356 名前:品評会用作品 おもいでBAR 1/5 ◆uzrL9vnDLc 投稿日:2006/10/15(日) 22:46:14.82 ID:7Of1DByx0
そろそろ一人でバーに入ってみたい、という願望は、実はかなり以前から抱いていた。
二十三になった記念にバーに入ってみよう、と決めたのが昨日。決めたはいいが、着るものに
まったく金を掛けてこなかった俺には、何を着て行ったらいいかがまず分からない。
そこで今日は昼間から駅前に出てきて、適当な服屋で、ちょっとセミフォーマルな感じの
ジャケットやら何やらを購入した。それに身を包んで、宵の口の裏通りなんかを闊歩する。
人に話したらお笑い種だが、俺にとって、これはちょっとした冒険だった。
今まで飲みといったら、部活連中との盛大な潰し合いか、変に気を使うだけの合コンくらいのものだったから。
ふと、一軒のバーが目に留まった。
『BAR おもいで』
いい感じにひなびた店構えは、威圧するようでもなく、入りやすい感じだった。ここにしてみるか。
少し立て付けの悪い戸を開けると、カウベルがコロンコロン、と音をたてた。
「いらっしゃいませ」
バーのマスターは、いかにもといった容貌の老人だった。口髭がよく似合っている。
店内は思ったより狭く、カウンター席のみで、そこも七・八人座ったら満席、という感じだった。
仄暗い照明に、所狭しと置かれた酒瓶が光っている。どこからか、控えめな音量でジャズが流れている。
俺の他に客は見当たらない。どうやら俺が一番客のようだ。マスターの向かいの席に腰掛ける。見た目より座り心地のいい椅子だった。
「初めてみるお顔ですね」
マスターが話かけてきた。落ち着いた、耳に心地よい声だった。
「こちら当店のメニューとなっております」
そういって渡されたメニューを開いてみて、俺は驚いた。そこには値段も写真もなく、
ただ白地に十分余白をとって、このように記してあった。
「春」「夏」「秋」「冬」
「青春」「初恋」「憧憬」「友情」
「文化祭」「体育祭」「修学旅行」「卒業式」
次のページも、その次のページも、似たような単語の羅列だった。ビールとか、ウイスキーといった単語は微塵も見当たらない。
「あの、これって……」
357 名前:品評会用作品 おもいでBAR 2/5 ◆uzrL9vnDLc 投稿日:2006/10/15(日) 22:46:52.66 ID:7Of1DByx0
「当店のメニューは、全てオリジナルカクテルとなっております」
しまった、と思った。変な店に入ってしまったか。しかし、ここで帰るわけにもいかない。
仕方ない。腹を決めて、一杯だけ飲んで帰ろう。
「……じゃあこの『夏』ってのお願いします」
「かしこまりました」
マスターのカクテルを作る動きは、急いだり、無理に演出効果を狙ったりすることのない、一分の隙もないものだった。
俺はしばらく、その熟練した手並みに見惚れていた。
「どうぞ」
出てきたのは、コリンズグラスに入れられた、白色のカクテルだった。
一口含む。カルピスに少しミントの香りを足したような、爽やかな味がした。
と、そのとき、俺の周りの世界が一変した。舞台の幕が開くように、バーの背景がすうっと消えて、
代わりに青空が俺の目に飛び込んできた。
「ここは……」
照りつける太陽。青空の向こう側に入道雲。むせかえるような草いきれ。
ここは、間違いなく夏。その夏の真ん中に、俺は立っていた。どうなってるんだ?もう年の瀬も近いっていうのに。
俺は呆然としていたが、しばらくして、そこが自分の知っている場所だと気づいた。
小学校の頃よく友達と遊んだ、実家の近所の河川敷だ。でもなんでここに俺が……?
