【 銀婚式 】
◆D8MoDpzBRE




389 名前:銀婚式 1/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/10/15(日) 23:18:36.10 ID:18cwQAd90
 アパートの一室に、西日が夕焼けを切り裂いて差し込んでくる。家具を引き払われた部屋の中一面、紅葉色
に染まる。薄肌寒くなった部屋の中に立ちこめる、晩秋の香り。冷たい床の上に積み上げられた段ボールた
ちが、明日に迫った引っ越しの時を待ちわびていた。
 一通り部屋の片付けを済ませて、智子がフローリングの床に座り込んだ。四十八歳の未亡人。一人で暮ら
すには、このアパートは広すぎる。
 部屋の隅に置かれた粗大ゴミの山に気づくと、智子が気まずそうに視線を背けた。古くて大きな冷蔵庫や二
槽式の洗濯機などと一緒に、比較的新しい家庭用のワインセラーが並んでいる。木目のデザインが施された
それは、言うなればワイン専用の冷蔵庫だ。智子の亡き夫、義郎が愛用していたものである。
 明日は結婚二十五周年、いわゆる銀婚式の日だ。義郎が生きていれば、共に祝えたことだろう。
――これで、二人の歴史も終わるのね。
 智子がため息をついた。一人佇む智子の脳裏に浮かぶのは、寂しい記憶の断片だけだ。
 夕映えのスクリーンが徐々に後退し、替わりに宵の口が空へと伸びる。すっかり日が落ちて暗くなった街を、
無数の小さな照明たちが彩ってゆく。夜へと続く長いトンネルを、誰もが等しく通り過ぎなければならない。智
子にとっては、気が重くなる仕事だ。
 智子が、重い腰を無理やり持ち上げて立ち上がり、部屋の照明を点ける。次に窓のカーテンを引くと、瞬時
にして室内の空気は外界から途絶された。彼女の胸中に寂しさがこみ上げてくる。
 ふと、足元の段ボールに智子の目が向く。まだ梱包がすんでいない箱の中に、昔のアルバムがあった。
 その中の一冊目を取り出すと、智子はおもむろにページをめくった。
 一枚目は高校時代の写真。智子と義郎がお互い画面の隅と隅で、カメラに向かって驚いた表情をしている。
写真の雰囲気からは、昭和の年代が感じられる。高校生の二人が同じ一枚の写真に写っているのは、これだ
けだった。
 智子と義郎は、高校で出逢った。三年間を同じクラスで過ごし、お互いに惹かれ合うものを感じながらも、特
別な関係になることなく卒業を迎えた。当時は、高校生が異性と交際することの方が珍しかったのだ。
 二枚目の写真は、大学時代に開かれた同窓会の場面だ。自由という名の羽根を伸ばし、開放的になった二
人の姿が写っていた。ピースサイン、アルコール。やはり、二人の表情には驚きが含まれている。
 義郎はサングラスにタンクトップという出で立ちだ。最近の若者の中に混じっても引けを取らないのではない
か、と智子が思う。ディスコなんかが流行っていたのもこの頃だ。
「これが、始まりだったっけ」
 写真に見入りながら、智子がつぶやいた。記憶の中では色あせた想い出が、アルバムを前にして鮮やかに
よみがえる。一九七八年の夏、義郎と智子は共に二十歳だった。

390 名前:銀婚式 2/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/10/15(日) 23:19:14.46 ID:18cwQAd90
「智子、無理は体に良くないぞ。本当は酒なんて飲めないんだろ」
 顔を真っ赤に染め上げた智子を、義郎が半ばからかうような口調で介抱していた。懐かしい顔が並ぶ同窓
会の席を包んでいたのは、アルコール臭でむせかえるような熱気だ。ピンクレディーのレコードが、薄暗い店
内の雰囲気を怪しく盛り上げている。
 喧騒の中心から距離を取ると、義郎は智子を端の席に座らせた。
「平気よ。酔ってなんかないわよ。今だって普通にしゃべってるじゃない」
 智子が強がってみせた。巷で流行の兆しを見せていたキャミソールが、彼女の火照った体を頼りなく包んで
いる。酒豪の義郎にしてみれば、智子のこういう仕草は可愛らしいものだ。
「頼りない返事は結構。ろれつすら回ってないじゃないか。まだ、酒の味を覚えるには早かったかな」
「もう、馬鹿にして。義郎さんだって、同い年じゃないの」
 甘いカクテルでも度は強い。智子は、頭の中をかき回されているような浮遊感を味わっていた。
 二人のやりとりを聞きつけて、谷沢昭彦がカメラを手に下げてやってきた。高校時代、彼は写真部のエース
として鳴らしてきた男だ。写真への傾倒ぶりから、近所では酒屋の道楽息子などとも呼ばれていた。
「よう、お二人さん。久しぶりの再会を祝して記念撮影だ」
 突然の呼びかけに、二人が言われるがままピースサインで応じる。ほの暗い店内を、フラッシュの光が一閃、
瞬いた。
「義郎、写真が出来上がったら送っておくわ」
 谷沢は、そう言うなり人混みの輪の中へと消えた。後に残された二人が、お互いの顔を見つめ合う。
 停滞した空気を振り払うように、義郎が口を開いた。
「外、出ようぜ」

