【 遺言状 】
◆AJf3q893pY




291 名前:品評会28『遺言状』1/5 ◆AJf3q893pY 投稿日:2006/10/15(日) 21:19:04.56 ID:bBVw8KSP0
 大嫌いだった親が死んだ。
 交通事故であっけなく即死、母は悲しんだが俺は何とも思わなかった。
「お父さんの顔、見納めになるからしっかり見てなさい」
 火葬場では母からそう言われたが、血の気の引いた父の顔を覗いてみても、なぜか怒りしか沸いてこなかった。
 十八才で俺の父親になって、高校は中退。家の面倒もロクに見ずに、毎日酒を飲んでは俺に悪態ばかりついていた。
 勤め先は知らない。母との馴れ初めも知らない。父のことで知っているのは、ロクでもない人間だということだけ。
 中学校に上がるまでは、毎日のように殴られた。理由は、俺が子供だったから。
「ガキのくせに調子に乗るなよ」
 暴力こそはなくなったものの、その口癖は俺が中学校に上がっても、高校に上がっても変わらなかった。
 理不尽で、短絡的で、品がない。これほど見事な反面教師も珍しいが、とにかく俺は父のようにだけはなりたくない一心で勉強した。
 高校から、奨学金をもらい始めた。母はそこまでしなくていいと言ってくれたが、どうしても父の世話になりたくなかったので、そうした。
「ふん、金は自分で返せよ」
 死んだ父の顔を見たら、そんな台詞が急に甦ってきた。いくら見ても憐憫の情すら出てこない。俺は父の顔を一瞥すると、さっさと行列から抜け出した。

292 名前:品評会28『遺言状』2/5 ◆AJf3q893pY 投稿日:2006/10/15(日) 21:19:48.97 ID:bBVw8KSP0
 親族の見納めが一通り終わると、棺桶は火葬炉に運ばれた。
 二時間ほど待つように言われたので、休憩所に母を連れて行った。母はひどく落ち込んでいるようだったが、何食わぬ顔でお茶を飲んでいる。
 父は嫌いだが、母は好きだ。女手一つで育ててくれたといっても過言じゃない。
 骨を拾うときも泣かない。遺骨を拾うときも泣かない。凛とした態度で始終葬儀に臨んでいる母を、俺は誇らしく思っていた。
 ――もしかしたら、母も父が嫌いだったのかな。
 そんな憶測をしてみたが、その予想は見事に外れてしまった。
 骨を持って帰って、親族を送った後、母は泣き出した。遺骨の前で、涙をボロボロ流している。
「私、立派だったでしょうか」
 嗚咽まじりに、そうつぶやいていた。
 あんなどうしようもない男には立派すぎる葬儀だった。そして、それを毅然と執り行った母も立派だった。少なくとも俺にはそう見えた。
 俺は、母をひとり残して居間でくつろぐことにした。
「どうして親父と別れないの?」
 前に、こんな事を聞いたことがある。
「大人になったらわかるよ」
 母はそう答えていたが、もう十九歳だというのにいまだに理由が分からない。
 そんなことを思い出しながら、残り物の料理を食べていると、目を腫らした母がやってきた。
「ああ、よく泣いた」
 そう言って俺の傍らに座ると、小さな封筒を取り出した。
「これ、お父さんの遺言状。開いてみてごらん」
 封筒を裏返すと、封に印鑑が押してある。俺はそれを破って中を覗いてみた。
 封筒の中には、小さな便箋が一枚入っていた。便箋には相続のことが書いてあった。
『息子には左記に記す場所にある酒を一瓶。残りの全財産は妻に相続する』
 父は、俺の事を本当に憎んでいたのだろう。俺が生まれたせいで自分の人生が終わったと思ったのだろう。
 そうでなければこんな仕打ちはできない。ご丁寧に遺言状まで残して最後まで俺をコケ下ろしてくれた父に、俺は言葉も出なかった。

