【 Progress 】
◆QXQj1ELEyI




43 名前:No.11 Progress (1/5) ◇QXQj1ELEyI 投稿日:06/10/08 12:01:24 ID:ErZeUIuu
背中が冷たい。
それが意識を取り戻した男の頭に最初に浮かんだことだ。
床に大の字で倒れていた彼は、左肘を冷たい床に押し付けて自分の体を起こした。
頭の中が白色から通常の彼の色に戻るまで、数十秒ほど必要だった。
両目のぼやけたピントがようやく合って、男は自分の目の前に大きな穴があるのを認識した。
直径は十メートルほどだ。その穴の向こうには壁がある。
彼は自分が置かれた状況を把握することができなかったが、無意識に今度は周りを見回した。
――右も左も、そして後ろも壁で囲まれていた。
自分が先ほど倒れていたところしか、彼の動ける場所はない。
それは、本当にちょっとしたスペースだ。
そう、あまりにも狭い。
彼は途方にくれた。

目の前に大きく口を開けている穴を恐る恐る覗いてみた。
漆黒。今まで見たことのないような黒色。
確かに穴なのだが、奥行きとか、そういうものが彼には感じられなかった。
いくら、目を凝らしてみても、その穴の底は彼には見えなかった。

数分ほど、床の上で背中を丸め、あぐらをかいていた男は、今度は穴の淵に手をかけて、
落ちないように、ゆっくりと、そして慎重に自分の顔をその漆黒の穴に入れてみた。
光が消えた。彼は自分が黒色になって、その穴と融合したかのような感じを受けた。
やはり、底は見えない。そればかりか、穴の側面も見えないことに気づいた。
左手で体が落ちないように、しっかりと淵を掴みながら、彼は右手で穴の中に手を入れて
何かの感触を探そうとした。しかし何もない。
この穴の下は無限に広がっている――。
何もない。あるのは漆黒の空間だけだ。
じゃあ、今、自分がいるこの床は何によって支えられているのだろうか?
男の中に床に対する恐怖が生まれた。

44 名前:No.11 Progress (2/5) ◇QXQj1ELEyI 投稿日:06/10/08 12:01:38 ID:ErZeUIuu
数分が経った。
男はこの、突然自分を襲った非現実的な状況を受け入れ、理解しようとしていた。
しかし、それは徒労に終わった。
どう考えても、何故、自分が今ここにいるのかわからなかった。
『……を……み』
答えを見つけようと自分の中を必死に歩き回っていた男は微かに声が聞こえたのに気づいた。
彼は、意識を外へと向けて辺りを見回した。
耳をすます。しばらく、動かずに声を待ったが何も聞こえない。
自分の声だったのだろうか、と男は考えた。自分で自分と会話をしていたからだ。
『違う』
突然、答えが返ってきた。不思議な事に、何処かで聞いた覚えがある声のような気がした。
彼は、その声の持ち主を探そうと左右を見回したが、誰もいない。
それに、声自体がどの方向から発せられたのかもわからなかった。
『上を見ろ』
その何処から誰が話しているのか不明の声は彼に命令した。
彼は体を少し後ろに反らしながら、上の方へと顔を向けた。
そして発見した、漆黒の穴を。

「……穴? なんなんだ、一体これは!」
頭上の漆黒に吸い込まれそうな感覚を追い払うように彼は謎の声に問い掛けた。
しかし、答えはない。その代わりに、しばらくして上のその穴からゆっくりと何かが降りてきた。
細めた目でそれが何かを確認しながら、男は立ち上がった。
そして、今、自分に与えられている狭い場所でその降りてくる物が自分に当らないように移動した。
それは目の前で動くのをやめた。
彼はそれを確認して、慎重に触れてみた。最初は右手だけで、それから両手で。
それから、触っただけでは信じられないのか、
今度は間違いなくそれが存在することを自分に言い聞かすかのように、呟いた。
「――縄梯子だ」

45 名前:No.11 Progress (3/5) ◇QXQj1ELEyI 投稿日:06/10/08 12:01:52 ID:ErZeUIuu
男は、状況を整理した。といっても簡単なことだ。すぐに終わった。
自分の左右と後ろに壁があり、足元には狭い自分の立っている床がある。
目の前には穴、頭上にも穴。二つとも同じ大きさ、同じ黒さ。
ただ一つ違うのは、頭上の穴からは縄梯子が垂れ下がっている。そして、謎の声。
なぜ自分がこんな状況にでくわしているかは、わからなかった。
彼は自分の取れる行動を並べた。これもすぐに終わった。
この場所でじっとしているか、目の前の穴に飛び込んで落ちるか、
縄梯子を使って頭上の穴をのぼっていくか、謎の声と話して何かを期待するか。

彼は三回、謎の声に向かって現状説明を求めるために話し掛けた。
三回無視された。で、彼は、それをあきらめた。選択肢が一つ消えた。
両手で顔を覆って、次にどうするか考えた。なかなか、答えは出ない。
ただ、この状況では、このまま此処にいても埒があかないことくらいはわかった。
ため息をついてから、現実を直視するために両目を隠していた手を下ろした。
二つの漆黒の穴を見る。困惑、不安、苛立ち、また不安。彼の中でそれらがぐるぐると回転する。
首をかしげながら顔を上に向け漆黒の穴を覗き込み、舌打ちをした。
それから男は顔を歪めながら縄梯子に手をかけた――。

