【 虹の雫 】
◆D8MoDpzBRE




38 名前:No.10 虹の雫 (1/5) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/08 11:59:53 ID:ErZeUIuu
 大都会の夜景を水面に映して宝石のように輝く東京湾の上を、一隻の白いクルーザーが滑るように走って
いた。眠らない街のネオンが、少し離れた陸の上で陽炎のように揺れている。レインボーブリッジが指し示す
先はお台場だ。闇夜に光る人工島。
 クルーザーの後部デッキで、紗夜は手すりにもたれかかっていた。夜風に、セミロングの茶髪がなびく。幻
想的な演出を目の前にして、彼女は却って居心地の悪さを覚えていた。
 クルーザーが、レインボーブリッジをくぐる。新交通『ゆりかもめ』が、銀河鉄道さながらに橋に沿って上空
を横切っていく。これは現代の天の川か。
 コツン、という小さく硬い音が、デッキの上に響いた。
「なんだろう?」
 音は、紗夜のすぐ背後の足元から聞こえた。彼女が振り向いて腰をかがめると、小さく光る物体が見えた。
指輪だ。
 シンプルなリングに、砂粒ほどに小さなエメラルドが一つ埋め込まれている。暗闇に、青みがかったグリー
ンがはっきり映える。
「貴史、見てよ。今、レインボーブリッジの上から指輪が落ちてきたの」
 紗夜はクルーザーのデッキから室内に戻ると、先ほど拾った指輪を右手の薬指にはめて、赤いソファの上
にふんぞり返っている貴史の目の前にかざした。窓越しにある運転席の操縦士は、無関心そうな後ろ姿を
保っている。
「拾いモノかよ。橋の上から誰かが放り投げたんだろ。ゲンが悪いから捨てちまえよ」
 貴史がつまらなそうに返事をした。紗夜がしゅん、と肩を落とす。
「でも、綺麗でしょ? コレ」
「勝手にしろ」
 それ以上、貴史が紗夜の指輪に目線をくれることはなかった。身の回りを全てブランド品で固めている貴
史にしてみれば、拾い物の指輪になど僅かな価値もないのだろう。
――ゲンの悪い指輪か……
 紗夜がため息をつく。
 彼女にとって、ライトアップされた東京の夜景よりも、今は小さな指輪の輝きの方が何故だか愛おしかった。
小さなエメラルドの粒が願いを叶えてくれる、そんな予感がしていたのだ。


39 名前:No.10 虹の雫 (2/5) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/08 12:00:06 ID:ErZeUIuu
 真夜中の帰り道、紗夜はもはや哀しみに取って代わられた恋心を引きずっていた。つい先刻まで紗夜の
体を抱いていた男は、事が果てるや肌の火照りも冷めやらぬうちに、彼女に帰れと言ったのである。
 三年続いた恋の末路を、一人寂しく歩く。
 紗夜が自宅のドアノブに手をかける頃には、夜明けが忍び足で空の縁を染め始めていた。午前様の帰
宅を待ち受けていたのは、途方もない孤独だけだ。一人暮らしを選んだことを、今更ながらに後悔する。
「時間が戻ればいいのに」
 ベッドの枕に突っ伏して、紗夜がつぶやいた。次第に、彼女の意識をまどろみが支配していく。
――時間を戻せば、後戻りはできませんよ
 何者かが紗夜の耳元でささやく。これぞ天の声。紗夜が、額を枕にこすりつけながらうなずいた。
 次の瞬間、夢の中にいるような浮遊感が紗夜を包みこんだ。睡眠と覚醒の境界線上で、彼女は異変に気
づかない。
 人目に触れず、紗夜の薬指にはめられた指輪が、青白い光を放っていた。


