【 媚薬 】
◆D8MoDpzBRE




87 名前:媚薬 1 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/24(佐賀県警察) 00:09:51.52 ID:mtjqz0yU0
 暗室の中央に水晶玉が浮かぶ。青白く照らされたテーブルクロスの上に、若い女の顔が浮かび上がる。雪
の結晶のように透明な素肌。彫像のように均整の取れた顔の上、眉間には深くしわが寄っている。部屋の主
である若き呪術師ジョスリーヌは、とある難題に頭を抱えていた。
 水晶玉が、突如として赤黒い光を放ち始めた。みるみるどす黒い瘴気が部屋の中にまで立ち込め、不吉な
空気が部屋を覆い尽くす。ジョスリーヌが水晶玉をのぞき込むと、一体の悪魔がくっきりと映し出された。近頃
巷を震撼させている、『赤き双角の悪魔』だ。
「ジョスリーヌ、まだ起きていたの? 明日の礼拝に差し障るわよ。早くお休み」
 奥の部屋から年老いた母の声がする。老母は、ジョスリーヌが呪術師なる怪しげな生業を営むことを、内心
快く思っていなかったのだ。
「申し訳ございません、母上。今し方、不吉な悪魔の気配を感じましたがゆえ、気を取られておりました」
 ジョスリーヌが消え入るような声で応える。
「ふん。そのようなことよりも、街の連中がお前のことを魔女だと言い出さないかが気がかりだわ」
 この手の話題になると、老母の口調がとげとげしくなるなる。
――お許しください、母上。
 ジョスリーヌの頬を、一条の涙が伝って落ちた。

88 名前:媚薬 2 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/24(佐賀県警察) 00:10:44.01 ID:mtjqz0yU0
「ジョスリーヌ様ーっ! 見てください。ついに作り出したのです、恋の媚薬を」
 朝靄に包まれたレンガ造りの街並みに、ひときわ大きな声がこだました。声の主は、まだあどけなさの残る
少女。ブラウンの髪を両耳の上で結わえたツインテールが、そよ風になびいて軽快に揺れていた。
「朝からお元気ね、ノエミ」
 ジョスリーヌが、少女の方を振り返って微笑む。駆け寄る少女も、満面の笑みをたたえている。
「若き師団長、ロラン=ボアギュベール様の心を手に入れるのです。これが心躍らずにおられましょうか」
 ノエミが大仰にダンスのステップを踏む。彼女の舞う姿は、まるで妖精のように軽やかで、そこだけ華やいだ
雰囲気に包まれるのだ。
「なりませんわ、ノエミ。この前もロランのランチに一服盛ったでしょう」
 急に世話焼きの口調になるジョスリーヌ。それに伴い、ノエミの動きが途端にぎこちなくなった。
「えぇ〜っ、今度のは絶対上手くいくのです。秘薬の書が示すとおりに、寸分の違いもなく調合しました」
 少女の地団駄が、石畳を弱々しく打ち付ける。
「ロランは希代の名戦士よ。地獄のような修行の末、人並み外れた耐毒の心得を手にしているはず。その彼
が、あなたの仕込んだ薬で三日三晩寝込んだのです」
 ノエミが、しゅんとうなだれた。彼女の大きな瞳は、こぼれ落ちそうなくらいに涙の粒を溜めている。さっきま
での元気は何処へやら、すっかりふさぎ込んでしまった。
 ジョスリーヌが呆れた風な仕草で、しょげ返るノエミの頭を撫でた。
「ロランも、ノエミのことは気にかけているわ。可愛らしいお嬢さんだ、って言っていたもの」
「本当でございますか? ほんとにほんと?」
 手のひらを返したように活気づくノエミ。勢いで嘘を吐いてしまい、ジョスリーヌが気まずく咳払いをする。
「――とにかく、今日はロランにとっても私にとっても大切な日なの。ノエミが作ってくれた媚薬はロランに渡し
ておくから、大人しく学校へ行きなさい」
 本日二度目の嘘。ノエミは、すっかり騙された。
「はい、ジョスリーヌ様。ロラン様共々、御武運がありますようにっ!」

