【 傘 】
◆oxQ.jXqnMY




105 名前:傘1/5 ◆oxQ.jXqnMY 投稿日:2006/10/01(日) 23:52:00.51 ID:r6hi6jIA0
 空を見上げると、鈍色の雲が一面に広がっていた。
空までが自分を憂鬱な気分にさせようと企んでいるような気がして、泣きそうになる。
ぽつん。ほーら、雨が降って来た。
最近の自分は本当についていない。
それなりの志を持って上京し、大学に四年間通った後、見事就職試験に失敗し、所謂ニートの身。
食事以外の外出は極力避け、引き籠もり歴は丁度半年。
家に帰れば両親が、「生きているうちに孫を抱きたい」と脅迫する。
そんなに上手く行くか。あんた達の子だっつーの。異性に縁があるかどうかくらい察して欲しい。
第一、結婚云々よりも就職が先だろ。もっとも、そっちの方の予定も、全くないけど。

 雨脚が強くなって来た。
生憎、傘など持って来ていない。
週末夕方の繁華街を、洗いざらしのジーンズとよれよれのシャツで駆け抜ける。
――滑った。転んだ。
周囲の人々の幸せそうな表情と、泥水で汚れた自分を比べ、泣きそうになる。
「もう疲れたな」
一言、呟いてみた。
しかし、何も起こらなかった。
雨脚は強くなる一方。
少し休んでから行こう。俺には休む場所が必要だ。
丁度前方に小さな店が見える。
何の店だかは判然としないが、雨宿りくらいはさせてくれるだろう。
そう検討を付け、えんじ色の屋根をした店へ急いだ。
”ここではない何処かへ飛び立ちたい方、是非当店へ”と書かれたのぼりが見える。
怪しい。
だが、”ここではない何処かへ”。その言葉は、今の自分の気持ちに如何にもぴったりだ。
連れて行って貰おうじゃないか。
そして、看板には流暢な筆記体でこう書いてあった。
”AirPort”。
【続】

107 名前:傘2/5 ◆oxQ.jXqnMY 投稿日:2006/10/01(日) 23:52:50.97 ID:r6hi6jIA0
 カランカラン……
扉を開けると鈴の音がした。
「いらっしゃいませ。本日は、ご搭乗ですか?」
待ち構えていたように、キャビンアテンダントの衣装に身を包んだ女性が現れた。
確か看板には”AirPort”、空港と書いてあったはずだ。
つまり、ここは、あれだろうか? メイド喫茶ならぬ、空港喫茶。
CAに扮した女性達が、素敵で、嬉しくて、恥ずかしいサービスをしてくれる店なのだろうか?
いかに引き籠もりでニートと言えど、そっちの世界に憧れだけは十二分にある。
ならば、ならば乗らぬ訳にはいかぬ。
「ご、ご搭乗で」
しまった。微妙に噛んでしまった。おまけに敬語が変だ。こういう店で緊張を気取られるほど恥ずかしいことはない。
くすり、とCAが微笑みを漏らす音が聞こえた。
「お客様、当店のご利用は初めてですね?
それではお客様、本日は私、遠山京香が、お客様を”ここではない何処か”までお連れさせて頂きます」
「”ここではない何処か”ですか?」
「”ここではない何処か”、です。到着地では、お客様は全くの別世界をご覧になることになります
そこは、今の自分を脱ぎ捨て、全く新しい自分になれる素敵な地で御座います」

 ”ここではない何処かへ”。
別世界に達してしまう程、ここのサービスは凄いのだろうか?
俺は幾ばくかの緊張と期待を隠すことなく含み、答えた。
「よろしくお願いします」
遠山京香は見事な営業用スマイルでそれに応え、
「それではお客様。まずは手荷物検査を行いますので、こちらの扉までお越し下さい」
店内の、ある一室を指差した。
そこには、大きな黒い扉。
その扉は、重々しく次の部屋までの間に立ち塞がり、威圧的な雰囲気を醸し出している。
扉の上には”Gate”というプレート。
俺は遠山京香に手を引かれるままにその扉の前に立ち、開けた。
【続】

108 名前:傘3/5 ◆oxQ.jXqnMY 投稿日:2006/10/01(日) 23:53:40.67 ID:r6hi6jIA0
 ギィィィィイィ……
重苦しい音と共に、ドアが開く。
途端に香の香りが立ち込めた。頭の芯がぼーっとする。空気が重くなったような錯覚。
この部屋は、何かおかしい。夢を見ているような、覚めた直後のような、そんな感覚。
あれ、ここは……ちょっと刺激的な喫茶店、だろ?
それにしては様子が変だ。テーブルと椅子がなく、およそ喫茶店という形態を取っていない。
「それでは出立の前に、お客様のお荷物を改めさせて頂きますね。先ずはこの、鎧から外して頂きます」
そんな俺の困惑を余所に、遠山京香はそう言った。鎧なんてつけている筈がない。
「鎧……ですか」
「鎧です」
「そんなもの、着けていませんが」
「着けているじゃないですか。鎧」
遠山京香が俺の体を指差す。
目を、疑った。俺の体は、アニメで見たような、中世の西洋騎士が身に付けるような鎧を纏っていた。
思わず、手で触れてみる。
すると――

