【 隣の爺さんのこと 】
◆E4Neta/NAM




43 名前:隣の爺さんのこと 1/4 ◆E4Neta/NAM 投稿日:2006/10/15(日) 04:08:48.05 ID:1JSoIlRf0
 俺の夢は酒樽一杯のうまい日本酒を飲むことだと日頃から繰り返していた隣の家の爺さんが、昨日入院した。
 筋金入りの酒飲みで有名だったので、真っ先に肝臓がやられたのかと思った。しかし、親父が言うにはただ単
に風呂場でこけて骨折しただけらしい。なんだ、と拍子抜けするのと、ほっとしたのは同時だった。
「で、どこの病院に入院してんの?」
尋ねると、親父は意外そうな表情で俺を見た。
「見舞いでも行くのか?」
「一応」
 俺と爺さんの関係をあまり知らない親父は、ますます怪訝そうな表情を浮かべた。
 俺とその爺さんは年齢で言えば五十近くも離れているけれど、感覚としては友人みたいな関係だった。俺はし
ばしば爺さんの家に行き、くだらない世間話をしたり、囲碁や将棋を打って過ごす。
 爺さんからしてみれば、自分の三分の一程度しか生きていない生意気な若造の相手を苦笑交じりにしてやっ
ているだけなのかも知れないけれど、少なくとも俺の方は爺さんを友人だと思っている。
 それは俺が老けてるからと言うより、爺さんが若いからだ。七十歳を超えてるくせに大型二輪を乗り回し、オ
フスプリングやらグリーンデイやら、高校生みたいな音楽を聴きまくり、そのくせ年相応に囲碁やら将棋やらが
大好きな爺さんは、周囲から大層な変わり者と見られている。ちなみに、そんな若々しい爺さんが俺は好きだ。
「丘の上だったかな。行ってもいいが、あんまり迷惑かけるんじゃないぞ」
 親父の忠告をありがたく受け取り、俺はすぐさま原付にまたがった。

 丘の上と言うのは小高い丘の上にある病院のいわゆる通称であって、本当はもっと漢字ばかりが連なった堅
苦しい名前である。その病院の一室に、爺さんはいた。怪我をしたのは足らしく、大袈裟なギブスが巻かれて、
しっかりと固定されている。
「よう、爺さん」
 病室に入るなりそんな不躾な挨拶をした俺に、爺さんはこれまた親父と同じように意外だという表情を隠さな
かった。なんだ、俺が見舞いに来るのはそんなにありえないことなのか。
「来たのか」
「まぁね、入院したって聞いたから。邪魔だったか?」
「まさか。誰も来ないから暇だったとこだ」
そう言って、爺さんは笑う。枕元に置かれた携帯型のミュージックプレイヤーが、いかにも爺さんらしい。

44 名前:隣の爺さんのこと 2/4 ◆E4Neta/NAM 投稿日:2006/10/15(日) 04:10:00.86 ID:1JSoIlRf0
「見舞いに来るならメロンでも買ってこいよ」
俺の鞄一つという出で立ちが不満なのか、爺さんはいきなりそんなことを言ってきた。
「高校生にそんな高いもんねだるな。CD持ってきたから勘弁してくれ」
見舞い代わりのそれを差し出すと、仕方ねえなと言いながらもしっかりと受け取る。ちゃっかりしている。
「で、風呂場でこけたんだって?」
 俺が本題である怪我のことを尋ねると、爺さんはふいと顔をそらした。「風呂でこける」という行動が、余
程恥ずかしかったのだろう。
「トリートメントがこぼれててな。気付かずにつるんと」
 まったく気をつけてくれよと言おうと思っていた俺は、爺さんの口から出たトリートメントという言葉が妙に
笑いのツボに入ってしまったらしく、思わず吹き出した。
 髪の毛なんてまともに残ってないくせに、何がトリートメントだ。
「おい、お前今『髪の毛なんてまともに残ってないくせに何がトリートメントだ』とか思っただろ」
「思ってない」
「思った」
「思ってない……すいません、思いました」
「馬鹿野郎。残ってないが故のトリートメントだろうが」
 その言葉になるほどと妙な納得をしつつ、やはり面白くて笑ってしまう。爺さんは俺をにらみつけたけれど、
もう何も言うまいと判断したのか、それだけだった。
「いや、ごめん。でも気をつけてくれよ。なんだかんだ言っても、もう年だろ」
 笑いの波が去った俺が何気なく言った言葉に、爺さんは沈黙した。てっきり「まだまだ若い」なんて返答が来
ると思っていたのに。沈黙はしばらく続き、やがて爺さんは大きなため息を漏らした。今まで爺さんのため息な
んて聞いたことのなかった俺は、それだけでかなりの驚きだ。
「そうだよな。俺も、もう年なんだよな」
「お、おいおい……そんな弱気になんなよ。言葉のあやだろ」
「いや。昔はバイクで転倒しようがかすり傷ですんでたのに、今は風呂場でちょっとこけただけでこの様だ」
 それはただ単純に打ち所とか運とかの問題だろ、という突っ込みを入れるべきかどうか、俺は悩んだ。こんな
に落ち込んでる爺さんを見るのは初めてで、戸惑ってしまったためだった。
「この分だと、死ぬのも早々遠くないのかもなぁ」
「な……やめてくれ、そんな冗談」

