【 投薬 】
◆Awb6SrK3w6




51 名前:投薬1/6 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/23(佐賀県民) 23:47:36.96 ID:a20tOaJH0
「はぁー」
 憂いを帯びた溜め息が薄暗い書斎に響く。
室内に光源は机上の白熱灯しかなく、その傍らで私は丸一日原稿用紙と睨み合っていた。
 全く参ったものだった。
つい先ほどまでは、飛び立たんとする程の勢いで進んでいた筆が、今は完全に止まってしまっていた。
 握るペンは物を書く機能を失って、今では原稿用紙の隅を突き続ける為の物となっている。
 私のような人気のない論評家の著作に、作家のような押し迫った締め切りは無い。
だが、このような調子が続くのは、このまま、一文字も書けない状況が続くのは、
私の精神状況にとって余り宜しくないことであった。
 何を書くべきかという煩悶で、脳内はぐるぐると渦を巻き続ける。
脇に置かれたぬるい紅茶が口と机を往復する回数は、一時間前と比べてもおおよそ三倍となっており、
集中力はとっくの昔に雲散霧消しきっていた。
 二階の書斎から眺める空は、薄紫色が広がって、東に三日月が滲んでいる。
もう、こんな時間となっていたのか。それなのに。全く書き進むことがない。
 いったい、この様な調子でいて、眼前の世評は書き上がることがあるのだろうか。
そう思い私はまた溜め息をついた。

52 名前:投薬2/不明 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/23(佐賀県民) 23:48:25.73 ID:a20tOaJH0
「はぁー」
「おとーさん!!」
 尖ったペンの先が原稿用紙に穴を穿ち、下の机の木目が見えた時だった。
階下からばたばたとそれは響いてきた。
 バタリというドアを開ける音が、悶々とした書斎の空気を切り裂いて、
「おとーさん、晩ごはんだよー!」
廊下の照明が放つ光が差し込むのと同時に、娘が顔を覗かせる。
「ああ、わかった」
 このつまらない状況を打開してくれる娘の言葉は、まさしく渡りに船だった。
重い腰を持ち上げて、私は彼女の催促に応ずることにする
「今日のごはんは何だい?」
「えーっと……クリームシチューにそれから、サラダ!」
 人差し指を顎にやり、一、二秒考えてから娘は、満面の笑みを零して今からテーブルに上がるメニューを答えてくれる。
 ツーサイドアップにした髪を揺らして階段の方へと向き直り、私の手を強く引っ張った。
「はやく! もうおかーさんもまってるよ! いこう!」
「わかったわかった」
 彼女の愛らしく弾む声に私の口元も思わず弛む。
彼女の手の温もりがじんわりと、私の手の平の奥へと伝わってきて、私はすっかり進まぬ原稿の事など忘れてしまった。

53 名前:投薬3/不明 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/23(佐賀県民) 23:49:10.05 ID:a20tOaJH0
「おとーさん、つれてきました!」
「ご苦労様。恵美ちゃん」
「はいっ!」
 リビングに降りるなり、どこで覚えてきたのだろうか。娘は妻に向けてピンと敬礼した。
それに笑いながら妻も、大人しく敬礼を返す。
 脇を張った娘の敬礼は陸軍式、腕を畳んだ妻の敬礼は海軍式だな。とそこまで沈思して、そのような考えを抱いた自分に、私は思わず苦笑した。
全く、疲れている。親子のやりとりに、陸軍と海軍の敬礼の様式の違いなどを思い浮かべるなど、
どれだけ日々の仕事に中毒してしまったのだろうか。
「おとーさん、突っ立ってないで早く、ご飯!」
「あ、ああ」
 娘がこちらを見て促していた。

