがきになってしまいそうな街の片隅に、一台のタクシーが息を
潜めて停車していた。クーラーをガンガンにかけながら。
 待つこと二時間、広い一軒家からバイクに乗って、ようやく和也が出てきた。待っていただけで、数千円がパ
アだ。嘆いていても仕方がない。運転手に、あのバイクをつけるように指示を出した。
 果てしなくまっすぐ続く道を、和也のバイクが高速で飛ばしていく。タクシーのスピードメーターを見て、絶句す
る。タクシーの運転手の背中が、参ったなあとでも言いたげに揺れた。
 海が見えるカーブにさしかかった頃、和也のバイクがスピードを緩めた。そのまま、路肩にバイクが停まる。
私が乗ったタクシーは、和也が停まった地点から少し通り過ぎたところで停車した。
 道が海の上にせり出して、真下で白い波が砕けている。ちょっとした高架橋の上には、最高の眺望が開けて
いた。沖縄の海は陽光と雲の色を反射して、輝くラメを敷き詰めたようだ。
「ありがとうございました」
 と言い、私は料金を支払ってタクシーを降りた。これ以上、待たせるだけで料金を取られるのは嫌だ。
 走り去るタクシーを背に、私は和也の元へ向かった。和也の手元には、小さな花が握られていた。そして、小
さめのペットボトルの花瓶。
 ここで誰かが死んだんだ――


88 名前:No.15 海沿いのカーブ (7/9) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/30 00:51:28 ID:JOPAXJ7C
「和也!」
 私の声に気づき、和也が驚いて体をのけぞった。こんなところで出逢うとは、予想だにしていなかっただろう。
しばらく茫然自失とした後、和也の口が重そうに開いた。
「内緒にしててごめんな、千夏。今日が、あいつの命日なんだ」
 あいつって? 頭にはてなマークを浮かべている私に向かって、和也が一枚の写真を見せた。遺影らしき額
に収まって、制服を着た女の子が笑顔を浮かべていた写真があった。
「和也の、元カノ?」
 和也が無言でうなずいた。魂の抜けた抜け殻が、支えるものを失って頭を垂れるような仕草で。
 和也に、昔付き合っていた女性がいたことは知っていた。高校を卒業する前に別れたのだと言っていたけれ
ど、そうではなかったのだ。和也の心についた未だ癒えない傷の正体を知って、私は軽い絶望感に襲われた。
恋愛は、死んだ人には永遠に敵わないなんて言う格言がある。この人の影がある限り、私は永遠に誕生日を
祝って貰えないのだ。
「お願いしてたんだ」
 和也が口を開いた。
「俺と千夏が付き合うことを許してくれと、毎年ここでお願いしていたんだ」
「本当に?」
 ホッとして、私の体の力が抜ける。
「本当だ。できればこれを最後にしたい」


89 名前:No.15 海沿いのカーブ (8/9) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/30 00:51:43 ID:JOPAXJ7C
 献花を済ませると、和也がヘルメットを被ってバイクにまたがった。予備のヘルメットを私に手渡して、後部座
席を指さす。ここに乗れ、ってことだ。私は、喜んで飛び乗った。
 バイクが、ゆっくりと走り出した。熱いアスファルトの上、周囲を陽炎に包まれて、まるで幻想の世界にいるよ
うだ。バイクが加速するに従って、吹き抜ける風の熱が和らいで、涼しい風へと変わっていく。
 不意に、背筋に寒気が走った。
「……和也」
 低くくぐもった、女性の声がした。真夏の太陽の下であるにもかかわらず、和也の腕がガクガク震えだした。
 女性の声? 周りを見渡すが、当然走っているバイクの近くに女の影など無い。
「和也の裏切り者、約束したのに。一生、お互い二人でいるって約束したのに……」
 まさか、和也の死んだ元恋人の声? そう考えると、底の知れない恐怖感が私の体を貫くように湧きだした。
殺される。


90 名前:No.15 海沿いのカーブ (9/9) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/30 00:51:58 ID:JOPAXJ7C
 気がつくと、バイクは先ほどのカーブにさしかかっていた。元いた場所へ、いつの間にか戻っているのだ。海
の方へとせり出した、緩やかなカーブ。和也の元恋人は、あそこで死んだ。
「私を裏切って、この女と楽しんでいたなんて酷い人。でも、私が愛した人だから許してあげる」
 和也の体は硬直して動かない。私も同じだった。声を出すことも、息をすることも、全身の筋肉が硬直してで
きないのだ。
「だけど、そこの女。アンタのことは許さない」
 バイクはいよいよ加速して、カーブを迎えていた。思えば、私はずっとバイクに狙われていたような気がする。
大学に入って以来、と言うか、和也を好きになって以来、ずっと……
 ガードレールがひしゃげる音がして、私の体が海へと投げ出された。ヘルメットの中に、海水が入ってくる。い
くらもがけど、無駄であった。
 結局、死んだ人には永遠に敵わないのだ。私は死の直前まで、この敗北感にさいなまれ続けたのだった。

   <完>



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