【 大怪盗と月の薬 】
◆wDZmDiBnbU




23 名前:大怪盗と月の薬 (1/7) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:06/10/23 22:08:18 ID:8WOyujJD
 酔いたいのならば、ブラスクラムに行けばいい。一晩だけなら、酒も女も夢もある――。

 そんな言葉で呼ばれるブラスクラムの街。巨大なカジノが軒を連ね、年中無休で多額の
現金が飛び交うこの国最大の繁華街。軒を連ねるパブには最高の酒が並び、美しい女たち
が花を添える。まさに、不夜城――そんな表現がふさわしい。眼下には、煌々と輝くネオ
ン街。あの中にいたのでは、夜空に瞬く星々も見えなやしないだろう。まして、黒いスー
ツを来た人間が空にいるなどと、誰が思うだろうか。
 空に輝く巨大な広告塔、アドバルーンのロープをステッキがつたう。緩やかな落下。目
的のビルの屋上に着地すると、彼は仕立ての良いスーツの裾を払った。胸のハンカチを整
え、赤いタイのずれを正す。どこか時代がかったその姿は、彼の仕事着であり、トレード
マークでもある。怪盗貴族ランバーン――この地球上に、彼の忍び込めない所はない。そ
の手口は巧妙であり、時に大胆、そして奇抜。この世の全ての宝はいずれ、全て彼のもの
になるのではないか――そんなまことしやかな噂さえ囁かれるほどであった。
 ランバーンは軽快なステップで非常階段を下りると、手にした懐中時計に目をやった。
午後十一時三十分。ポケットにしまい込んだ懐中電灯の代わりに、真っ白なICカードを
取り出す。それを扉の脇のスリットに通すと、錠はあっさりと解除された。予定通り。
 さあ、仕事の時間だ。
 重厚な鉄の扉を押し開けると、暗闇に沈む廊下が待ち受けている。この街で一番高いビ
ル、クレセントタワー。この街に渦巻く金と権力の象徴。コンクリートで出来たその塔は、
まるでこの街の暗部を隠すかのように、多くの謎に包まれていた。特に四十階以上のフロ
アとなると、出入りできるのは一握りの人間のみ。様々な憶測が流れてはいるが、事実は
定かではない。その中にはきな臭いものも少なくはなかった。
 そして、その最上階に眠る最も大きな謎。ランバーンは、この先に待ち受けているそれ
を想像し、胸を躍らせた。『ブラスクラムの三日月』――この地上で最も美しいと噂され
る宝。その名前と噂の他は、全てが謎に包まれている。手を尽くして調べても、その正体
は謎のままだった。だが逆にその点こそが、ランバーンの興味をくすぐった。面白い。そ
れならどんな宝なのか、この目で直接確かめてやろうじゃないか。
 手近なドアのノブに手をかけ、室内に侵入する。宝の正体も、この建物の間取りもわか
らないが、それなら直接調べるだけだ。まずはお宅拝見――そう思い後ろ手にドアを閉め
たとき、ランバーンは早速、己の呑気さを呪う羽目になった。

