【 鳴く虫 】
◆E4Neta/NAM




126 名前:鳴く虫 1/3 ◆E4Neta/NAM 投稿日:2006/10/15(日) 12:35:12.01 ID:1JSoIlRf0
 こんな夜は、どうしても彼女のことが頭をよぎる。
 薄く延びる雲のレースは月を覆い隠し、しかし時折、そのほころびからわずかな光が漏れてくる。道路脇の草
むらから、りり、りりという虫の音が聞こえてくる。
 ああ、もうあれから一年もたったのかと、その虫の音を聞いてぼんやりと思った。
 一歩一歩アスファルトを踏みしめながら歩くその足取りは、どこかおぼつかない。酔っているのだろうかと、
大きく頭を振った。その瞬間に強烈なめまいに襲われて、側にあった電柱にもたれかかる。吐きそうだ。
 先ほどまでたった一人で居酒屋にいたのは確かだ。しかし頼んだのは大して量も華もない刺身数切れと、冷
酒を一杯だけのはずだった。果たして自分はそれだけで酔えるほど下戸だっただろうか。昔はそれこそ、宴会な
どがあれば最後まで残り、残ったアルコールを飲み尽くす役回りだったというのに。
 確かに、久しぶりの酒ではあった。しかしそれにしても、この酔い方はおかしい。
 これも年だからだろうか。まだそれなりに若い身空のはずなのに、そんなことを思ってしまう自分自身に苦笑
をもらす。しかしそれも、腹の上部と脳の深部から押し寄せてくる違和感によって、すぐに引っ込んでしまった。
 もうしばらく、動けないかもしれない。さすがに吐きはしなかったけれど、足を動かす気も起きず、電柱に全て
の体重を預け、その根元にある僅かな草むらをじっと見つめた。
 その草むらで、りり、りりと虫が鳴く。
 それは彼女を思い出せとせかすように、夜の闇を、俺の鼓膜を、頭の中を伝っていく。
 しかし何を思い出せばいいのか、俺にはわからない。なぜなら俺は、忘れてなどいないのだから。いや、正確
に言うならば、忘れることなどできないのだから。
 それでも、虫の音は止むことを知らず、俺をせきたてる。
 彼女の表情、彼女の声、彼女の言葉。
 思い出せ、思い出せと、りり、りりと鳴く。
 酩酊した頭の中で、それは反響し、重なり合う。俺は眠りに落ちる寸前の、恐怖にも似た心地よさを感じていた。
 りり、りりと、音は響く。


128 名前:鳴く虫 2/4 ◆E4Neta/NAM 投稿日:2006/10/15(日) 12:38:06.40 ID:1JSoIlRf0
「ねぇ」
 後ろから聞こえた声とともに、ばちんという高らかな音が夜の静寂に響いた。背中に強烈な痛みを感じて、思
わず振り向く。誰だと問いたかったけれど、不意打ちで俺の背中を思い切り平手打ちする人間など、この世に一
人しかいない。
 そこにあったのは案の定、顔を上気させ、右手をひらひらと振る彼女の姿だった。
「もう……背中が硬いから、私の手が痛いじゃんかぁ」
不機嫌な声色でそう呟いて、手をこすり合わせる。
「叩いたのはお前だろうが。俺だって背中が痛い」
「そりゃ、私が叩いたからねぇ」
「だったら文句言うな」
「えー、だってぇ」
「だってじゃない」
 この酔っ払いが、と心の中で呟いて、ため息を漏らした。酒好きのくせにとことん弱い彼女は、ちょっと飲む
とすぐに酔ってしまう。この日だってそれほど大量に飲んだわけでもないのに、すでに足取りがかなり頼りない。
 明け方にはまだはるかに早く、夜空を薄く覆う雲は月さえも隠そうとする。しかし隠し切れない月明かりが、
俺と彼女の影をアスファルトに投げかけていた。
 ふらふらと左右にぶれながら、彼女は俺の数歩前をゆっくりと歩いている。時折、足がもつれて倒れそうにな
る彼女にひやひやしながら、しかしそれすら微笑ましく、思わず笑みがこぼれた。
「ねぇ、手ぇ繋ごうよ」
 振り向いて、彼女は俺に向かって手を差し出した。断る理由もなく、その手を取る。血色の良すぎる顔からは
想像ができないほど、その手は冷たかった。
 俺の熱が彼女へと移動する。体温と体温が溶け合う。どこか気恥ずかしく、背徳的で、しかし幸福が胸を満たす。


