【 晩秋港町 】
◆MIQvACPFT6




72 名前:晩秋港町 (1/5) ◆MIQvACPFT6 投稿日:2006/10/15(日) 07:50:40.59 ID:CV3LeDXI0
「いや、しかし酷い店だったなあ、おい……」
店を出るなり、松本はぐちぐちとこぼし始めた。
「なんだあの店は。安物のニッカウィスキーに水道水で作ったカルキ臭い氷ぶち込んでよぉ」
傍らでうつむきながら苦笑している藤田には構いもせず、松本はさらにまくし立てる。
「ツマミって言やぁ、湿気たおかきとチョコレートだろ。ママだって無愛想でスルメみたいな、干からびたババァで……」
松本は、ハァー……と大仰にため息まで吐いて見せた。藤田が、お気に召しませんでしたか、と言い終わるが早いか
「バカヤロー、何が楽しくってババァの顔見ながら不味いウィスキー飲まなきゃならねぇんだ!」
と一喝した。
「あーあ、だから俺の行きつけの関内のクラブに行きゃあ良かったんだ……
お前がどうしても連れて行きたい店があるって言うから、仕方なく来てみれば…」
不機嫌の極みになっている松本に、藤田は少々腰が引けている。
「先生、そこの角を曲がれば山下公園です。海の見えるベンチで少し休みませんか?お話したいこともありますし」
「このまま帰って寝たんじゃ、あのババァが夢に出てくる。関内か福富町で飲み直させてくれよ」
「はい先生、何軒でもお付き合いさせて頂きます。でも、その前に十分だけ……後でタクシーを手配しますから。」
藤田はしぶる松本をなだめつつ、子供に手を焼かされている親のように微笑した。

 藤田は二十六歳。人懐こく、素直でお人好しの好青年である。
松本はこの若者を嫌いではないが、今回は憤りを隠せていない。

 先生、こと松本は五十一歳。ハードボイルド小説を書かせたら当代一と言われる人気作家である。
藤田は松本の担当編集者であり、今回、松本の作品の映画化が決まったことで
「ささやかですが、お祝いをさせてください。」と松本を飲みに誘ったのだった。
 横浜在住の松本には、関内に行きつけの店が何軒もある。どの店も上客の松本を下へ置かない高級クラブだ。
タクシーで自宅まで迎えに来た藤田に、松本は
「若くていい女が揃っている店がある。
今時のぎゃあぎゃあうるさいだけのホステスとは違うぞ、お前を紹介してやろう。俺がヒョっと顔を出せば、
すぐにVIP用の個室を用意してくれるんだ…」

73 名前:晩秋港町 (2/5) ◆MIQvACPFT6 投稿日:2006/10/15(日) 07:51:22.85 ID:CV3LeDXI0
松本は熱心に誘った。しかし藤田は
「どうしても先生を案内したい店があるんです。新山下にある小さい店なんですが、きっと先生にも満足してもらえます――」
とこれまた熱心に松本を説き伏せ、山下公園にほど近いスナック「ゆうらん船」に連れ込んだのだ。
が、松本は満足どころか憤慨した。さぞ美人揃いのクラブか、はたまた好物のヤキトリの美味い居酒屋かと
期待してついて行った松本を待っていたのは、五人ほどしか座れないカウンターのみの古びたスナック。
五十歳をとうに過ぎているであろう厚化粧のママが一人愛想も無くいるだけの、あとは前述の通りのしなびた店だったのだ。


 週末の山下公園は若いカップルだらけであり、松本は相変わらずむすっとしている。
早くハイヤーを呼んでくれよ、と苦虫を噛んだような顔をしている松本に、
藤田はベンチに掛けるよう勧めつつ、缶コーヒーを手渡した。
「先生、さっきのスナックのママ。見覚えはありませんか?よく思い出してみてください」
「冗談じゃない、俺はあんな年増に手ェ出した覚えはないぞ。若い女にしか興味は無い……」
違いますよ、嫌だな、と苦笑しながら藤田は
「今でも先生のお宅には写真が飾ってあるじゃないですか。ほら、確か書斎の窓辺に…」
「あの写真は……」
「はい、そうです」
藤田は温かい缶コーヒーをカイロがわりに両手で擦りながら、ふっと微笑した。
「あの女性は、松枝聡子ですよ。」
「まさか……」

 松枝聡子は松本が物書きとして駆け出しだった三十年ほど前、一世を風靡した映画女優であり、
当時はその美貌と巧みな演技で絶大な人気を誇っていた。
三十年経った今でも彼女の主演映画は「名作」との誉れ高い。
聡子が女優として活動したのは実働五、六年だけであり、引退して結婚した後はマスコミへの露出は
完全にシャットアウトしている。が、当時、熱狂的な若いファンが多く、今なお信者は多数いる。
松本もその一人であり、ブロマイドを書斎に飾っていたのだ。

