【 杯を手に酔いしれよ 】
◆dx10HbTEQg




313 名前:杯を手に酔いしれよ(1/5) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/10/15(日) 22:02:54.70 ID:P+kuYtdD0
 突如巻き起こった凄まじい叫び声に、ヴィンフリードは眉を顰めた。歓声が沸き、怒号が飛び交う。
 なんだと胡乱げに目をやると、全裸の男が踊っていた。真っ赤な顔をした馬鹿達がそれに続く。
 無論男の裸を見ても嬉しくない。嘆息して目を逸らすと、喧騒の片隅に激しく交わっている影を見つけてげんなりした。それも、
一組ではない。見慣れた情景ではあったし、特別奇異な行為でもないが、少し呆れる。明日、足腰が立たなくなったらどうする気なのか。
 まあ、様々な鬱憤を発散させるために催した宴なのだ。目的には沿っていると言えなくもないし、彼らの気持ちも分かる。
 獣にでもならねば、戦など。死を間近に見据え、平然としていられる偉丈夫など現実にいるものか。
 くつ、と暗く笑う。
 笑わずにいられるものか。酔わずにいられるものか。狂わずにいられるものか。
 兵士を従える者として、彼の気持ちは暗澹と沈む。つかの間でもよい。戦いを、不安を、死を。全て、馬鹿のように忘れて
しまえ。そのための酒宴だ。大いに騒げ。
 だが、そうは思うものの、彼自身は全く酔えていなかった。いつも共に飲んでいた友人が隣にいないからか。
 杯を月に翳す。雪のように白く光るそれは、夜光杯というらしい。風流を解さない自分が、美しいと感慨に耽った事に苦笑
した。明日も知れぬ我が身に、感傷的になりすぎているのかもしれない。
 再度暗く自嘲すると、杯に影が落ちた。見ると、目前に一人の男が立っていた。無粋な、と憤りを感じる。なんと無粋な。
 咎めようと視線を向けたが、男の表情に意表を衝かれヴィンフリードは口を噤んだ。屈託のない笑みが、
明るすぎる満月に照らされ不自然な程に映えていた。
「隣、宜しいですか?」
「……ああ」
 断る理由はなかった。無礼講だと宣言したのは彼自身であったし、話し相手も欲しかった。手酌で飲む酒は美味しくない。
 それならば誰かを呼べば良いのだろうが、遺憾ながら彼は大将だった。立場を重んずるものであれば、いくら無礼講だと言っても
緊張させてしまう。それでなくとも、屈強の戦士然としたヴァンフリードの風体は恐れられているのだ。丁度、厳つすぎる己の顔
を恨めしく思っていた所だった。
 美しい月です、と言いながらも彼は兵達の騒乱を見下ろしていた。戦場に相応しくない笑みを朗らかに浮かべ、腰を下ろす。
ヴィンフリードも相槌を打ちながら、月に照らされる兵士達を見つめた。満月に反して、その様子は美しくなど、なかった。
 宴から少し離れたその場所は、馬鹿騒ぎを見物するにも月を観賞するにも、絶好の場所だった。斜面になっているためか
座り心地は大してよくはないが、全景を一望できる高みにある。勿論それは酒乱する彼らかも丸見えという事でもあった
が、そのことに居心地悪くはならなかった。誰もが自分のことに手一杯で、他人のことなど気にしてはいない。

314 名前:杯を手に酔いしれよ(2/5) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/10/15(日) 22:03:27.38 ID:P+kuYtdD0
「飲むか?」
「いえ、酔いを醒ましに来ただけですので」
 三十代ほどであろうその男に見覚えはなかった。一兵卒の存在など逐一把握してはいない。その上、男の顔はどこにでも
いるような特徴のないものだった。
 しかし可笑しいものだなと思う。酔いを醒ます必要など、あるのか。いっそ酔い潰れてしまえばいいものを。
 怪訝な面持ちをしたヴィンフリードが、何を考えているのか分かったのだろう。弱いので、と男は恥ずかしげに呟いた。
「大将のお心遣いには、感謝しているのですけれどね」
 なるほど、飲んでも気分良く酔えないのか。それならば泥酔して不安を弾き飛ばすことも容易でない。
 申し訳なく思ったが、今更だろう。それに男は楽しそうに喧騒を眺めている。怒りながら泣き、吐きながら酒を飲む
男達。いつ散るとも分からぬ命を酒に託し、彼らは呵呵と笑う。全く美しくなどないが活気に溢れている。仮初であれ、好ましいことだ。
「明日は」
「ん?」
「明日は、どうなることでしょうね」
 視線はそのままに、男はふと笑みを消した。酔いを醒ますと言っていたのだから、多少なりとも酒は入っているのだろう。
酔った勢いの発言かと窺ったが、顔色からは判断しかねた。
「明日は、敵兵と出会うでしょうか」
 その予定はない、と答えようとして彼は止めた。そんなことはここにいる誰もが知っている。
 男が言いたいのはそういう事ではないのだろう。戦場での予定など、相手の出方如何によって簡単に変わる。つまり、
想定外の動きを敵が見せたならば、という危惧だ。朗らかな笑顔の下に、彼も不安を隠していたらしい。
 些細であっても死に直結する判断ミスは、大将である彼が一番に憂慮することであった。今後通る予定のルートを頭に
描きながら、彼は口の端を無理やりに押し上げる。恐れを顔に出すことは出来ない。
「大丈夫だろう。奴らもあそこから俺達が来るとは考えないさ、きっと」
「……本当に?」
 軽く叩いた言葉に投げかけられた疑問が、余りにも真摯でヴィンフリードは返答に詰まった。本当に、など。そんな確証は
持てない。断言など出来ない。敵だって死にたくないのだから、必死になってこちらの真意を探ろうとしているだろう。
 そもそも彼は、そういった小細工が事が苦手だった。真正面から切りつけられればどんなにいいことか。歯がゆかったが、
誰もが彼のようにいくわけではない。国を勝利に導くためには、どんなに嫌でも作戦計画を立てることは必要だ。

