【 トジビキ 】
◆wDZmDiBnbU




140 名前:品評会用『トジビキ』 1/5 ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/10/15(日) 13:12:50.51 ID:1tX20/qw0
 父が死んだ。

 心筋梗塞。突然のことだった――叔父からはそう聞いていた。未だ実感は湧かない。だ
が、もう六十近い、まして年中働き詰めの父のことだ。そういうこともあるのかもしれな
い。孝之は、人影のまばらな新幹線の客室で、父のことを思い出していた。
 多くを語らず、ただ日々黙々と仕事だけを続ける。雪国に住む人間の気質をそのまま体
現したような、そんな父だった。孝之の実家は代々受け継がれた古くからの酒蔵で、父は
その社長であり杜氏長でもあった。商売はそれなりにうまく行っているようだったし、代
々受け継いだ土地と遺産もあったので、経済的な心配は一度も感じた事がなかった。父が
死んだと聞かされてもあまり取り乱さずにいられるのは、そのせいもあるのだろう。あと
は――思い出を振り返ろうとして、孝之は愕然とした。
 そういえば、思い出らしい思い出はあまりなかった。真っ先に浮かぶのはいつも、静か
な食卓の風景。気難しい顔をして座る父と、いつも困ったような顔をしていた母。そして、
妹の小夜。その誰もが、今はこの世に、いない。そう思った途端、身震いがした。
 今頃になって実感が湧いてきたのだろうか。実家まで一緒に行こうかという彼女――香
澄の申し出を、断ったことがすこし悔やまれる。
 ――まあ、いいさ。どうせあと四時間もすれば、実家に着く。あれこれ考えるのは、そ
れからでいい。
 孝之は座席にもたれると、静かに目を閉じた。

 故郷。懐かしいはずの実家。しかし、懐かしさに浸る暇さえなかった。喪主というもの
は孝之の想像以上に忙しく、通夜や告別式の間は気の休まることがなかった。それでも、
父の酒蔵の役員でもある叔父の助けを借り、どうにか無事に一通りの葬儀を終えた。翌日、
目が覚めたのは、既に日の昇りきった頃だった。
 その主を失った家は一層広く、そしてとても寂しく感じられた。今この家には、孝之と
祖父がいるだけだ。孝之は、祭壇の前で手酌をする祖父の隣に座り込んだ。
「孝之か。たいてんねがったの」
 大変だったな――そういう意味の方言だ。それを言うなら、祖父も同じだ。
「そんなことないよ。じいちゃんだって大変だろ」
 祖父は答えない。しばらく、二人の間を静寂が支配した。

141 名前:品評会用『トジビキ』 2/5 ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/10/15(日) 13:13:46.28 ID:1tX20/qw0
「……孝之、おめは大丈夫らと思うが、念のためだ。酒蔵には近寄んなや」
 突如その口を開いた祖父の顔は、今までに見たことがないほど深刻なものだった。困惑
する孝之をよそに、祖父は続ける。
 麹神様っつってな。酒蔵には、酒の神様がいる。麹神様は女の神様だから、女には容赦
しね。女は酒蔵に入っちゃいけねんだ。だから杜氏は男ばっかだ。でもな。男も、トジビ
キの晩に酒蔵には行けねんだ。行けば、女共に呼ばれんだ。だから、絶対に行くな――。
 祖父の話は、全く要領を得なかった。
「酒蔵は俺がなんとかするすけ、おめは東京に戻れ」
 その一言を最後に、祖父は黙り込んだ。陰りのある、どこか諦めにも似た表情。孝之は
それ以上何も言えなくなった。祖父が、悲しそうな声で父の名を呼ぶのが聞こえる。
「久志。おめも、小夜に連れてかれたかね」
 その晩は、その言葉が耳から離れなかった。