 六畳一間のアパートに、冴えない顔した男が座っているのが見える。
男は淀んだ目をしてパソコンに向かっていた。
彼は、まるでそうすることしか知らないように、マウスを操作し続ける。
ピンポーン。男の家のインターホンが鳴った。男は動かない。
トゥルルルー。暫くすると、今度は電話が鳴った。やはり男は動かない。
彼は、一枚の静止画のように、いつまでもパソコンの前に座り続けていた。

――自分の姿を幻視した。
「つけてらっしゃいますよね? 鎧」
遠山京香の声で我に返る。そう、俺は鎧を着けている。何も寄せ付けない、誰にも触られない、自分自身を守る鎧。
「はい。着けています。鎧」
覚束ない頭で、そう答えた。
【続】

110 名前:傘4/5 ◆oxQ.jXqnMY 投稿日:2006/10/01(日) 23:54:26.69 ID:r6hi6jIA0
「それではこれは、こちらで預からせて頂きます。目的地では必要のないものですから」
そう言って遠山京香は、俺の体から鎧を外した。気のせいか、少し体が軽くなる。そして胸にぽっかり穴が開く。
俺は……何から身を守るために鎧を身につけたのだろう?
「次に、この足に付いている重りを外させて頂きますね」
足に付いた……重り?
「重り……ですか? そんなもの、持っていませんが」
先程と同様の回答をする。すると遠山京香は、やはり
「持ってるじゃないですか。重り」
先程と同様の返事をし、俺の足を指差した。
するとそこには、俺の歩みを阻む、大きな重りが。今度も両手で触れてみる。すると――

 六畳一間のアパートに、死んだ魚の目をした男が俯いている。
トゥルルルー……トゥルルルー……。男の携帯電話が鳴った。
男は幽鬼のような表情で携帯電話を操作する。メールを受信したらしい。
「文彦ちゃん。就職は決まりましたか? お母さん、文彦ちゃんのこと、信じているから心配してないけど……」
男はディスプレイをぼんやりと眺め、携帯電話を投げ捨てた。
頭を抱え、呻く。
「わかっている。わかっているよ……」

――やはり、見えた。そう、俺には両親の期待が、確かに重荷だった。
期待に応えようと励み、期待に応えられず呪い、一歩も進めやしなかった。
「つけてらっしゃいますよね? 重り」
「はい、つけています」
「では、これもこちらでお預かりしますね」
遠山京子はそう言って、手際良く重りを外す。
足を振り上げてみた。軽い。前へ進める気がする。
俺は、俺は……何に囚われていたのだろう?
「あらお客様、良く見ると傘をお持ちのようですね。あちらでは雨なんか降りません。
それはこちらの籠に、お客様の手で入れて頂けませんか?」
【続】

112 名前:傘5/5 ◆oxQ.jXqnMY 投稿日:2006/10/01(日) 23:55:33.13 ID:r6hi6jIA0
傘は、持っていなかったはずだ。だって、あんなにも雨に打たれたのだ。
そんな俺の顔色を伺ったのだろう。遠山京香は、やはりこう言った。
「またまたぁ。その手に持ってるじゃないですか。傘」
右手を見る。そこには、大きな大きなこうもり傘。そっと左手で触れ、目を瞑った。すると――

 今度は、先程のアパートではない。泣き出しそうな空の下、広々とした空き地に一人の少年が見える。
少年はぽつんと佇み、何処か寂しそうだ。ぽつり……ぽつり……雨が降ってきた。
途端に何処からか一人の女性が飛び出て来て、その手に持っていたノートを少年の頭にかざす。母親だろうか?
するともう一人、スーツを着た男性が少年の元に走り寄り、鞄を少年の頭上に掲げた。
その二人だけではない。次々と人々が少年目がけて走り、全員で少年を濡らすまいとする。
ついには少年の周りに綺麗な円を描き、それぞれの人々が掲げた手は、傘を広げたような形となった。それは現実ではない光景。だけど、真実の風景。

「持っていたでしょう? 傘」
「持っていました。置いて行かなくては、いけませんか」
「あちらでは、傘は不要となります。それにお客様は”ここではない何処か”へ行かれたいのでしょう?
でしたら、こちらの品は不要かと存じます。それに、重いでしょう? 傘」
確かに、この傘は、雨に濡れて、ずっしりと重い。だけど、この重さは。これを、俺の手で手放す?
「その傘を手放して頂かないと、あちらの扉は開きません」
遠山京香は、部屋の奥見える扉を指差した。もう一度傘に触れてみる。
――重いけど、心地よい重さだ。俺は、こんなに多くの人々に。目の前が涙でかすみ、一人一人の顔はもう見えない。そっと、傘から手を離した。
「帰ります」
そう言って、先程潜った扉を、自分の手で開いた。

「お帰りですね。それではこの鎧と重りはお返しします」
「いいんですか?」
一度手放した物という認識から、そんなことを聞いてみた。
「もちろんです。あちらの世界へ行かれないのなら、これはお客様の、資産ですから。身を守るものも、足を鍛えるものも、全てあなたの財産です」
遠山京香はそう言って笑った。
”AirPort”の出口へ向かった。雨はもう降っていなかった。
【了】



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