54 名前:投薬4/不明 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/23(佐賀県民) 23:49:44.51 ID:a20tOaJH0
 シチュー越しに和やかな団欒の一時は進んでゆく。
 幼稚園での出来事を、手振り身振り交えて語る娘の雄弁に、何度も微笑まされながら私はスプーンを動かしていった。
笑いが響くたびに、皿に盛られたシチューは無くなってゆく。
そうこうして、皿の底が見え始めた頃だった。
「ところでさ、おとーさんっていつも何をしてるの?」
「え?」
 唐突に、娘の率直な問いを投げかけていた。思わず、私はそれに対応しきれずに固まってしまう。
この様に彼女が私の仕事の内容を問うてくるのは初めてのことであったからである。
「いつも、えんぴつ持って、つくえとにらめっこして、うんうんうなったりしてるけど……」
「ああ……うん。そうだねえ」
 小首を傾げる彼女に対し、私は思わず言葉が詰まってしまう。
彼女が私が日々従事している文筆業に興味を持ち、尋ねてきてくれると言うことは、勿論、嬉しくてたまらないことである。
だが、私が今やってることをそのまま述べて、彼女はわかってくれるだろうか。
 世界にあちらこちらで頻発する紛争に対する、大国の不徹底な干渉。
大国間の睨み合いで結局機能不全となっている国際連合。
 これらのにっちもさっちも行かぬ世界に対し問題提起、更には自分なりの合理的解決法を提案する、
社会に波紋を浮かばせるような、そんな著作を書き上げようとしているのだ。
などといっても、恐らく娘は理解をしてくれまい。
いや、その隣でまた私を見ている妻でさえ、分かってくれるかどうかは怪しいものであった。
 だから、できるだけかみ砕いて私は娘に説明しなければならなかった。

55 名前:投薬4/不明 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/23(佐賀県民) 23:50:15.58 ID:a20tOaJH0
「うーん」
 漠然とした表現でも良い。私がどのような事をしているのか。彼女がぼんやりと分かるだけでよいのである。
だが、適当な表現が見つからない。さて、どうしたものだろうか。
「おとーさん、どーしたの?」
妥当な表現を探し求め、頭に手をやり眉間に皺を寄せ考えていた私に、彼女は少し不安そうに問いかけた。
「頭、いたくなったの? おくすり、飲む?」
 どうやら、私が頭を抱える様子を見て、彼女は私が頭痛を起こしたものと考えたらしい。
「いや、大丈夫だよ」
 手を振って彼女の心配が無用であることを示したときだった。胸中に閃く物があった。
 薬である。
 私が今やろうとしていることは、病んだ現代社会を建て直すための薬を作ってるようなものではないか。
ペン一本で社会の根底に潜む病魔を治療する。少し自信過剰な考えかも知れないが、私が目標とするところはまさしくそれであった。 3

 已然、不安そうに私を見る彼女に向けて、私は笑いかけることにした。
そして、私の黙考と頭痛ですっかり飛んでしまった、私の仕事についての話に戻す。
「恵美、さっきのお話の続きをしよう。お父さんはな。お薬を作ってるんだよ」
「おくすり?」
 きょとんとして、彼女は私の方を見つめる。
「でも、おとーさん。おくすりをつくるのに、えんぴつなんてつかうの?」
「うーん……ちょっと普通のお薬とは違うんだけどね。まあ、みんなを幸せにするという点では一緒さ」
「へえー!」
 大きい二重の瞳を、輝かせて彼女は私の話を感心してくれた。
 これで良い。私が文筆業を生業にしている事がわかるかどうかは怪しい物であるが、
私の持つ志の行く先である、目標が比喩的に示せたのだからこれで良いのである。
「おとーさん、すごいね!」
 頑張らねばならない。彼女の純粋で無邪気な感嘆に答えるためにも。彼女の頭をくしゃくしゃと撫でて私はそう心に誓った。