89 名前:媚薬 3 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/24(佐賀県警察) 00:11:26.33 ID:mtjqz0yU0
 師団長ロランが王との謁見を済ませたのは、つい先刻のことだった。討議された内容は、赤き双角の悪魔
についてであった。
 ここ最近のこと、郊外の集落を襲っては家畜であろうと人であろうと見境無く連れ去り、食してしまう悪魔が
目撃されている。赤くけば立った毛皮に包まれ、銀色の角を二本生やしていると言うのだ。その悪魔はやがて
城下にも出現するようになり、夜な夜な城の警備兵に残忍な牙を剥いていた。
 悪魔による相次ぐ王国への挑発行為に、ついに討伐軍が編成されることとなった。そして、軍の総司令官
の大役を仰せつかったのが他でもない、ロランその人であった。敵は、生身の人間が一対一で戦っても勝ち
目のない相手だ。だが、百戦錬磨の将にして部下からの信望も篤いロランなら、きっと何とかしてくれる。誰も
がそう思ったのだ。
 ロランは参謀役として、呪術師ジョスリーヌに白羽の矢を立てた。当時、王国内において最も魔術の類に関
して造詣が深いと評価されていたのが彼女だったのだ。
「やあ、ジョスリーヌ。今日も美しいね。悪魔狩りなんか放っておいて、俺とデートにでもしけ込もうぜ」
 討伐軍の総司令官が、参謀役の姿を見つけて声をかけた。薄いシルクのローブを羽織って、ジョスリーヌが
氷点よりも冷たい視線を投げ返す。
「私はあんたを討伐したくってよ、ロラン総司令官殿。それとも、うら若き乙女が調合した恋の媚薬でも味わっ
てみるかしら」
 ジョスリーヌが瓶詰めにされたどす黒い薬液を取り出した。
「ひぃぃ、そいつは堪忍だ。とっとと悪魔を退治するから許しておくれよ、ジョスリーヌ」
 ロランが慌てて逃げ出した。
「ふぅ、どうしてこんな馬鹿に惚れちゃったのかしら、ノエミったら」
 脱力しきった溜め息を吐くと、ジョスリーヌは頭痛の予感を覚えるのだった。

90 名前:媚薬 4 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/24(佐賀県警察) 00:12:06.21 ID:mtjqz0yU0
 夕闇が忍び足で城下へと迫り、城へ集結した討伐軍の動きが慌ただしくなり始めた。悪魔が出没するのは
夜。ジョスリーヌが水晶玉をかざして、敵の気配を感じ取ろうと集中していた。
「……赤い影が、湧いてくる。北の方角だわ」
 青白く透明な光を放っていた水晶玉が突然濁り、赤黒い邪悪な炎が映し出された。そして、その中にはくっ
きりと赤き双角の悪魔がいた。
「全討伐軍、出撃!」
 ロランが先頭に立ち、武装した騎馬部隊が一斉に城門の外へ殺到した。精鋭、数百騎。彼らは銀色の甲冑
を身にまとい、鋭く尖った槍を軽々と天に向けて構えている。ジョスリーヌを乗せた馬車がそれに続く。
 しばらくすると、討伐軍の進む先では森が赤く燃え上がっていた。集落が近い。
「敵はあそこだ、進め」
 先頭のロランが叫ぶと、騎馬部隊が二手に分かれて森へと迫っていく。見事な隊列が、集落を森から分け
隔てるように並んだ。
 全員が、固唾を飲んで森に潜む悪魔の気配を感じとろうと構えていた。後方の馬車に待機していたジョスリ
ーヌは、辺りに漂うおぞましい空気を感じ取っていた。
「くるわ」
 ジョスリーヌがつぶやいた瞬間、森から異形の悪魔がその姿を現した。彼に触れた物が片っ端から燃えて
いく。手のひらだけで、一頭の牛を軽々と握りつぶしてしまうくらいの大きさだ。
「突撃!」
 次の瞬間、地鳴りが起こった。全軍が、一体の悪魔めがけて殺到する。我先と、騎馬が踊る。
 数十本の槍が、一斉に悪魔めがけて突き立てられた。槍の雨。
 この世の物とは思えない悲鳴が、辺りに轟いた。
「やったか?」
 兵を指揮していたロランが、前線へと身を乗り出した。その彼の上を、煙を吐きながら馬と人が飛び越えて
いった。悪魔の反撃が始まったのだ。