74 名前:晩秋港町 (3/5) ◆MIQvACPFT6 投稿日:2006/10/15(日) 07:54:02.77 ID:CV3LeDXI0
「私の兄が映画配給会社に勤めていまして、これは公には出来ないが、
未亡人になった松枝聡子が今は横浜で飲み屋なんかをやっているらしい、という情報を得たんです。」
「信じられない、かつての銀幕のスタアが、あんな小汚い店を――あんな厚化粧の陰気な婆さんになっちまって…間違いないのか?」
「ありません。よく見ると面影はずいぶん残っていますよ、意識してよくよく見た私にはすぐ分かりました」
「そう言われれば、確かに……」
「すぐには、おわかりになりませんでしたか?」
「待ってくれよ…時間っていうのは、女にとって残酷だなあ、おい…」
松本はがっくりと頭を垂れ、顔をくしゃくしゃにして今にも泣き出さんばかりの表情だった。
予想していなかった松本の様子に、藤田は胸を衝かれた。
「あの、すみません先生、私は…」
明らかに動揺している藤田は、つっかえながら話し出した。
「その、単純に……先生が三十年来の大ファンの元女優に逢えれば、さぞ喜んでくれるだろうと、短絡的に――」
「うん、いや…」
「すみません、いくら好きだったと言っても、あのような姿では却って見たくなかったでしょうか…?
いや、正直私も、本人だとはすぐに分かりましたが、髪はぼさぼさの白髪だらけだし…
化粧で無理やりごまかしたようなあの姿には少々面食らいました」
「ああ。」
松本はショートホープに火を点けると、一重の細い目をさらに細めた
「…実は俺はな、あの当時の松枝聡子とは一度、寝たことがある。今でも忘れない。
当時の俺には夢みたいなことだった。だから尚更だ」
これには藤田も驚きを隠さない。
「恋人だったんですか?」
「いや、あの当時の俺は食うために映画の論評やら芸能記事やら何でも書いていたが、
松枝の取材に何度かついて行かせてもらったこともあって―」
「俺が「あなたの大ファンです。あなたほど綺麗な女性は他にいません」なんて熱っぽく言ったら、
ちょっと遊んでやりたくなったのか俺にホテルの部屋番号を教えてくれてな」
「そんなことが…」
「俺が二十三の時だ。初めての女だったよ。何が何やら分からんで、気がついたら終わってたけどな。」


75 名前:晩秋港町 (4/5) ◆MIQvACPFT6 投稿日:2006/10/15(日) 07:56:55.57 ID:CV3LeDXI0
「そうでしたか」
しかし、こんなことってあるんだな、と松本はタバコをもみ消した

「―さて、そうとなったら、あんなバァさんの顔でももう一度拝みたくなったな。」

 発端を作ったにも関わらずおどおどとする藤田の背中を押し、松本は聡子のスナックへ再び足を向けた。

「ゆうらん船」の扉を勢い良く開けた松本は
「ママさん、まだいいかい?もう一杯だけ飲みたくなったんでね。何回も来てすまないね。」
と愛想良くカウンターについた。ママ、いや聡子は
「そう、あと三十分でお店閉めるんだけど…」
と、さも嫌そうに、ぶっきらぼうに答える。
「一杯だけなら…」
「一杯だけでいいよ。すぐ帰るから。またウィスキーの水割りくれるかい」
松本はつい先程まで「干からびたババァ」と評していた聡子に、うってかわってにこやかに続ける。
「ママさん、名前、何ていうの?」
「あたし?…サトミよ。旦那さんは?」
「俺は松本って言うんだ。ママさん、ほんとうはサトミじゃなくて聡子って言うんだろう?松枝聡子さんだろう?」

 藤田は心配半分、興味半分で二人のやりとりを見つめている。聡子は一瞬眉を顰めた
「あなた、あたしのこと知ってるの――?」
「ああ、俺は当時、何回か芸能誌の取材でインタビューさせてもらってるんだよ。」
「アラ、そう…雑誌の記者…」
聡子は松本の顔をしげしげと遠慮なく見つめると
「悪いけど、覚えちゃいないわ。あの頃は雑誌やテレビの取材なんて、日に何本も受けてたし…」
「うん、そうかい。まあ、そうだろうなァ…」
ぐい、と松本はカルキ臭いニッカウィスキーの水割りを飲み干した。

76 名前:晩秋港町 (5/5) ◆MIQvACPFT6 投稿日:2006/10/15(日) 07:57:49.08 ID:CV3LeDXI0
 聡子がチラチラと時計を気にしている
「藤田、もう看板なんだから長居しちゃ悪い。帰ろう」
「あ…はい。ママさん、お勘定――」
いや、いいから、と藤田を制止した松本は、カウンターに一万円を置くと
「お釣り、いいからね。松枝…いやママさん、体に気をつけてくれよ。元気で店切り盛りしてな」
聡子が「あらまあ、どうもォ」と驚きながら礼を行った。松本は振り返らずに店を出た。


「あの、先生」
藤田が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いいんですか?」
「…何が?」
「何が…って言うか、その…」
いいんだよ、いいじゃないか、と松本はつぶやきながら
「やっぱり水道水の氷だなあ、この店。いや、ひどいもんだ。」
十月とはいえ、潮風が肌寒い。トレンチコートの前を合わつつ、松本は藤田に向かって苦笑して見せた
「あんな不味いウィスキーは酒じゃないよ。飲み直そう。いいバーがあるんだ。
女っ気は無いけれど、いい酒が置いてある。そこでボウモアでも開けてやろうじゃないか。なあ――」

松本と藤田は「美味い酒」を求めて、夜更けの横浜の街を歩き出した。







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