25 名前:大怪盗と月の薬 (2/7) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:06/10/23 22:09:05 ID:8WOyujJD
 誰かいる。
 咄嗟に手にしたステッキを握り直す。やれやれ映画でもあるまいに、派手な戦闘シーン
はあまり好みではないのだが。そう思った次の瞬間に、周囲は灯りに包まれた。急激な光
量の変化に、大慌てで瞳孔が収縮する。
「こんな時間に、どちら様?」
 目を凝らすと、どうにか周囲の様子が見えた。赤い厚手の絨毯と、シルクのカーテン。
高い天井からはシャンデリアが吊るされ、その灯りが部屋を暖かく照らし出している。贅
の限りを尽くした装飾の数々。部屋の中央にはひときわ目を引く大きなベッド。その傍ら
に、小さな人影が見えた。
「初めてだわ。ノックの一つもしないお客様なんて」
 声の主――おそらくこの部屋の主であろう――は、まだあどけなさの残る少女だった。
だが何よりランバーンを驚かせたのは、息をのむようなその美しさだ。透き通るような白
い肌。柔らかなハニーブロンドの巻き毛。大きな瞳は蒼く輝き、薄い弓形の唇には微笑が
宿る。滑らかな曲線を描く輪郭、襟元から覗く細く長い首。豪勢な仕立てのネグリジェの
上から、その華奢なシルエットがかすかに透けて見える。美しい。まるで天使のようなそ
の容姿。
「どこからおいでになられたのかしら」
「それがどうも、少し道に迷ってしまったようでね」
 ランバーンの言葉に、少女は楽しそうに微笑んだ。
「どうぞおかけになって」
 少女はランバーンに椅子を勧めると、隣の部屋へと歩き出した。こうなればあわてても
仕方ない。ランバーンは少女に進められるまま椅子に腰掛ける。
「本当は予約がなければお断りするんだけど、丁度いいわ。今日はお休みだったし、話す
相手もいなくて暇だったの」
 二つのシャンパングラスとボトルを手に少女が戻ってくる。テーブルの上にそれらを置
くと、慣れた手つきでコルクを抜く。
「それで、目的のものは何かしら、迷子の怪盗貴族さん」
 お見通し、というわけか。まあこんなわかりやすい格好をしているのだから、当然だろ
う。

26 名前:大怪盗と月の薬 (3/7) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:06/10/23 22:10:01 ID:8WOyujJD
「三日月を探していてね」
 その言葉に彼女は目を輝かせた。グラスにシャンパンを注ぎ終えると、今度は窓の方へ
と歩き出す。三日月ならここにあるわ――彼女が引いたカーテンの向こうには、確かに三
日月が架かっていた。なるほど、確かに今日は三日月の晩だ。感心したように頷くランバー
ンに対して、少女はいたずらっぽい笑みを浮かべて囁いた。
「それとも、あなたが探しているのはこっちの三日月?」
 こっちの三日月。その言葉にランバーンが首を傾げると、少女はがっかりしたようにた
め息をついた。
「ご存じなかったかしら」
 少女はランバーンの前に歩み寄ると、かしこまった態度で深々とお辞儀をした。
「初めまして、クレセアと申します。またの名を、ブラスクラムの三日月、とも」
 ランバーンは目眩を覚えた。ブラスクラムの三日月とは、この少女のことだったとは。
確かにその美しさは噂に勝るとも劣らないが、だがこれでは盗んで行くわけにも行かない。
「あなたは噂の怪盗さんでしょ? 想像していたよりもずっと若いのね。お会いできて光
栄だわ」
 笑いながら、小さくグラスを鳴らす。なぜだかやたらと楽しそうなその少女、クレセア
の様子に、ランバーンは頭痛のする思いだった。
「……どうしたの? 随分とご機嫌がよくなさそうだけど」
「私は盗みはしても、誘拐はしないのだよ」
「じゃあ何しにきたの? まさか今夜一晩だけこっそりと、タダで遊びに?」
 遊びじゃない、仕事の下見のつもりだ――そう言うとクレセアは目を丸くした。心底驚
いた様子だ。何かおかしなことでも言っただろうか。
「あなた、本当に何も知らなかったの? ここは娼館よ」

 ランバーンは思わず天を仰いだ。まさか、あんな馬鹿げた噂が本当だったなんて。粒ぞ
ろいの女たちに、最高のもてなし。そして徹底した秘密主義の、各国VIP御用達の娼館。
そんなものが、この派手な街の真ん中にあるわけがない――いや、そもそもその考え自体
が盲点だったのか。
「本当に知らなかったみたいね……」
 あきれた様子でクレセアが言う。情けない話だが、まったく彼女の言う通りだった。

