371 名前:人間失格 ◆AQKQQcmJ.A 投稿日:2006/10/07(土) 21:13:24.32 ID:fJ/tzit70
住み慣れた狭く四角い部屋で目が覚める。何か嫌な夢を見ていた気がするのだが、思い出せない。
どのような夢だったのか引っ掛かりが取れないまま昼下がりの太陽に向かって歯を磨き、コーヒーをいれる。今日は久しぶりの休日なのだ。
たまにはどこかあてもなくぶらつくのも良いかもしれない。そんなことを思いながら軽い朝食を済まし、履き潰したスニーカーを引っ掛け門扉を出る。
いつも会社に行く途中に通る街路樹が、今日は少し違って見えた。
繁華街へと繋がっている交差点で信号を待っている最中、背後からかけられた声にハッとした。
苦労の数がシワになった老婆が私に問い掛ける。
「すいませんが若い人。この荷物を運ぶのを手伝ってくださらんか」
特別急ぐ用事もないのだが、地面に置いた状態で腰あたりまである風呂敷包みの荷物はとても運ぶ気になる代物ではない。
「申し訳ありません。これから少し用がありますので……失礼します」
「ああ、そうだったのかい。でもせめてこの信号を渡るところまで手伝ってくださらんかの。私一人ではとても運べそうに無いですゆえ」
人の良さそうな小さい老婆の言葉が降りかかる前に、私は信号を渡らずに引き返した。
せっかくの休日くらい好きに使わせてほしいものである。
結局のところ、たどり着いた先は向かっていた繁華街とは逆の位置に存在するカフェテリアだった。
たまの休日をどのように過ごそうか思案していたのだが、結局はなんの面白みのない場所に行き着いてしまう。
まるで私の人生を象徴しているようだ。
「お客様。ここは禁煙席ですのでおタバコはご遠慮できませんか」
タバコに火をつけ数秒すると黒エプロンを帯びた白いシャツの店員が忠告してきた。
「ああ、そうだったのですか。すいません」
身に降る火の粉を払うようにあしらう。怪訝そうな店員の顔がレジへと戻っていく。いつからこんなに自分勝手な人間になってしまったのだろうか。
結局は喫茶店も居づらくなってしまった。
やっと見つけた安らぎの場所を失った私は再びあの交差点に戻っていた。
先ほどの老婆は見当たらないが、代わりに遭遇したものに私は言葉を失った。
372 名前:人間失格 ◆AQKQQcmJ.A 投稿日:2006/10/07(土) 21:14:01.46 ID:fJ/tzit70
「なんてこった。そんな馬鹿なことがあるのか」
人間は本当にショックを受けたり、感動したことあると口に出してしまうようだ。ふとこの瞬間に実感した。
交差点にはパトカー数台と救急車が止まっている。
私の目の前の道路は血溜まりになっており、見覚えのある風呂敷が無残に破れたまま放置されている。
恐らくは風呂敷の中身であっただろう私の腰ほどあるヌイグルミは手足をもがれて、ひどく返り血を浴びていた。
「死因は失血死。被害者は70代の女性、加害者は――」
間違い無い。あの時の老婆だ。
私はそこでただただ立ち尽くすしかなかった。あのとき手助けしていればもしかしたらこの事故を防げたかもしれない。
風呂敷の中身は大きなヌイグルミだった。おそらくは孫か何かにあげる予定だった物だろう。老婆にとっては大荷物でも、大人の私ならば雑作も無く運べるはずだ。
激しい嫌悪感と眩暈で倒れそうになる。
もう少し早く目覚めていたら。この交差点に来なかったら。老婆に出会わなければ結果は違っていたかもしれない。
もし私が荷物を運んでいたのなら老婆はこんな醜い死を迎える事無く、孫や親戚に囲まれ幸せの中で看取られただろう。
「目撃者の方ですか?事情をお聞きしたいので少しお時間取れますか」
立ち尽くしていると、中年の公僕が私に語りかけてくる。
「……いえ、知りません。ただの通りすがりです」
たどたどしくそう告げると、真っ先に家路についた。
私はどこまで落ちていくのだろうか。私は卑怯だ。
できるのならばやり直したい。今朝布団で大きく背伸びをするところからやりなおせるのならば、どれだけ私は救われるだろうか。
あの老婆を交差点で救っていれば、例えそれが偽善であっても私の心は満たされたはずだ。
もし荷物を運んでいる時に老婆との談笑の中で孫の話が出てくるのならば、私は笑いながら相槌を打とう。
それだけで、この世界はどれだけ救われただろうか。私の行動ひとつで。
強い自己嫌悪の中で私は眠りについた。
私はどこまで落ちていくのだろうか。