【 天使の分け前 】
◆qygXFPFdvk




158 名前:天使の分け前 (1/5) ◆qygXFPFdvk 投稿日:2006/10/15(日) 14:23:30.05 ID:cDwbBiUq0
 熟成庫に足を踏み入れると、えも言われぬ芳しい香りが鼻孔をくすぐった。
「先ほどの蒸留釜で蒸留されたウィスキーは、この倉庫でじっくりと寝かされます」案内役の男が語りかける。
黒いスーツを着た長身の男は、案内の言葉に頷いては、逐一メモを取った。
「この倉庫の中は凄くいい香りがしますね」黒いスーツの男は深呼吸する。
「えぇ、この香りこそがスコッチ・ウィスキーの魅力です」案内役の男は自信あり気に答えた。
 熟成庫内の左右には三階建てほどの高さまで棚が伸び、そこに出来た小部屋に樽が綺麗に並べられている。
棚の前にはリフトが作られ、今もそのリフトが上下左右に動いていた。
「あのリフトは何ですか?」
「あれは樽を上の棚まで運ぶためのリフトです。ウィスキーが入った樽は数百キロもの重さがありますからね」
「なるほど、あれで上まで運ぶわけですね」黒いスーツの男はまたメモを取る。
「この樽で三年以上熟成されたものがスコッチ・ウィスキーとなります。ですが、通常は三年では市場に出し
ません」
「何故ですか?」
「三年間は熟成させるよう法律で決まっています。でも、三年だとまだ味が若く尖っているんです。なので、
通常は八年以上熟成されます」
「八年も!」黒いスーツの男は驚く。
「いえ、八年はまだ早い方です。八年、十年、十二年が一般的です。年数が増えるにつれて味に深みが出ます。
この棚の奥にある一番古い樽の中には百年前のウィスキーが眠っていますよ」案内役は一々自信満々だ。
「百年物のスコッチ・ウィスキーですか……。一体、どんな味がするんでしょうか」スーツの男は唾を飲む。
「我々も飲んだことがないので分かりませんが、職人たちは美味しくないだろうと言っていますね」
「そうなんですか?」
「えぇ、熟成が進むにつれて樽内の水分、アルコール分が抜けるため味が濃くなります。百年も寝かせると、
アルコールもきつくなり、もう飲めるものではないかもしれませんね」案内役は歩き出すことを促す。
「はぁ、そういうものなんですね」スーツの男もそれに従った。
「この熟成中に抜ける水分、アルコール分のことを“angel's share”、天使の分け前と言います」
「天使の分け前……」ペンがメモの上を走る。
「単なる蒸発なんですが、それを『天使にくれてやった』と考えたのは昔の職人たちの気質なんでしょうね。
そうそう、天使の分け前について面白い言い伝えがありましてね」
 案内役の男は語りだした――

159 名前:天使の分け前 (2/5) ◆qygXFPFdvk 投稿日:2006/10/15(日) 14:24:00.61 ID:cDwbBiUq0
 十六世紀のスコットランド。イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を破り、勝利の美酒に酔い痴れていた時代。
スコットランド西岸、フィヨルド地形の岬の奥にその村はあった。非常に小さなその村の経済は、一つの産業
によって支えられていた。もちろんスコッチ・ウィスキーである。
 “砦”と呼ばれる蒸留所を中心に、麦芽の保存所、樽の再生場、熟成庫、搬出港がコンビナートさながらに
並んでいた。村民のほとんどがこれらの施設に勤めており、残りは神父と酒場の女将ぐらいだった。“砦”を
取り巻く経済は、ウィスキーによって潤っていた。
 既にこの頃には、蒸留技術は整っていた。増産のために技術改良が幾度も試され、ほぼ完成形を成していた
といえる。つまり、これ以上の増産には蒸留所を増設する以外には方法がなかった。
 そんな中、“砦”に勤める一人の職人がある技術を編み出した。天使に分け前を与えないようにする方法だ。
天使の分け前は、熟成中に蒸発した水分やアルコール分が樽の隙間から抜け出すことによって生じる。ウィス
キーはこの蒸発によって量が減り、十年熟成物ともなると七割程になってしまう。つまりは樽一本の内、三割
もが天使に持っていかれてしまう計算になる。最早、増産を行う方法がなかった職人たちは天使の分け前に目
をつけたわけだ。その結果がこの技術である。
 方法は簡単。布にロウを塗って気密性を高めたもので熟成樽を覆う。覆うことで蒸発する割合を減らすこと
が出来た。さらに、裏側に水滴が溜まるのでそれを回収する。回収物はウィスキーとしての価値は少なかった
が、アルコール分の調整剤や、燃料として用いられた。
 これにより、ウィスキー生産量は一割増した。残りの部分も無駄なく利用できるようになり、天使への分け
前はゼロになった。“砦”の村はさらに潤った。
 天使の分け前がなくなった事に関して、神父が眉を顰めた以外には誰も反対をしなかった。男たちは手っ取
り早く酔え、女たちは暗闇を避け、寒さを凌ぐことが出来た。村民全員が喜んだと言える。