91 名前:媚薬 5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/24(佐賀県警察) 00:13:11.31 ID:mtjqz0yU0
 騎馬部隊が、おもちゃの人形のようになぎ払われていく。馬は恐れおののき、隊列が乱れる。ロランが、全
部隊に一時撤収を命じた。
 蜘蛛の子を散らすように、部隊が退却する。だが、一台の馬車が逃げ遅れた。
「ジョスリーヌ!」
 ロランが、取り残された馬車の方向へ馬を返した。だが、悪魔の方が早かった。
 ジョスリーヌが、馬車から駆け下りて、走る。逃げる。しかし、追いつかれてしまう――
 鋭く風を裂く音がして、ジョスリーヌが左からに鋭い痛みを感じた。彼女の体が崩れ落ちる。鮮血が辺りを赤
く染めていた。
 ロランが馬から下りて、倒れたジョスリーヌの元へ駆け寄る。彼女は、何とか肩で息をしていた。
「おのれ、悪魔め!」
 槍を構え、ロランが悪魔へ向かって走り出した。行っては駄目……。ジョスリーヌの制止は、ロランの耳には
届かない。
 悪魔の腕が振り下ろされ、ロランが炎に包まれながら吹き飛ばされた。
 次の標的は、ジョスリーヌだ。
「きゃああああ」
 ジョスリーヌは、パニックに陥っていた。逃げようとして、つまずく。もう駄目だ。手当たり次第、物を投げつけ
る。装飾品、懐中時計、薬液の瓶。
 悪魔の動きが、止まった。
――何?
 赤い毛皮に覆われた悪魔が、黒い炎に包まれた。禍々しい姿が、溶ける。見れば、黒い薬液が付着した部
分から、悪魔の体が融解していく。
 あれは、恋の媚薬。
 ジョスリーヌが、苦笑いを浮かべた。隣には、燃える鎧を脱ぎ捨てたロランが、蒼白な顔を並べていた。

92 名前:媚薬 6完 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/24(佐賀県警察) 00:14:49.08 ID:mtjqz0yU0
「ひいいい、だってだって、悪魔をやっつけられたのは私のおかげです」
 ノエミが、軍の総司令官に追いかけ回されながら叫んでいる。ロランの顔に、笑みはない。
「悪魔退治の呪薬を、どうやったら恋の媚薬と間違えるのだ、この小娘!」
 大人げないロランの叫び声が、王の謁見広間の前室にこだました。
 ジョスリーヌが、冷ややかな眼で二人を見つめていた。これから表彰式だというのに、何という有様だろう。
 ともあれ、ひとまず片は付いたのだ。ジョスリーヌは、同時に安堵感を覚えていた。少し頼りないけど、この
国には勇敢な騎士がいる。悪魔に向かって槍を構えた男の姿が、ジョスリーヌの脳裏に焼き付いていた。
「――恋の媚薬?」
 そうつぶやいて、ロランの動きが止まった。徐々に、彼の顔が赤く染まっていく。
「こ、小娘。まさかお前、お、俺のこと……」
 この国の軍を指揮する総司令官は、どうやら相当に鈍感男であるらしかった。
 ノエミは、暴れ狂う男の手を逃れすでに退散した後。
 この国に、どうやら凄まじいまでの平和が訪れた。



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