45 名前:隣の爺さんのこと 3/4 ◆E4Neta/NAM 投稿日:2006/10/15(日) 04:11:36.73 ID:1JSoIlRf0
 爺さんの口から、死ぬなんて言葉を聞きたくなかった。同級生の言葉よりも、年齢が年齢なだけに洒落になら
ない。
「爺さんは、酒樽一杯の日本酒を飲むまで死なないんだろ」
「さすがに、もうそんなに飲めねえよ」
 ああ、これは重症だ。日頃からの夢を否定するなんて、昨日までの爺さんでは考えられない。人間は入院する
と不安になるとか言うが、きっと今の爺さんがまさにそんな感じだ。
 どうにかして元気付けなければ。けれど、どうやって……
「あ、そうだ……じゃあ夢を変えろ」
「変えろってお前、えらそうに。俺のが年上だってわかってるか?」
「うるさい。これから爺さんの夢は、『俺と一緒に酒を飲むこと』だ」
「……はぁ?」
 爺さんが間抜けな声を上げる。俺の意思がわからないかな、この人は。
「言っておくが、俺は法律を破る気はさらさらない。いい子だからな」
「誰がいい子だ」
「そこは突っ込むなよ。で、俺が今十七だから、俺と爺さんが一緒に酒を飲み交わすにはあと三年待たなきゃ駄目だ」
 爺さんが、ようやく俺の言いたいことがわかったのか、少しだけ目を見開いた。
「つまりそれまで、爺さんは死ねないってことだ。だからそれまで死ぬなんて言うなよ」
「……お前」
 よしよし、爺さんが感動している。我ながらいいことを言った。
「それはつまり、あと三年したら勝手に死ねってことか」
「誰もそんなこと言ってねえ! 感動ぶち壊しかよ!」
 思わず大きな声を出してしまった俺は、たまたま通りかかった看護婦に注意された。このジジイ、と爺さんの
ほうを見ると、実に嫌味ったらしく笑っている。
「言っておくが、俺の飲みっぷりは半端じゃないぞ」
「ふん、俺だって酒強いんだよ。多分」
「多分かよ」
 そう言って、また笑う。すっかりいつもの調子に戻った爺さんに、ひとまず俺は安心した。

46 名前:隣の爺さんのこと 4/4 ◆E4Neta/NAM 投稿日:2006/10/15(日) 04:13:13.93 ID:1JSoIlRf0
 ちなみに爺さんが退院するのは二週間後らしい。退院祝いにバイト代使ってメロンでも買ってやるかなんて、
気前のいいことを考えてみる。
 そうだ、三年後にはどんな理由で爺さんの寿命を延ばすかも、今から考えておく必要があるかもしれない。俺
が大型二輪の免許を取って、一緒にツーリングに行けるまで死ぬなとでも言おうか。いや、それより、百歳になっ
たら今度は祝いに酒樽一杯の日本酒をやるとでも言ったほうがいいかな。
 まだまだ先のことなのにこうやって色々考えてしまう俺は、なんだかんだで爺さんが大事なんだと思う。
 爺さんは、そんな俺に不敵な笑みを浮かべつつ、宣言した。
「まあ、お前と言わず、お前の息子と酒を飲むまで生きてやるよ」
「お、言ったな。約束は守れよ」
「でも待てよ……その前にお前が結婚できるかが問題だったな」
「……おい」
 俺がせっかく人のことを思って無い知恵を絞っているというのに、まったくこの爺さんは。
 しかし、とりあえずそんな先のことを考えなくても、爺さんなら何年でも何十年でも生き続けてくれるような、
そんな気がした。

 了



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