315 名前:杯を手に酔いしれよ(3/5) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/10/15(日) 22:04:01.24 ID:P+kuYtdD0
 ぐい、と杯に注がれた酒を一気に飲んで、彼は頭を振った。今更くよくよ悩んでも詮無い事だ。
「あそこは地元の人間でさえも避けるというじゃないか。確かに少々迂回する事になるが、それでも待ち伏せされるよりはいい」
「……背後を突く、というわけです、か」
「ああ。奴らに、戦の用意をする暇など与えないさ。まさか泳げないということはないな?」
「まさか……。あ、いえ。そんなことはありませんが」
 少々幅の広い川を渡る事になっていたが、斥候によるとそこは特に深いわけではないらしい。だからヴィンフリードとしては
只の軽口のつもりだったのだが、男は期待したような反応は示さなかった。初見の笑顔は何処へ消えたのか。冷たい風は、
完全に彼の酔いを醒ましてしまったようだ。
 幾ら言ってもどこか腑に落ちない顔をする男の背を、ぼんぼんと叩いて彼は励ましの言葉をかける。
「その為の情報は集めたんだ。あの山さえ乗り切れば、絶対に勝てる」
「……マーチャ山を?」
「それしかないだろうしな。大丈夫、俺達なら行ける、大丈夫さ」
 敵の意表をつける場所は、実際そこしか在りえなかった。辛い道のりになるだろう、到着するまでに死者も出るだろう。しかし、
真っ当に行けば敗北は目に見えている。
 二国間の闘争は激化して収まる気配を見せず、もはや和平の道は閉ざされていた。確執の原因が何であったのか、
ヴィンフリードは知らない。どうして兵達が死ななければならないのか、得心したことはない。
「後は、戦うだけさ」
「……殺すの、ですね」
「どうした? 奴らは敵だぞ」
「ええ、そうです、ね」
 言いよどむ男に、ヴィンフリードは合点した。男は勝てるか否かを心配していたのではなかった。剣を振るい、振るわれ、殺し、
殺される。そういう命のやり取りに懸念を示していたのだ。
 稀に、そういう者がいる。おそらく国か、故郷を想って兵に志願したのだろうが、予想以上の修羅場に気後れしているのだ。
 そんな悩みを持った事もあったなあ、と彼は自酌しながら笑った。自棄になって敵を殺し続けていたら、いつの間にか乗り越えて
いた葛藤だ。そんな自分が今や兵を率いているのだ。結局戦に必要なものは、戦術ではなく剣術なのだろう。
 今まさに彼を悩ませているものは、前者であったのだが。
「何、奴らは狂っている。狂者を救うとでも思えばいいんだ」
「狂って?」
「そうだ。狂いでもしなければ、戦いなど出来ないだろう?」