 都心は連日の熱帯夜にも関わらず、熱気を帯びてむしろ繁栄を極めていた。義郎が、智子の手を引いて歩
く。二人を支配するほろ酔い気分、多幸感。街灯が揺れて、二人の足取りを幻惑する。
 突然、義郎が足を止めて、智子の方へ向き直った。交錯する二人の視線。
「好きだ」
 と言うが早いか、義郎が智子の唇を奪った。呼吸を邪魔されて、智子の意識が心地よく遠のく。二人は、高
校生の頃には味わえなかった感覚に浸かっていた。
 義郎が口を離すと、すかさず智子が唇を奪い返した。お互い舌の先で、アルコール混じりの唾液をむさぼり
合う。短い息継ぎを挟んで、延々と同じやりとりが繰り返された。
 その夜、二人は一線を越えた。

391 名前:銀婚式 3/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/10/15(日) 23:20:07.86 ID:18cwQAd90
 アルバムをめくる智子の頬を、止めどなく涙が伝う。二人が歩いてきた軌跡を、当時の写真が鮮明に記憶し
ていた。デート先は華やかな竹下通り、近代的な建物が並ぶ表参道など。懐かしい昭和の面影は、遠い昔の
幻のように感じられた。
 二冊目のアルバムは、結婚記念特集号といった趣だ。神前式の結婚式は当時のスタンダード。挙式から披
露宴までの写真撮影を、元写真部の谷沢に託したのは大正解だった。当日の空気まで、ページをめくるたび
に伝わってくる。
「智子ちゃん、泣きすぎだよ。写真写りが悪い、って後で旦那に怒られるのは俺なんだからさ、笑ってよ」
 谷沢に無理やり作らされた笑顔の写真。智子の表情は、涙と鼻水にまみれていた。
 新婚旅行には、芸術の都パリを選んだ。敢えてパリを選んだのは、二人の中に何となく憧れのようなものが
あったからだ。
 アルバムには、パリのエキゾチックな光景が並ぶ。智子は小洒落たブティックのウィンドウショッピングを満
喫し、義郎はひたすらワインに魅入っていた。手土産には、智子が選んだ洋服や装飾品の類と、義郎が選び
抜いたワインボトル二本。完成して間もない成田空港へ降り立った場面を最後に、アルバムの二冊目が終わ
った。
 その後、義郎と智子は二人の子供に恵まれた。三冊目以降のアルバムは、子供たちの成長記録だ。二つ
違いの兄妹は、過剰な周囲の期待をよそに平凡に育っていった。幸せとは、そういうものかも知れない。
 義郎の仕事も順調だった。折しもバブル経済の好景気にあおられ、会社も業績を伸ばしていた。バブルが
崩壊してからも、仕事人としては堅実な義郎は、職場では重宝されていた。その分、職場の健康診断でお酒
の飲み過ぎを指摘されても、平日に病院の内科外来できちんと検査するような暇はなかった。

 小中高と子供たちが成長するに従って、義郎と智子の顔にはしわが刻まれていくのも自然の流れだ。そのこ
とを不幸だと思う人間はどこにもいない。だが、アルバムをめくりながら智子は思うのだ。人を失うことを自然
の流れと割り切れないのは何故なのだろう。
 二人目の子供に就職の内定通知が届いた頃、事件は起きた。