 しかし、その技術が使われた翌年から、村では妙な現象が起こり始めた。
 まず、生まれてくる子供の数が減少した。翌年は二人、一人しか生まれない年が二年あり、その後は一人も
生まれない年が続いた。男たちは揶揄しながら生活していたが、頑張れど頑張れど子供は生まれてこなかった。
 次に、不可解な誘拐事件が続いた。年齢に関係なく、急に人が居なくなる。村はずれの老人が、学校に上が
ったばかりの少女が、村一番の美女が次々と居なくなった。“神隠し”的に人が消えるこの事件を、村民たち
は「分け前を奪われた天使の仕業」と噂した。
 さらに事件は人の消失だけにとどまらなかった。降ろしたはずの積荷が消え、蒸留釜の蓋が消え、村唯一の
酒場の看板が消えた。教会の十字架が消えたとき、ついに神父が職人たちに天使へ分け前を戻すことを申し入
れた。だが、職人たちは「くだらない、誰かの悪戯だ」と受け入れなかった。

160 名前:天使の分け前 (3/5) ◆qygXFPFdvk 投稿日:2006/10/15(日) 14:24:44.14 ID:cDwbBiUq0
 そして、技術が使われ始めてちょうど八年目。最初のウィスキーが搬出される年にその事件は起きた。子供
が生まれなくなって久しく、最後に生まれた子供は五歳になっていた。天使のようなブロンドの縮れ毛を持つ
子だったが、その子が母親に告げる。
「ねぇ、ママ。灯台が無いよ」
 大人たちは子供の言う戯言と聞き入れなかったが、あまりにもうるさいので皆で見に行くことになった。す
ると、ハイランド地方特有の入り組んだ岬に立つ、この村の目印であった灯台が無かった。まるでそこには元
から何も無かったかのように、荒々しい波しぶきだけが村民たちを迎えた。
 村民たちは焦った。灯台が無ければ外から来る船が村の位置を確認できない。船が来なければウィスキーが
搬出できない。これでは村唯一の収入源が断たれてしまう。異常事態を認識した男たちは隣村へ駆け込もうと
した。だが、男たちがそこで見たものは、橋が忽然と消えた村境の谷だった。
「この橋が無かったら、隣村どころかどこへも行けないじゃないか」
 村は一辺を海に、残りを山に囲まれ、外との接点は港とこの橋だけだった。その橋が無い。海は荒れていて、
船は出せない。事実上、この村は外部との連絡法を奪われた。
 狼煙を炊き、“砦”を目印に船が来ることを願った。だが、それからというもの海には深い霧が立ち込め、
煙は外海からは見えなかった。電話も無い時代、連絡を取る方法はもう無かった。
 収入源を断たれた村だったが、それよりも困ったのは食料だった。貯蓄はあるにはあったが、農業を行わな
い村では、自給は不可能だった。それに貯蓄庫の食料の多くは天使によって持っていかれていた。
 
 村民たちは暴徒と化した。残っている食料を奪い合い、災厄をもたらした天使の住まう教会に火を放った。
自棄になり酒に溺れ、自殺した者も居た。食料が絶えて数日のうちに、村は全滅した。
 一ヵ月後に橋を修復した隣村の村民が訪ねると、村には腐敗臭が漂い、朽ち果てた遺体が転がっていた。鼻
を衝く悪臭を潜って“砦”へ行くと、外の惨状とは打って変わって整頓された樽と芳しい香りが閉じ込められ
ていた。樽に被せられた布を取ると、中には素晴らしい出来のウィスキーが遺されていた。
 焼け落ちた教会には天使像だけが残っていたが、煤で汚れたその姿はまるで悪魔のようだった――

161 名前:天使の分け前 (4/5) ◆qygXFPFdvk 投稿日:2006/10/15(日) 14:25:18.79 ID:cDwbBiUq0
「――という話があるんです。もちろん作り話ですけどね」案内役は歩きながら話した。
「それは面白い言い伝えですね」黒いスーツの男は全てをメモに取っていた。
「ですから、我々は天使への分け前はケチりません。怒らせると怖いようですし」案内役は笑う。
「そのほうが良さそうですね。今日は興味深いお話をたくさんしていただき、ありがとうございました」
「いえ、取材のお役に立てたなら光栄です。是非またお越しください」案内役はおじぎしながらスーツの男を
見送った。
 
 黒いスーツの男は蒸留所の門を出る。バスの停留所の前まで来たところでネクタイを外し、スーツを脱いだ。
そして、バサリと翼を広げると、蒸留所の裏山を越えてどこかへと飛んでいった。

162 名前:天使の分け前 (5/5完) ◆qygXFPFdvk 投稿日:2006/10/15(日) 14:25:57.34 ID:cDwbBiUq0
                         〜報告書〜

 蒸留所見学の結果、蒸留技術はさらに向上していることが分かった。
 “分け前”はいまだに天使の仕業であると信じている模様。我々が疑われることは無いと思われる。
 また、四百年前の出来事は現在にも伝えられており、今後も“分け前”が減らされる様子は無さそうである。

                                二級悪魔 ウィスキー担当 アレックス・ファーガソン

<了>



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