56 名前:投薬6/不明 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/23(佐賀県民) 23:50:48.27 ID:a20tOaJH0
 だが、誓っただけでペンの進みが早くなれば良いのであるが、そうも上手くは行かない物である。
食後、再び机に向かっていた私は、また先ほどと同じように、原稿用紙の隅をつつき続けることとなっていた。
 白熱灯がじりじりと私の顔を照らす。その熱と焦りが額に汗を滲ませた。
「はぁー」
 未だ白紙の原稿用紙を睨み付ける。睨み付けて、なにか文字が浮かんでくると言うわけでもない。
それでも私はただひたすら、原稿用紙との勝敗の行方が見えないにらめっこを続けていた。
 次第に、とろりとした感覚が、脳の奥から漏れ出でてくる。
書かなければならない。何としてでも。
 先ほど娘の顔を見て生まれた義務感を以て、私は動かぬペンを無理に動かした。
微睡む脳の中に残存している表現を全て用い、文脈も文意も無視をして私は黒いインクで原稿用紙を埋めていった。 
 
「う……ん?」
 部屋に光が差し込んできていた。その眩しさに私は目を覚ます。
朝だった。私はどうやら机に向かったまま、眠り込んでしまっていたらしい。
 枕代わりの原稿用紙から顔を起こすと、頭が少しふらついた。
「重いな……頭が」
 呟いた言葉が嗄れている。もしやと思い、私は唾を飲み込んでみた。
 痛い。突き刺すような痛みがあった。
「風邪を……ひいたのか」
 昨晩かいていた汗のせいか。無理な体勢で眠り込んだせいか。
揺れる頭を抱え込みながら立ち上がり、私は書斎から寝室へと向かうことにした。

58 名前:投薬7/8 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/23(佐賀県民) 23:51:33.79 ID:a20tOaJH0
 病床という物は退屈である。
一通りの看病を妻にして貰った後、私は一人寝室で天井を眺める作業に没頭していた。
 書き進まないペンを握り続けるよりかはマシかと思ってみるが、それでは根本的な解決には至らない。
焦燥感と退屈という感情が心中で同居していた。
「おとーさん」
 そんな時だった。かちゃりと寝室のドアが開く音がする。
コップを乗せた盆をえっちらおっちらと運ぶ娘が姿を現していた。
「おくすり、もってきたよー」
「……恵美か?」
 危なっかしく彼女はふらりふらりと側へ寄ると、彼女は私に盆を突きだした。
「とくせいのおくすりだから、きくよ!」
「ああ。有り難う」
 そう言って私は盆上にある、コップの中身を確認もせずに一気に飲み干した。

59 名前:投薬8/8 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/23(佐賀県民) 23:52:05.98 ID:a20tOaJH0
 チクリと、喉に当たる物があった。
次の瞬間、喉がひっくり返るような心地がして、私は咳き込んでいた。
 ゲホゲホという音が寝室中に響き渡る。
喉へ気管へ入ろうとする異物の侵入を拒むため、私は咳き込む作業に没頭する。
 いったい、何が入っていたのか。苦しみながらも、気になった私はコップの底に残っていた薬を見た。
「これは……」
「おとーさん、だいじょうぶ? でもきちんとのまなきゃダメだよ! おとーさんのつくったおくすりなんだからね」
 底にこびり付いていたのは、切り刻まれた原稿用紙だった。
 それは昨日無理矢理書いた箇所であり、ミミズの這うが如きインクの跡も伺える。
喉に入っていた紙切れを全て掻き出すと、私は茫然としてそれを見つめていた。
「げんきになった? あたま、もういたくない?」
 彼女が窺うようにして私の顔を覗き込む。
 思わず、笑いがこみ上げてきた。
「……ハハ、ハハハ」
 まあ良いか。あのように無理して書いた文章である。
薬代わりにこの様に飲み込んでしまうのが丁度良い。ヘタに考えすぎてたから、このように熱を出す羽目にもなったのである。
「もう、大丈夫だよ。後は、少し寝てるだけで治っちゃうな。有り難う」
「えへへ、どういたしまして!」
 本心から、私は彼女の薬に感謝の礼を告げた。

(了)



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