293 名前:品評会28『遺言状』3/5 ◆AJf3q893pY 投稿日:2006/10/15(日) 21:20:19.37 ID:bBVw8KSP0
「旅費はあげるから行ってきなさい」
 便箋に書いていたのは京都の山崎町。水がきれいで、ウイスキーの製造が盛んな町だそうだ。
 たかだか酒の一本を受け取りに京都に行く気にはならなかったが、母の強い言葉に押されて、しぶしぶ電車でやってきた。
 駅を降りて、しばらくバスに乗る。車窓から見える景色は一面の山々。都会の喧騒から離れた町は、そこでゆっくりと時間をつむいでいる。
 役場で地図に書いてある住所の場所を聞くと、山奥までの地図を描いてくれた。
 歩いて行ける距離じゃないと聞いて、タクシーを拾った。
「ここの蔵元で作る酒はね、相当美味いんだよ」
 運転手がまるで自分の自慢のように酒の話を延々してくれたおかげで、どうやら地元では相当有名な蔵元だということだけは分かった。
「ここだよ」
 そう言って運転手が降ろしてくれたところには、細い一本道が続いていた。
「ここから歩いてすぐだよ」
 うっそうとした木々に囲まれた道の向こうには、確かに家らしき建物が見える。近くまで行ってみると、木造の小屋がそこにあった。
「ごめんください」
 鳥の声しかしない森の中で、俺の声は思いのほか響いた。そして、その声に反応して、一人の男が小屋から出てきた。
「ん、あれ、あんた、息子さん?」
 その人は、俺の顔を見るなり不思議そうな面持ちで近づいてきた。
「おかしいな、来年連れてくるって言ってたのにな。ああ、あんた名前は?」
 戸惑いながら俺が名乗ると、父のことも聞かれた。
 死んだと伝えると、その人――伊達というそうだ――は、ぶっきらぼうに自己紹介をすると、俺を小屋の中に通してくれた。

294 名前:品評会28『遺言状』4/5 ◆AJf3q893pY 投稿日:2006/10/15(日) 21:21:07.27 ID:bBVw8KSP0
「あんない人が死んだなんてなぁ。いや、本当に残念だ」
 伊達さんの口から信じられない言葉が出てきて、俺は心底驚いた。
「父は、そんなに評判がよかったんですか?」
「詳しくは知らないよ。ただ、毎年ここに来てはあんたの自慢話ばかりしてたからな。よっぽど家族思いのいい父親だったんじゃないのか」
「とんでもない、俺は――」
 そう言いかけて、俺はふと口をつぐんだ。
 父が、俺の自慢話?
 悪態しかつかなかった父が、俺の何を自慢したのだろう?
 気になったので伊達さんにあれこれ聞いてみたが、確かに俺の経歴と一致していた。
 しばらく話していたが、伊達さんはふいに奥の部屋に引っ込んでしまった。そして、しばらく待っていると、一本の洋酒を持ってきた。
「用件はこれだろう?」
 ラベルには、俺の生まれた年が書いてある。
「ついでに、これも渡しとくよ。二十歳の誕生日に一緒に渡すつもりだって言ってたやつだ」
 そう言って、伊達さんは手紙をくれた。
 開いてみると、つたない字で短い文章が書いてあった。
『出来損ないの俺は反面教師にしかなれないが、息子は立派に育てたい』
 涙は出なかった。ただ、瓶の中で揺れる琥珀色が、妙に暖かかった。

 あれから俺は大学を辞めようと思ったが、どうやら父がこっそり積み立てていた貯金が相当額あったので、学費には困らなかった。
 母には、京都のことは話さなかった。今さら話したところで驚きはしないだろうし、俺だけが理解すればいいと思ったから。
 二十歳の誕生日に、例の酒を持って、親父の墓に行った。
 誰もいない墓場は吹き抜けの風が気持ちよくて、親父もここに眠っていると思うと、妙に涼しげな気分になった。
 墓前に手を合わせて、ショットグラスを取り出す。そして、封を切って瓶の蓋を開けた。
 二十年熟成した香りは、風に流されて広がっていく。
 グラスに半分注いだ。
 そして、それを一気に飲み干すと、残りを墓に注いだ。



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