392 名前:銀婚式 4/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/10/15(日) 23:20:54.03 ID:18cwQAd90
 珍しく早い時間帯に仕事を終え、寄り道もせずに義郎が帰ってきた夜。夕食を済ませて智子が居間でくつろ
いでいると、背後で義郎がワインセラーを開ける音が聞こえた。
「智子、晩酌に付き合わないか。昨日、贔屓の谷沢酒店が上物を流してくれたんだ」
 義郎がワインのボトルを片手に、上機嫌そうに話す。
「いいわよ、あなたと一緒に酒を飲むのも、久しぶりですものね」
 智子が、冷蔵庫からスモークチーズを取り出してテーブルの上に並べる。付け合わせだ。艶やかなチーズの
光沢と、ワインの深い赤が、白いテーブルクロスの上に映える。
 暖房の効いた部屋。季節は冬だった。窓の外には、都内としては珍しく雪が降り積もっていた。寒い季節に、
凍えることなく過ごせる幸せ。智子は、これが温かい家庭なんだな、と一人考えていた。
「智子、いつもご苦労さん。乾杯」
「乾杯」
 お酒を飲むと、智子はいつもあの日のことを思い出す。年甲斐のないことだと思いつつも、回想がやむこと
はない。二人が結ばれた夜。例えここが薄暗い居酒屋ではなくとも、今が暑い夏でなくとも、ピンクレディーの
レコードがかかっていなくても――智子の感性は、二十歳の頃に戻るのだ。
 景色が心地よく回り出すのもあの日と同じ。ほろ酔いの多幸感。部屋の照明が揺れて、智子の心を幻惑す
る。目の前で義郎の姿も廻る。景色が輪舞を踊る。森羅万象が巡る。義郎が、倒れる。
「ちょっとあなた、何やってるの?」
 我に返った智子が、おそるおそる話しかけた。返事はない。義郎は、上半身をテーブルに突っ伏して動かな
い。そして、白いテーブルクロスが真っ赤に染まっていく。悲鳴は声にならず、智子は尻もちをついた。

 動転したまま病院へ向かった智子を待ち受けていたのは、急展開。白衣の医師が矢継ぎ早に説明をまくし
立ててきた。
「アルコール性肝障害に起因する食道静脈瘤破裂が疑われるため、緊急内視鏡的止血術並びに輸血を行い
ます。いずれもリスクを伴う処置ですが、放置や保存的加療による現症の改善は見込めません。最善を尽くし
ても救命は保証しかねる状況ですが、先述の処置に御同意いただけたら、こちらに署名をお願いします」
――アルコールのせい? 救命はできないの?
 状況がまるきり飲み込めないまま、智子が力なくサインをする。内視鏡室という部屋に、処置中と書かれた
赤いランプが点った。
 そしてこれが、智子と義郎にとって今生の別れとなった。

393 名前:銀婚式 5/5 ◆D8MoDpzBRE 投稿日:2006/10/15(日) 23:21:38.40 ID:18cwQAd90
 想い出にばかり浸っていられない。智子が、アルバムを段ボールの中にしまうと、上からガムテープで蓋をし
た。昔話よりも、明日から始まる現実。立ち上がろうとする彼女の手足に、力がこもる。
――ピンポーン
 玄関の呼び鈴が鳴った。智子が夜中の来客に戸惑いながら、ドアの覗き穴からその姿を見た。
 谷沢酒店の店長、谷沢昭彦だった。
「智子ちゃん、ごめんね。どうしても渡したいものがあってさ。本当は明日にしようと思ったんだけど、もう明日
にはここにいないって言うから来ちゃったよ」
 そう言うと、谷沢がワインボトルが入った箱を差し出した。それを見て、智子は軽いめまいを覚えた。義郎と
死別して以来、彼女はアルコールの香りを極度に恐れていたのである。お酒にはいい想い出もあれば、大切
な人を奪われた想い出もある。智子は、まだ割り切ることが出来ていなかった。
「谷沢君、ごめんなさい。まだ気持ちの整理が出来ないから、お酒は受け取れないの」
 申し訳なさそうに、智子が頭を下げる。
「待って、智子ちゃん。義郎からの言づてなんだよ。覚えてる? 二十五年前、パリであいつが買ったものを」
 智子が、必死の思いで記憶の糸をたぐる。義郎の旅先の楽しみと言えば、いつもお酒だった。
「……ワインを二本、買っていたわ」
「そう、ここにあるのがそのうちの一本なんだよ」
 シャトー・マルゴーの赤、一九七八年もの。新婚旅行に行く三年前のヴィンテージだ。
 谷沢が語り出す。
「これはね、三年間フランスの樽で熟成されたやつを、義郎が日本まで持ってきて、うちの倉でさらに二五年寝
かせたんだよ。俺らの銀婚式まで大切に預かっててくれよ、なんて言われてね」
 義郎にとって、一生のうちで一番飲みたかったであろうワインが、そこにある。
 智子が、一つの決断を下した。いつか心の整理が出来たときにこれを飲もう、と。それまではちゃんと保存し
ておかなければいけない。家庭でも扱えるワインセラーに。
「ありがとう」
 智子が、改めて谷沢に対して頭を下げた。彼女の顔に、少しだけ笑顔が戻る。
「ところで谷沢君、主人が買ったもう一本のワインはどこにあるの?」
 谷沢が、勿体ぶるかのように間をおいた。一つ咳払いをして、彼は再び話し始めた。
「そっちの方はね、もう二十五年待ってて。義郎が言うには、俺らの金婚式まで大切に預かっててくれよ、って
ことだからさ」
             <了>



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