27 名前:大怪盗と月の薬 (4/7) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:06/10/23 22:10:45 ID:8WOyujJD
「まあいいわ。せっかく来たのなら、せめて話し相手にくらいなってくれるわよね。それ
とも、話だけではご不満?」
 ランバーンは首を振った。とんでもない。
「せっかくのお誘いだが、長居できるような身でもない。それに私は子供を抱く趣味はな
いものでね。早く寝たまえ」
「初対面から随分と子供扱いしてくれるわね」
 むっとした様子でクレセアが反論する。だがどう言おうと、子供は子供だ。
「あなたがいくつか知らないけれど、まだ二十代半ばか後半といったところかしら」
 まあ、いい線だ。ランバーンは答えず微笑した。どうやらクレセアはそれを肯定と受け
取ったらしい。
「ならそれほど歳が離れているわけでもないわね。こう見えても私、二十二歳のレディよ」
「それは失敬。面白い冗談だな」
 一笑に付すランバーンに対して、クレセアは真面目そのものだった。
「それが冗談でもないの。『月の素』って聞いたことある? あなたの仕事にとっても面
白い話だと思うけど」
 クレセアはテーブル脇の引き出しから、小さな箱を取り出した。
「このブラスクラム、みんなカジノとお酒の街だと思ってるみたいだけど、それはあくま
で表の顔よ。この街が大きくなったのは、この娼館と、これのおかげ」
 クレセアが箱を開く。中には、いくつかの小さな白い錠剤。彼女はそれを取り出すと、
手のひらで弄んだ。
「薬か」
 ランバーンは見たままの感想を述べた。薬。仕事柄、稀に睡眠薬などを使うこともある。
だが三日月の刻まれたその錠剤は、見たことのないものだった。
「そう。これが月の素よ。この娼館もこれの副産物と言ってもいいわね」
 そう言うと、クレセアはその錠剤を飲み込んだ。
「麻薬か覚醒剤かの類いかね」
「そんなものじゃないわ。ちゃんとした効用のある薬よ」
 効果は見ての通り――そう言うと、クレセアは両手を広げ、その場で一回転してみせた。
ランバーンは何のことかわからず、首をひねるばかりだったが、やがて一つの考えに行き
着いた。まさか、そんなばかな。

28 名前:大怪盗と月の薬 (5/7) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:06/10/23 22:11:30 ID:8WOyujJD
「君は確か、二十二歳と言ったな」
 その言葉に、クレセアが微笑む。その表情は、ご明察、といった風情だ。
「その通りよ。この薬は、年齢の進行を妨げる効果があるの」
 信じられない。そんな薬が存在するなんて、馬鹿げた話があるものだろうか。
「でも現にあるもの。十三の頃から飲み始めて、まだ体は十五、六くらいかしら」
 そう言うとクレセアは、ひらひらとネグリジェの裾を振ってみせた。その見た目として
は、確かにそのくらいだろう。だからといって何の証拠にもなりはしないのだが。しかし
彼女が嘘をついているようにも思えなかった。この街の急激な成長ぶり、そして彼女の見
た目にふさわしくない、どこか大人びた雰囲気を考えると、単純な嘘とも言い切れない。
「娼館にとっては都合のいい薬よね。商品の価値を長持ちさせられるし、それにこの薬は
ここにしかないもの。そうやすやすとここからは離れられないわ」
 相変わらず微笑んではいたが、その声にはどこか陰りがあった。この街で最も高い頂点
にいながら、自分のことを商品と呼ぶクレセア。さっきまでは豪華に見えていたこの部屋
が、どこか鳥籠のように感じられる。
 クレセアはシャンパンをあおると「私の話はこれでおしまい」と締めくくった。
「また来たときには寄って行ってね。雨宿りくらいなら許してあげる。窃盗は犯罪だけど、
まあ貴族だし大目に見てあげるわ」
 冗談っぽく言いながら、ウインクまでしてみせる彼女。一瞬ほの見えた陰りはどこかへ
となりを潜め、あとには可愛らしい少女の姿だけが残った。そのことが余計、ランバーン
の心に響く。
「なるほど『月の素』か、面白い話だった」
 それが嘘であれ本当であれ、もはやランバーンには関係ない。ただ一つ重要なのは、彼
女がブラスクラムの三日月であるということ。星々の輝く中、一番高い所に輝く夜空の王。
確かに彼女は三日月そのものだ。ランバーンは窓の外に目をやった。
 かつてこんな気持ちで月を見たことがあっただろうか。その姿はどこか寂しく、孤独で
さえあった。窓枠に囲われたその月が、夜明けの扉を開くことはない。輝くことのできる
のは夜の間だけ。ただいつも同じ顔だけを向けて、帰路を行く人の道を照らす。彼女もま
た、同じなのかもしれない。ランバーンはクレセアに向き直った。