40 名前:No.10 虹の雫 (3/5) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/08 12:00:21 ID:ErZeUIuu
 いつもと変わらない朝が巡り、いつもと変わらない日常が始まる。唯一違うのは、起きたときの不快感、
けだるさ。紗夜は、まるで悪い夢でも見ていたかのような寝覚めの悪さを覚えていた。
 朝食のテーブルに着いても同じだった。食欲がない。こんがり焼けたトーストにほとんど手を付けないまま、
紗夜は席を立った。
「今日も物件を探しに行くの?」
 紗夜の背後から、彼女の母親が声をかけた。来月から新社会人となる紗夜は、一人暮らしができるよう
なマンションを探していたのだ。
「そのことなんだけど、職場までウチから通うことはできないかな」
 紗夜が問い返す。母親の目が、意外そうに紗夜の方を見開いた。
「できるに決まってるじゃない。歩いて行けるわよ。そもそも、どうしても一人暮らしがしたいって言い出した
のはあなたの方でしょ」
 そう言えばそうだったかも、と紗夜が思い直す。居間のソファには、ネット上の不動産情報をプリントした
紙が散らばっている。いずれも、紗夜が通うことになる新しい職場の通勤圏内だ。
「あら、その指輪」
 母親の目が、紗夜の右手薬指へ向いた。
「ああ、コレね。拾い物なの」
「本当に? どうせまたタカシ君に買ってもらったんじゃないの」
 母親の言葉に、紗夜は軽い頭痛を覚えた。いら立だたしげに「違うから」とだけ返答し、ハンドバッグを手
に取ると、紗夜はサンダルを履いて玄関を飛び出した。
 ただ、行く当てもなく。

41 名前:No.10 虹の雫 (4/5) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/08 12:00:32 ID:ErZeUIuu
 紗夜と貴史は、一ヶ月前の合コンで知り合った仲だ。以来、頻繁に貴史の方から紗夜の携帯電話にメー
ルが来るようになった。ルックスもよくおしゃれで、何より優しい貴史に、紗夜の心は惹かれていた、はず
だった。
 春日通りを歩く紗夜の足取りは重かった。遠くには東京ドームが白く浮かび上がっている。並ぶようにして、
文京シビックホールの高層ビルが陽光を受けて輝く。
 しばらく歩いてようやく、紗夜の気持ちが落ち着いてきた。
 今朝から、紗夜の心に引っかかり始めた胸騒ぎ。その正体が、おぼろげながら彼女にも分かってきた。
それは、貴史に対して彼女の奥深くに眠る意識が送っていた危険信号に他ならない。
――やはり、きっぱり誘いを断ろう。
 紗夜が決心する。彼女は携帯電話を取り出すと、通信履歴から貴史の電話番号を探し出した。短い通
話でのやりとりを交わす。執拗に食い下がる貴史との会話を、紗夜が無理やりボタン操作で断ち切った。
 後悔はなかった。

42 名前:No.10 虹の雫 (5/5完) ◇D8MoDpzBRE 投稿日:06/10/08 12:00:48 ID:ErZeUIuu
「そろそろ教えてくれてもいいだろ。その指輪は誰からもらったんだ?」
 男が紗夜に向かって話しかける。少し先を、紗夜が軽快に歩いていた。
「だから、拾い物だって言ってるでしょ。祐二には私の言うことが信じられないの?」
 後ろ姿のまま、紗夜が返答した。
 夜景と夜景をつなぐ橋を、二つの影が渡っていく。数え切れないほどのデートを重ねてきた二人の間には、
未だ解けない謎が存在した。エメラルドの指輪のことだ。紗夜自身、その指輪の出自について詳しく覚えて
いないのだから仕方ない。
「その指輪が大切な物だってこと、よく分かるけど、それに縛られていて欲しくない」
 不意に、祐二が切り出す。何らかの決意が込められた口調に、紗夜が振り向いた。
 返す言葉を探しながら、紗夜の目線は宙を泳ぐ。そんな彼女に対して、祐二がある物を差し出した。
「紗夜の残りの人生、この指輪も大切にして欲しいんだ」
 言葉の意味を理解した紗夜が、両手をパッと開いて口元に近づけた。歓喜と驚嘆の入り交じった仕草だ。
 言葉らしい言葉を発せないまま、紗夜が指輪を受け取って左手薬指にはめた。精巧にカットされたダイヤ
モンドが、街の灯りを透過して幻想的な光のオブジェとなる。
 突然、今まで紗夜の右手薬指に嫌と言うほど馴染んできたエメラルドの指輪が、するりと指からこぼれ落
ちた。一回地面にはねられて、転がる。
「あっ」
 手を出す暇もなく、青いエメラルドの反射光が残像の尾を引きながら、東京湾の深い闇へと消えた。さな
がら一滴の雫のように。
「ごめん」
 祐二が、自分が悪いわけでもないのに謝った。その様子が可笑しかったのか、紗夜がくすりと笑う。
「指輪、ありがとう。これからは祐二が私を幸せにしてね」
 もう後ろは振り返らない。橋の上で、紗夜が祐二の顔をしっかりと見据えている。
 二人の足元の遥か下を、一隻の白いクルーザーが滑るように通り過ぎていった。



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