【 最後の一杯 】
◆212eb2jXx6




103 名前:最後の一杯1/4 ◆212eb2jXx6 投稿日:2006/10/15(日) 11:21:49.30 ID:lMhmaFN60
 私はバーテンダー。そして、ここは私の勤める小さなバーだ。
薄暗い店内には寂しさを紛らわせてくれる女の子も、気の利いた冗談を言うママもいない。
唯一、頼まれるままに飲み物を差し出す、私がいるだけだ。
いつ閑古鳥が鳴き始めてもおかしくないバーだが、
立地条件がいいために、客の入りは結構いい。

いつものように私がグラスを拭いていると、
カロン、とドアの鈴が鳴って、初老の男が一人、店に入ってきた。
グラスを脇に置いて、いらっしゃいませ、と声をかける。
男は黙ってカウンター席に腰を下ろし、
「マティーニを一つ頼む。なるべく辛口にしてくれ」
と落ち着いた声で注文してきた。
かしこまりました、と答えて、私は背後の酒棚から二本のボトルを取り出す。
片方にはジン、もう一方にはベルモットという名前が書かれている。
マティーニは、この二種類の酒を使って作る、シンプルなカクテルだ。
ジンの割合が多ければ多いほど、辛口とされている。
相当量をジンが占める辛口のマティーニを作りながら、私はちらりと男を盗み見た。
肩幅の広い、精力に満ち溢れた、健康的な印象を与えてくれる紳士だったが、
その表情には深い苦悩が滲み出ていた。

104 名前:最後の一杯2/4 ◆212eb2jXx6 投稿日:2006/10/15(日) 11:22:55.86 ID:lMhmaFN60
「お疲れのようですね」
できあがったマティーニを差し出しながら、それとなく尋ねてみる。
男は、ふむ、と小さく頷いて、
「なに、ちょっといざこざに巻き込まれていたものでね。
 しかも、今となっては口も出せん立場ときている。歯がゆくて仕方がない。
 気を揉むだけというのは、やはり疲れるものだよ」
と苦々しげに言いながら、カクテルを口に含んだ。
途端に、男の顔が微妙に歪む。
「お口に合いませんでしたか?」
慌てて私は尋ねた。この店を訪れたからには満足してもらわなければ困る。
私の狼狽ぶりを見て、男は苦笑しながら、
「いや、私には少し甘すぎてね……」
と遠慮がちに言って、残りを一気に飲み干した。

その言葉を聞いて、私はひどく困惑していた。
九割以上をジンが占めるマティーニで、まだ甘いと言うからには、
もっとジンの割合を多くしなければならない。
そうなると、わずか数滴のベルモットをジンに垂らしたものを出すことになる。
いや、今でさえ、ベルモットの量はかなり少ない。
たとえそれを出したところで、この男はまだ甘いと思うだろう。
かといって、ジンだけを出しては、それはマティーニではなくなる。

105 名前:最後の一杯3/4 ◆212eb2jXx6 投稿日:2006/10/15(日) 11:24:28.52 ID:lMhmaFN60
男は私の動揺などまるで気にしていない風に、
「マティーニを頼む。なるべく辛口で」
と低い声で先ほどと同じ注文を繰り返した。
かしこまりました、と答えてジンとベルモットを用意するも、手が動かない。
どうする。どうしたらいい。
それだけが頭の中を巡る。
男はゆったりと葉巻をくゆらせて、マティーニができあがるのを待っている。
しばらく迷った後、私はカクテルグラスにジンだけを注いで差し出し、
「お待たせしました。マティーニです」
と言いながら、ベルモットのボトルを視界の端に入るように、そっと置いた。
これが正しいのかどうか、分からないが、
私にはこれ以上辛口のマティーニは思いつかない。
男は時折それを横目で見ながら、静かにグラスを傾け、
やがて、テーブルの上に空になったグラスを置いた。
男の顔には、しっとりとした満足の表情が浮かんでいた。

「素晴らしい辛口のマティーニだったよ。
 あれこそ、まさに私のマティーニだ。いや、実に美味かった。
 おかげで私も気持ちよく先に行けるだろう」
そう言って、顔を綻ばせながら、男が立ち上がる。
私は、ほっと安堵の息を吐いて、
「お代は結構です。お客様に満足していただくのが目的ですので」
と、ポケットから財布を取り出そうとしている男に向けて言った。
一瞬、男は不思議そうに眉をひそめたが、すぐに笑顔を見せ、
「ありがとう。本当に素晴らしい一杯だったよ。
 それにしても、まったく不思議なものだ。
 悩みなど、美味い酒の前では吹き飛ぶらしい。
 私は今、とても晴々とした気分だ」
と言い残して、店を出て行った。

106 名前:最後の一杯4/4 ◆212eb2jXx6 投稿日:2006/10/15(日) 11:25:22.04 ID:lMhmaFN60
 薄暗い店の中で、私はまた、いつものようにグラスを拭き始める。
次にここを訪れるのは、どんなこだわりを持った人なのだろうか。
天国へと向かう道の途中に設けられた小さなバー。
死んでなお、酒へのこだわりを捨てきれない人達が、
最後の一杯を楽しむために立ち寄る場所。

カロン、とドアの鈴が鳴る。
どうやら、また一人客が来たようだ。








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