 翌日、孝之は父の遺した私物を整理した。酒蔵の方は全て祖父と叔父に任せてあるが、
その分、家のものは孝之が担当することになった。正直、たいしたものは出てこなかった。
もしかしたら自分の知らない父が見られるのでは。そんな期待は、見事に裏切られた。古
いアルバムをめくりながら思い出を手繰っていたとき、孝之はあることに気がついた。
 小夜。
 そこには小夜の写った写真が一枚もなかった。孝之はため息をついた。小夜の顔を思い
出そうとするが、出てこない。浮かんでくるのは、顔半分を埋め尽くす、痣。生まれつき
のものだった。爛れた皮膚のような、赤紫色の、禍々しい模様。幼い頃に読んだ絵本に出
てきた、ずる賢く悪い魔女とそっくりだったのを憶えている。孝之は内心、歯噛みした。いくら子供だったとはいえ、随分とまあ自分の妹を毛嫌いしたものだ。
 孝之はおもむろに立ち上がると、縁側を抜けて庭へと出た。既に陽は傾き、山の向こう
におぼろげな太陽が見える。だがまだ晩というには早い。孝之は歩き出した。父の遺した
ものの中には、小夜に関するものは一つとしてなかった。不思議なことではあったが、そ
れよりも居心地の悪さの方が大きかった。妹に冷たくあたったことに対する後ろめたさも
あったのだろう。事務所の裏を抜け、酒蔵が軒を連ねる中を通る。その一番奥に、目的の
ものはあった。一番古い酒蔵。孝之が幼い頃に使われなくなったものだ。小夜は、ここで
死んだ。

142 名前:品評会用『トジビキ』 3/5 ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/10/15(日) 13:14:51.01 ID:1tX20/qw0
 子供というのは残酷だ。まして閉鎖的な田舎のこと、顔に大きな痣を持った小夜に、友
達ができるはずもなかった。小夜は家に籠りがちだったが、そんな妹を孝之は疎んじた。
寂しかったのだろう、小夜はよくこの酒蔵に忍び込んで遊んでいた。一人で甑下駄を履き、
ただ、からん、ころん、と打ち鳴らす。小夜にとっての遊びは、それくらいしかなかった。
 閉鎖されているはずの酒蔵だったが、その鍵は開いていた。孝之は中に入ると、軽く舌
打ちをした。懐中電灯を持ってくるべきだった。暗闇の中で目を凝らす。あの甑下駄はま
だここにあるのだろうか。孝之は、あの甑下駄を形見分けに貰うつもりでいた。なぜ急に
そんなことを考えついたのか、自分でもわからない。孝之は、酒蔵の奥へと歩みを進めた。
 突如目の前に巨大な影が立ちはだかった。甑。麹を蒸すための、巨大な鉄の釜。という
より、それはもうタンクに近かった。そうだ、この甑の上で小夜は――そう思い、脇の梯
子に手をかけた、そのとき。

 ――からん、ころん。

 全身が粟立った。甑下駄。確かに聞こえた。この蔵の中から――いや、違う。もっと近
い。まさか、この、甑の中から?
 孝之は思い出していた。二度と考えたくなかった、小夜の死。孝之はあの晩、小夜と一
緒にいた。いや、あの晩だけではない。小夜には友達がいなかったが、それは孝之も同じ
だった。確かに孝之は小夜のことを疎んじてはいたのだが、それでも誰もいない晩に二人
でよく、あの酒蔵に忍び込んでは遊んでいた。だがその晩、甑の中は、水に浸されたあと
の米で満たされていた。その中に、小夜は落ちたのだ。
 助けを求める小夜の姿。だが、甑はあまりに大きく、深い。幼い孝之では助けることが
できなかった。助けを呼ぶために母屋へと戻る。だが、こんな時間に酒蔵に忍び込んで、
しかも酒の原料である米の中に落ちたなんて、父が知ったら。父の怒声を想像し、孝之は
すくみ上がった。そしてそのとき、考えてはならないことが孝之の脳裏をよぎった。
 このまま小夜がいなくなれば。
 孝之は部屋に戻ると、布団の中に潜り込んだ。目が冴えてなかなか寝付けない。孝之は
この間読んだ魔女の絵本を思い出していた。僕に友達ができないのは小夜のせいだ。小夜
は悪い子だ。絵本の魔女のように、大釜でお仕置きされても仕方がない――。
 翌朝早くから、甑に火が入れられた。米が蒸されその蒸気が立ち上る。そして、小夜は。