「クソッタレ……」
自分に対してか謎の声に対してかは自分でもわからないが、男は毒づいた。
縄梯子で上の穴にのぼるという選択は、最悪の場合、途中で引き返せると思ってしたのだ。
しかし、手をかけ、足をかけて彼が上へとのぼるための役目を終えた縄梯子は消えてなくなっていた。
これでは、ゴールもわからないまま、のぼり続けるしかない。
気づくのが遅かった。もう、かなりのぼっている。その現実に気づくと同時に大きな疲労が彼を襲った。
男は体を動かすの止めた。
周りを観察する。相変わらずの漆黒。しかし不思議な事に、そんなに先の方までではないが
縄梯子だけは、はっきりと見える。上を見上げても光は見えない。
ため息をつく。だが、こうしているうちにも体力は消耗する。
一瞬、今の場所から落下したらどうなるかという不安が頭に浮かんだが、
それを振り払うかのように男は再び動き出した。

46 名前:No.11 Progress (4/5) ◇QXQj1ELEyI 投稿日:06/10/08 12:02:06 ID:ErZeUIuu
ゴールに達したときには、かなりの体力を消耗していた。
荒い息遣いで彼は縄梯子から手を離し、ようやく目の前に現れた床にしゃがみこんだ。
それから、深呼吸をして息を整えてから周りを見回した。
右側と左側は壁。そして、発見した。
二メートルほど先に、直径十メートルほどの大きさの漆黒の穴があるのを。

「――何だ、これ?」かすれた声で男は弱々しく言った。
後ろを振り向く。先ほどのぼってきた穴は消えていた。壁があるだけだ。
男は足を放り出して、床にへたりこんだ。大きく息を吸い込むために上を見た。
あった――漆黒の穴が。

『疲れたか?』
その場から動けずにかなりの時間呆然としていた男に、突然、謎の声が話し掛けてきた。
「あたりまえだ! 一体、どういうことか教えて――」
反射的に言い返した男の目の前に、また縄梯子が降りてきた。
それを見た男は喋るのをやめた。
しばらくしてから、何回か謎の声に話し掛けた。しかし、予想通り返事はなかった。
上へのぼったのは間違いだったに違いない。いや、もしかしたら、もう一度のぼれば……。
しかし、男はその考えを打ち消した。まず、縄梯子をのぼる体力がもうない。
それに、もしまた、今と同じようなことになったら、自分はそれこそ発狂するだろう。
残された選択肢は一つ。目の前の穴に飛び込むしかない。
それが彼の導き出した結論だった。
いや、実際には選択肢は二つしかなく、一つが失敗に終わった今、
残りの一つを選ぶしかないというのが正しい表現のかもしれない。
彼は時間が経てば経つほど、自分の中で穴に飛び込むという行為に対しての恐怖が
大きくなると考えたので、そう決めるとすぐに床から立ち上がり穴へと近づいた。
そして、漆黒の中へと身を投じた――なぜか恐怖は全くなかった。
どれくらい落ち続けたのかは、わからない。
まぶたを開いていても、閉じていても真っ暗なので自分のまぶたが今、どうなのかわからなかった。
ただ、はっきりわかったことは先ほど、穴にのぼったときより、早く最終地点に着いたということだ。


47 名前:No.11 Progress (5/5完) ◇QXQj1ELEyI 投稿日:06/10/08 12:02:22 ID:ErZeUIuu
暗闇から突然、明かりのある場所へと出てきたので、目がなれるまで周りの状況がわからなかった。
かなりの高さから落ちたはずだが、着地した際に臀部に受けるはずの激しい衝撃はほとんどなかった。
数秒ほどして、彼の目が本来の機能を果たし始める。
立ち上がって数メートルほど歩いた。
男が落下中に予想していた通りに、あった。
目の前と頭上に――見慣れた漆黒の穴が。

「また、縄梯子が降りてくるのか?」
体からも心からも力がなくなった男は呆れながら訊いた。
『必要ならば、降ろす』と謎の声。
「――で、いつまで続くんだ、これは」
『終わるまでだ』
平板な声。
「……終わるまで?」
『ああ、そうだ』
その回答が理解できない男は、疲労もあってかその場に崩れるようにしゃがみこんだ。
「一体、いつ終わるんだ! おれはどうすればいいんだ。なんなんだ、これは!」
最後の力を振り絞って選択肢のなくなった男は叫んだ。
『おまえの好きにすればいい。のぼってもいいし、落ちてもいい。大体、これは――』
謎の声は間を取ってから続けた。
『全ておまえのものなのだから。穴も、縄梯子も。そして、この声も全てが。
――おまえには選択肢が無数にある。さあ、次はどうするんだ?』
その声が消えると同時に、上の穴から縄梯子が降りてきた。

≪了≫



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