自分の格好を見ると、バーに入ったときのままだ。しかも、手にはさっきまで飲んでいたカクテルを持っている。
俺が混乱していると、突然、少年の声があたりに響いた。
「おーいタカシ! なにしてんだ、早くボール持って来いよ!」
あの独特のダミ声は……
「カッちゃん!?」
一つ年上で、子供の頃、毎日のように遊んだカッちゃんが、俺のイメージのまんまの姿でそこにいた。
「うわあ、懐かしいな、カッちゃんじゃないか!」
俺は思わず駆け寄ったが、カッちゃんには俺の姿が見えていないらしい。
考えてみれば、カッちゃんがまったく年を取っていないのもおかしい。俺は夢でも見ているんだろうか。
358 名前:品評会用作品 おもいでBAR 3/5 ◆uzrL9vnDLc 投稿日:2006/10/15(日) 22:47:25.95 ID:7Of1DByx0
「待ってー。いま行くよー」
後ろから、聞き覚えのある声がした。あの泥だらけの背の低い少年は……「俺」だ。小学校の頃の俺がいる。
なんとなく分かってきた。ここは俺の思い出の中の世界。俺はこの世界を、ただ外から眺めているに過ぎないんだ。
俺は草の上にあぐらをかき、カクテルを飲みながら、少年たちのキャッチボールを見ていることにした。
ああ、「俺」は下手くそだな、カッちゃんが取りやすいところに投げてくれてるのに、みんなエラーしてる。
それでも、二人とも、とても楽しそうだ。
カッちゃんは中学で野球部に入ったので、毎日練習で忙しく、俺と遊ぶことも自然となくなっていった。
高校は野球部の強いところに行ったはずだが、今はどうしているだろうか。
気がつくと、グラスの中身はほとんどなくなっていた。
最後の一口をぐいっと飲み干すと、周囲の風景は徐々に溶けていき、俺は元いたバーに戻ってきていた。
「いかがでしたか」
マスターがにっこりと微笑む。
「ああ、とても良かったよ」と俺は答えた。
それから俺は、いくつもの思い出に酔った。
「初恋」のカクテルでは、甘酸っぱいパッションフルーツのカクテルを飲むと、夕焼けの屋上で、俺が始めて告白した場面に出くわした。
「修学旅行」のお茶の香りがするカクテルでは、夜中に枕投げで大騒ぎして、全員、廊下で正座を食らった場面。
「友情」の鮮やかな青色のカクテルでは、俺が自転車で大怪我をしたとき、
みんなが千羽鶴を折ってくれたところが映し出されて、涙が出そうになった。
気がつくと、メニューに載っているほとんどのカクテルを飲みつくしてしまった。
ただ、メニューの一番最後に、ポールペンでこう書き足してあった。
「未来」
おれはマスターに尋ねてみた。
「あの、この『未来』って」
「ああ、申し訳ありませんが、それはまだ試作品なんです。常連さんで、特別に希望される方にだけお出ししているんですよ」
俺はがっかりした。が、どうしてもこのカクテルが飲みたくてたまらなくなった。
そこで、マスターに何とか作ってもらえるように頼み込んだ。
359 名前:品評会用作品 おもいでBAR 4/5 ◆uzrL9vnDLc 投稿日:2006/10/15(日) 22:47:56.85 ID:7Of1DByx0
「しかたがないですね」
マスターは困ったような笑顔で言った。
「あくまで試作品ですので、ご容赦くださいね」
そう言いおくと、マスターは数え切れないほどの酒瓶をテーブルに並べ始めた。
いったいどんなものが出てくるのだろうとワクワクして待ったが、
出てきたものは、小さめのロックグラスにほんのちょっぴり入った、真っ黒なカクテルだった。
そっと口に運ぶと、なんとも形容しがたい、複雑な味が広がった。舌の根に、僅かに苦味を感じる。
風景が変わり始めた。そこは、ここと同じくらい薄暗い場所だった。これは夜明け前だ。冷え切った大気が、ピンと張り詰めている。
電信柱が立ち並び、遠くで新聞配達のバイク音がする。なんだ、うちの近所じゃないか。
俺はがっかりしたが、しばらくすると、向こうから「俺」が歩いてきた。今の俺と、まったく同じ服装をしている。
それにしても、ふらふらと危なっかしい。どうやら相当酔っているようだ。
とそのとき、一台のトラックが、猛スピードで走ってきた。酔っ払った「俺」は、よろけて車道に倒れ込みそうになっている。
「危ない!」
俺は思わず叫んで駆け出した。トラックは、もう「俺」の真後ろまできている。
プアーン……
警笛が響く。ドシャツ、という鈍い音と、ガチャン、という破砕音。
「俺」が跳ねられたのと、カクテルのグラスが路面に落ちて割れたのは、ほぼ同時だった。
世界が暗転した。
360 名前:品評会用作品 おもいでBAR 5/5 ◆uzrL9vnDLc 投稿日:2006/10/15(日) 22:48:59.50 ID:7Of1DByx0
「……お客様。お客様」
ううん、と俺は顔をあげた。ひどい頭痛がする。
「お客様。もう閉店でございます。お目覚めください」
気がつくと、俺はカウンターに突っ伏して寝ていた。目を擦ると、氷が解けて水割りになったウイスキーが目に入った。
そうか、難しい酒は分からないから、ずっとウイスキーを飲んでいたんだっけ。おかげですっかりつぶれてしまった。
「ああ……ご迷惑掛けました……お勘定……」
俺はふらふらする頭で何とか会計を済ませ、店を出ようとした。何か、とてもいい夢を見ていた気がするのだけど……
「お待ちください、お客様」
不意にマスターに呼び止められた。
「帰り道、どうか車にはお気をつけください」
俺は一瞬はっとした。が、すぐに笑顔で礼を言うと、店を出た。
夜明け前の大気が張り詰めている。
冷たい風が、火照った顔に心地良い。
一つ大きな伸びをして空を見上げると、東の空に、明日がもうやって来ていた。
(終)