129 名前:鳴く虫 3/4 ◆E4Neta/NAM 投稿日:2006/10/15(日) 12:38:47.06 ID:1JSoIlRf0
「虫ってさ、いいと思わない?」
 唐突に、彼女は道路脇の草むらを見つめながら、ポツリと呟くように言った。
りり、りりと鳴く虫の音が、そこから響いている。
 まったく、俺が幸福に浸っているときに、彼女は虫のことを考えているのかと少しがっかりしながら、次の言
葉を待った。
「男の人が、ひたすら愛してる愛してるって叫んでくれるんだよ。羨ましいなぁ」
 彼女はそう言って、何かを期待するような視線を俺へと向けた。もちろん何を期待されているのかは十分わかっ
た。わかったけれど、俺はそれに応えられるような気の利いた人間ではなかった。
 わざとらしく視線をそらし、咳払い。彼女の表情は見えないけれど、恐らく膨れているだろう。
 彼女の期待に応える代わり、というわけではないけれど、繋いだ手に、ほんの少し力を込めた。
「……意地悪」
「なんとでも」
彼女が俺の手を握り返してくる。
 こんなやり取りが、抱えきれないほど幸せで、大切だった。

130 名前:鳴く虫 4/4 ◆E4Neta/NAM 投稿日:2006/10/15(日) 12:39:39.76 ID:1JSoIlRf0

 りり、りりと虫が鳴く。
 気付くとそこは夜の闇で、彼女の声も手の冷たさもなく、体を預けている電柱のざらざらとしたコンクリート
の感触が、感覚の全てだった。
 今更彼女とのやり取りを思い出して何になるのかと、唇を噛み締める。
 彼女はもういない。
 一年前のあの日、おぼつかない足取りでマンションの階段を上っている途中、足を踏み外して――
 俺が目を離した、一瞬の出来事だった。
 以来、なるべく彼女を思い出さないようにとアルコールは控えてきたけれど、結局何の意味もなかった。
 あ、という間の抜けたような彼女の声に振り向いた瞬間の、俺に向かって伸ばした手、彼女の表情、そして広
がる血溜りは、今も脳裏にこびりついて離れようとしてくれない。
 それならばいっそと思い立ったように酒を飲んでみたけれど、忘れさせてくれるどころか、ほんの少しの量で
この様だ。
 草むらの虫の音は、彼女の表情を、声を、言葉を、なおも脳に直接刻み込むように響く。
 なぁ、俺はどうすればいい。教えてくれよ。
 誰にともなく尋ねても、応えるのは、虫の音だけ。
 りり、りりと鳴く、虫の音だけ。
 それなら、きっとそれが答えなんだろう。俺がすべきことの、一番の答えなんだろう。
「……なぁ、愛してる、愛してる……まだ、愛してるんだ」
 りり、りりという虫の音と、俺の最初で最期の告白は、いつしか共鳴し、溶け合って、やがてそこには何も残
らなかった。

 明日、あのマンションの屋上から、彼女に会いに行こう。
 そして輪廻の輪に乗り、俺は虫になる。今度こそちゃんと、彼女に言葉を伝えられるように。
 

 了



BACK−最後の一杯 ◆212eb2jXx6  |  INDEXへ  |  NEXT−トジビキ ◆wDZmDiBnbU