143 名前:品評会用『トジビキ』 4/5 ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/10/15(日) 13:15:33.16 ID:1tX20/qw0
「小夜」
 思わず呼びかける。返事はない。孝之はしばらく迷った後、意を決し、梯子を駆け上がっ
た。甑の中を覗き込む。真っ暗闇。何も見えない。小夜――再びそう呼びかけたつもりだっ
たが、声にならない。額に汗がにじむ。もう一度だけ、呼んでみよう。おい、小夜――。
「おにいちゃん」
 悪寒。甑の中からうつろに響く声。背筋に冷たいものが走った。この世のものではな
い――そう思った瞬間、突然首元を掴まれた。細く、白い、小さな手。それがものすごい
力で喉を締め上げる。熱い。まるで焼け付くように。叫びたくても声が出ない。必死で逃
れようとするが、その手はさらに強い力で孝之を締め上げた。もう、だめだ。
 小夜、ごめん。悪かった――。
 次の瞬間、孝之は甑の闇の中へと引きずり込まれて行った。

 気がつくと、天井が見えた。母屋の居間。生きているのか――。軽く見回すと、傍らに
祖父の姿が見えた。孝之は言った。
「小夜に会ったよ」
 会って、そして呼ばれた――孝之の言葉に、祖父はただ一言、そうか、と言った。
 祖父はしばらく黙っていたが、やがて、重々しく口を開いた。
「いや、でも生きてんだ。おめは呼ばってね」
 でも――言いかけた孝之を、祖父が目で制した。
「人違いらて。呼ばったんは、おめの叔父さんら」
 人違い。どういう意味だかわからなかった。小夜が、叔父を呼ぶ?
「おめの父ちゃんと叔父さんには、妹がいたんだ。名前は、おめの妹とおんなじ、小夜ら」
 初めて聞く話だった。
「戦争が終わってな、無事だったのはあの酒蔵だけらった。でも俺にはどうすることも出
来ねかった。米もねえのに酒なんか作らんね。しょうがねかった。麹神様を作らんと、生
きて行かんねかった」
 そう言うと、祖父は泣いた。麹神。酒蔵を守る女の神。祖父は確かに、それを『作る』
と言った。どういう意味だろうか――いや、祖父の嗚咽を見る限り、それは一つしか考え
られなかった。
 人柱。

144 名前:品評会用『トジビキ』 5/5 ◆wDZmDiBnbU 投稿日:2006/10/15(日) 13:16:09.64 ID:1tX20/qw0
「それがちょうど今頃の時期らった。麹神様のきた時期は、毎年トジビキになるんて。晩
げになると神様が女に戻って、杜氏を曳いて行く。でもな。麹神様が呼ぶんは、歳の近い
男と、それに関わった女だけら。おれとおめが呼ばんることはねんだ。だっけ、人違いら」
 一息に言うと、祖父は俯いた。
「みんな呼ばった。おめの親らちも、妹の小夜も。もう酒蔵は閉める。これで十分らて」
 俯いたまま、祖父は居間を出て行った。孝之には理解できなかった。こんな非現実的な
話が起こりうるのか。だが現に、あの甑の中には、誰かがいた。あれは――。
 いや、もう考えまい。とにかく生きて助かった。もう、それでいい。孝之は無理矢理自
分を納得させると、再び眠りについた。

 二日後、孝之は新幹線のホームに立っていた。これから東京に戻る。もうあの家に戻る
ことはないだろう。祖父と叔父を置いてゆくのは気が引けたが、彼らはこれからもあの家
に残るつもりらしかった。孝之は小夜に呼ばれなかった、だから何も家に残ってこんなこ
とに関わる必要はない――二人にそう説得された。そして孝之もそれを受け入れた。孝之
には、待っている人がいるのだ。孝之は、ポケットから携帯電話を取り出す。香澄。
「もしもし、孝之?」
 いつも通りの香澄が、電話口の向こうにいた。孝之はほっと安心のため息をついていた。
元通りの平和な日常が、そこにはある。東京に戻ったら、まず真っ先に香澄に会おう――
そう思った刹那、孝之は自分の耳を疑った。まさか。
「……ちょっと孝之、聞いてる?」
 電話の向こうで文句を言う香澄に。だが孝之は、祖父の言葉を思い出していた。
 ――麹神様は女の神様だから、女には容赦しね。
 なぜ父は、自分の娘に人柱となった妹と同じ名前を付けたのだろうか。まさか父は、祖
父のしたことと同じことを考えていたのではないか。なら酒蔵で死んだ小夜は、ひょっと
して、今も――聞き間違いであって欲しかった。だがその音は、まだ今も聞こえている。
電話口、香澄の声の向こうから少しずつ近づいて――。

 ――からん、ころん。

<了>



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