29 名前:大怪盗と月の薬 (6/7) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:06/10/23 22:12:05 ID:8WOyujJD
「お礼に一つ、宝石をプレゼントしたい。きっと気に入ってもらえるはずだ」
 胸のポケットに手を入れながら、ランバーンは続けた。これから私が君に渡すのは、美
しい君に一番似合う宝石だ。いままで君が貰ったであろうどんな宝石よりも大きく、そし
て世界一美しい。まあもっとも、盗品ではあるがね――その言葉に、クレセアは顔をほこ
ろばせて笑った。
 ランバーンがクレセアの前に手を差し出す。その上には、一つの錠剤。もう一方の手が
窓を指差す。
「この薬であの三日月を盗み、君に捧げよう」
 ランバーンの言葉に、クレセアは目を丸くした。
「そんなの出来っこないわ」
「どうかな。だが一つ憶えておきたまえ。怪盗に盗めないものはないのだよ」
 ランバーンは微笑むと、目の前のシャンパングラスに錠剤を落とした。細かな泡がその
錠剤を包み、やがて消える。よく見ていたまえ――そう言って彼が取り出したのは、やや
大きめのメダル。この街ではおなじみの、カジノで使われているものだ。それがゆっくり
と、シャンパングラスの中に沈んでゆく。やがてグラスの底に達し、それは斜めに立つ形
で静止した。
「これが、月?」
 逸るクレセアの唇を、ランバーンの人差し指が制した。静かに――そういって立ち上が
ると、部屋の灯りを消す。窓から差し込む一筋の月光。それは真っ直ぐシャンパングラス
へと降り注ぎ、そして――。
 クレセアは息をのんだ。目の前には、シャンパンの中できらきらと揺らめく三日月。盗
めるはずのない夜の主が、グラスの中で輝いている。
 シャンパンの中に溶け出し、グラスの底に沈殿した薬品。それがメダルの金属に化学反
応を起こし、その表面を溶かしたのだろう。斜めに立つメダルの下半分が、滑らかな弧を
描いて輝いている。月光を受けて輝くそれは、まさに三日月以外の何者でもなかった。
「……奇麗」
 どのくらい見とれていただろうか。やっとのことで感想を漏らすクレセア。だが、返事
はない。見回すと既に、そこには誰もいなかった。

30 名前:大怪盗と月の薬 (7/7) ◆wDZmDiBnbU 投稿日:06/10/23 22:12:56 ID:8WOyujJD
 貴族という割には、随分とせわしない方ね――。
 クレセアはため息をつくと、再びテーブルの上の三日月に視線を戻した。まったく、ず
いぶんな貴族もいたものだ。急に現れたかと思ったら、慌ただしく帰って行ってしまう。
ただ一つ、不思議な贈り物だけを残して――。
 つかみ所のない、まるで魔術師のような人。また、会えるだろうか。その可能性を考え
ると、思わずクレセアは目を伏せた。彼は泥棒、招かれざる客だ。再び会うことなどある
はずもない。でも――クレセアはもう一度、彼のプレゼントに目をやった。
 ……でも、ひょっとしたら。
 クレセアの脳裏に小さな考えが閃いた。窓から注ぐ光に照らされた彼女の顔は、確かに
微笑んでいた。


 一ヶ月後。朝から雨の降りしきるその日、クレセントタワーに奇妙な手紙が届いた。

『 拝啓 ブラスクラムの三日月 様
  今宵、あなたの部屋に置き忘れた三日月をお返しして頂きに参ります。
  雨雲で月をお返し頂けない場合は、代わりの三日月を頂戴いたします。
                       怪盗貴族 ランバーン 』

 大怪盗からの予告状。慌ただしく駆け回る警備や警察を尻目に、クレセアはシャンパン
グラスを二つ、テーブルの上に並べていた。ちょっとした気まぐれの雨宿りかもしれない。
でも。クレセアは予告状に手を添えた。
 ――貴族にしては、随分と不器用なお手紙なのね。
 半分溶けかけたメダルの縁を、細い指がなぞる。彼女は立ちこめる雨雲の上に、人知れ
ず月が架かるのを待った。

<了>



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