316 名前:杯を手に酔いしれよ(4/5) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/10/15(日) 22:04:32.68 ID:P+kuYtdD0
 ――俺も、お前も。きっと、戦場に立つ者は皆狂っている。
 言外に匂わせたものを嗅ぎ取ったか、男は微かに笑った。狂っているから、大丈夫。何の励みにもなっていないが、それは確かに
ヴィンフリードが支えにしてきた所懐だった。
 そう。些細な事を気にしても、無駄なのだ。これは戦争なのだから。
 和らいだ空気に安心して、彼はまた酒を喉に流し込んだ。剣術と豪気さだけが取り柄だと自負する彼は、細やかな気遣いを苦手とする。
 下戸の彼に、これ以上の助言は出来ないだろう。後は彼自身の中で決着をつけるしかない。この話題は終り、とばかりに杯を月に捧げた。
「綺麗な、杯ですね」
「……ああ」
 何でもどこぞの国の特産品らしい。全体的に黒い色をしたそれは、酒を注ぎ、月明かりに照らすと白く輝く。
 玉を彫刻して作られたというその杯は、本来ヴィンフリードの物ではなかった。
「友の、形見さ。参謀を務めてくれてたんだがな、ちょっと前にあっさり殺されやがった。はは」
 人材不足が祟っているのか、代わりも未だ来ない。生きていれば七面倒な戦略など全て押し付けてやったのに、とぼやくと男は
目を細めて笑った。何だか馬鹿にされたような空気を感じたが、気にしないことにした。アルコールは程よく血流を廻り、気分は
上々だ。酔いがやっと回ってきたらしい。
 酒が飲めないとは何て気の毒なのだろうと、本気で思う。酒はいい。
「酒飲んで戦えれば一番いいんだがなー。ああ、お前は飲めないのだったか」
 酩酊しながら剣を振るえば、おそらく人を斬る恐ろしさも、死も感じないで済む。その気分のままに勝利できれば、さぞ愉快なことだろう。
 今のあいつらのようにな、と兵士達を見下ろせば、何やら喧嘩が始まっていた。全裸での取っ組み合いならば、取り返しの
つかないような重傷は負わないかもしれない。しかし彼らは腐っても兵士だ。危険には違いない。
「全く、戦うなら敵とやれっての。馬鹿どもが」
 一つ嘆息して、止めに入ることにした。折角、気分が浮上して来たというのに。敵兵との衝突を前に怪我人が出ては堪らない。
 勢いよく立ち上がると、頭が揺れた。咄嗟に対応が出来ず、手を着いた先は男の肩で、反射的に謝罪する。
 すると、男は顔に満面の笑みを浮かべた。戦場には不釣合いな屈託のない微笑みに、ヴィンフリードは瞠目する。そして続く言葉に、
更に顔を引きつらせた。
「貴方は良い人ですね」
「……酔っているのか?」
 何がどうしてどうなって、そんな結論に達したのか分からない。やはり馬鹿にされたようにしか聞こえないのは、気のせいなのだろうか。
 その笑みがどうにも奇妙に見え、問い質そうとした矢先。わあと一際大きな喚き声が耳朶を打った。騒ぎが大きくなっている。
 とりあえずは馬鹿達を抑えなければならないらしい。杯を無造作にしまって駆け出したヴィンフリードには、男の応えは聞こえなかった。

317 名前:杯を手に酔いしれよ(5/5) ◆dx10HbTEQg 投稿日:2006/10/15(日) 22:05:09.76 ID:P+kuYtdD0
 ザン、と骨と剣が音を打ち鳴らした。呻き声、叫喚、怒声、悲鳴。様々な音が吹き荒れる。
 何故だと、ヴィンフリードは唸った。
 何故、作戦がばれたのか。
 背に冷や汗を流しながら、ヴィンフリードは干戈を交えた。待ち伏せを受けたのだ。かなりの仰角があるので、登りの彼らが圧倒的に不利であった。
 何故。ここまでは順調に行っていたはずなのに。特筆に値する問題点も浮上せず、誰もが勝利を確信し始めた、今になって。
 剣戟を受けながら、彼は歯噛みした。痛い。だが、それ以上に酷く悔しい。
 え、と彼は声を上げた。視界の端に、見覚えのある何かが。
 確認する前に、目の前は真っ赤になり、次の瞬間には真っ黒に染まった。


「正直拍子抜けしましたよ。貴方は、人殺しの術には長けていても、馬鹿なんですねえ」
 右手にヴィンフリードの首を、左手に彼の杯を掲げた男は、口を歪ませて笑った。屈託のない笑みは顔に張り付いたまま、取れる事
はない。その表情は彼にとって、無表情と同義であった。仮面がはがれるのは、更なる仮面を被るときのみ。
 戦いは正気でなければ出来ない。冷静さを失い、狂った人間同士の戦いなど只の獣の戯れだ。そこに理性が介入しない限り、生存本能に従う動物と変わらない。
 そして右手に揺れる彼は、おそらく獣以下であった。酒が入れば口が軽くなるとは思ったが、よもやここまで馬鹿だとは。
 完全なる勝利に、男の仲間が酒を勧めた。死体の転がる戦場でよくも飲もうと思うものだ。いや、それ以前に酒を持ってくるなんてどうかしている。
 夜光杯に注がれる酒を眺めながら、男は全てを侮蔑した。実際のところ、酒は飲めないわけではない。ただ、馬鹿に交じって騒ぐ事
を嫌悪していただけだ。酩酊して自我を失うなど、冗談ではない。
 ですが、と男は笑う。
「貴方は、きっと素面でも馬鹿だったんでしょうね」
 敵を敵と気付かず、ましてや励ましさえするとは。大将たるもの、一兵卒に親身に接するなど普通ありえないだろうに。そもそも、どうして陣中へ簡単に
侵入させてしまうのか。その無防備さの理解に苦しむ。きっと、見張りの馬鹿も宴に交じっていたのだろう。
 酒は、嫌いだ。馬鹿になるから。馬鹿が嫌いだから。
 それに比べ、自分は何て秀逸なのか。人心の掌握力や、演技力。会話から計画を見抜く洞察力。そして敵将の首を刈る剣術。どれをとっても素晴らしい。
 自分自身に酔いながら、男は月を仰いだ。しかし、血に汚れた杯は、あの時のようには輝かない。
「――私は、正気ですよ?」
 杯ごと酒を捨てた男の背後で、勝利に酔いしれた歓呼の声が、沸いた。






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