【 本を開いて 】
◆qAVjD5CX.Y




839 名前:タイトル:本を開いて  ◆qAVjD5CX.Y 投稿日:2006/10/01(日) 17:40:16.40 ID:UXbEivyy0
 夏の休日。
 昼下がりの空にトンビが一匹。ピィーヒュルル、と鳴いて弧を描いていた。
 小高い山の中腹に位置する湖は浅い森に囲まれ、避暑にはうってつけだろう。
 湖畔沿いに歩いていた男が足を止めた。身長はさほど高くはないが、引き締まった体躯は平生から鍛えていなければ得られない物だろう。
 彼は名前を伊藤武(イトウ タケル)といい、歴史あるの柔術の一派の家の者だった。
 彼が足を止めたのは、彼の前を歩いていた連れの女性が、トンビの声を聞いて立ち止まったからだ。空を見上げてしばらく眩しそうに目を細めていた。
 彼女は、早乙女春香(サオトメ ハルカ)という、市内では屈指の地主の娘だった。タイトなパンツが似合うスレンダーな女性で、今日はそれとTシャツ一枚というラフな格好だった。
 春香のほうが二つ年上で、のんびりしている武は。彼女に引っ張りまわされるといった感じだ。
 トンビを目で追いかけていると、彼女は本がピクンと動いたように感じた。
(ここで読もう)
 少しして、彼女はトンビから目を離し、近くに木陰を作っていた一本の大木に目をやった。そうして、
「ここにしましょう」
 と武にささやいた。
 その言葉に、彼女を歓迎するかのようにやさしく木が揺れた。木の全体を見やり、ふわりと流れた黒髪を片手でかき上げながら、彼のほうへ振り返る。
 その彼女ご自慢の髪の毛は、ズボンのベルトよりちょっと上の辺りまで届く長さだ。
 しかし、彼には声がよく伝わらなかったようだ。片手で長いクッション持ったまま、ニコニコと笑顔で突っ立っていた。彼は彼女に言わせれば、たまに、鋭いところを見せる男だった。
彼女はこめかみの辺りに違和感のある笑顔を浮かべ、彼に近寄ると思いっきりスネを蹴りつけた。彼と付き合い始めて、彼女はこの動作を何度したことだろうか。
 すこしも痛くなさそうな表情で痛がる武に、春香は少しだけムッとなった。彼女は、そのまま乱暴にクッションを引っ張って、木の根元まで持っていく。
 律儀な事に、彼もクッションを持ったままで、彼女の後ろをついて来ていた。
 彼女が流し目に見ると、彼はクッションから手を離す。そのまま両手をあげて、降参のマネをするもんだから、彼女の機嫌はくすぶったままだった。
 クッションをおいて勢いよく座り込む。
 彼女に体当たりされる格好となった木は、それでも悠然と立ち、木の葉一枚落とさなかった。

840 名前:タイトル:本を開いて  ◆qAVjD5CX.Y 投稿日:2006/10/01(日) 17:40:53.83 ID:UXbEivyy0
 彼女は背もたれたまま本を開いた。
 彼はそんな彼女をしゃがんで観ていた。
 二人のデートはいつもこうだった。いや、こういう時間をデートと二人は呼んだ。もちろん、普通にデートと呼ぶような、食事に行ったり、遊びにもショッピングにも行くということもする。
 それでも、二人の間には特別な意味を持っているこの時間をデートと呼んだ。二人の諧謔であり、本音でもあった。
 この時間は、二人の言葉を借りれば、『なんとなく満たされた』時間だという。
 彼はボーっと何かを眺めたり、見たものについて考えるのが好きだった。
 彼女は本の世界を想像したり、物事について思索するのが好きだった。
 何かに意識を集中したり、或いは散漫にした時にできる自分の世界というモノを感じたことはないだろうか。全てが他人事に思えるようなそんな世界だ。
 彼らもまた、出会うまでお互いに一人の世界だと感じていたのだった。二人はその世界にいることを好んだ。しかし、今の世の中は彼らより少し忙しいようだった。
 そんな彼らが理解者を求めるようになるのは当然ともいえた。
 初めて出会った街の図書館で、武が春香の『世界』に踏み込んできた、あるいは踏み込めたといったらよいか。それはもちろん、自己紹介でもするようなぎこちなさの含んだ時間だったけれど。
 ある種、感覚が合った二人は、よき理解者、そして掛け替えのない相手と迫っていくまで、そう時間はかからなかった。
 だから、世界を一緒にする事を、二人で会うことに引っ掛けた。
 彼は彼女を観ていて飽きない。彼女と一緒の時以外は、この世界に足を運ぶことすらなくなったほどだ。
 彼女は自分や他の何かに意識を集中したり、時に意識を遠巻きにして、周りから見たらどう見えているのかを想像したりする。どっちも例えがたく楽しかった。
 しかし、彼との対話はさらに楽しい。彼はこちらによく問いかけてくるが、あまり自分は答えてくれないのだが。
 それは、こちらの想うまま勝手に想像させてくれるのと一緒で、そういうのが彼女は好きだった。

841 名前:タイトル:本を開いて  ◆qAVjD5CX.Y 投稿日:2006/10/01(日) 17:41:32.17 ID:UXbEivyy0
 春香自身は、武から踏み込んできた自分の世界が、いつの間にか彼のモノになってしまった錯覚すらある。でも彼の気持ちは感じ取れるし、彼女にとって何の問題もない。それどころか、彼女はそれを嬉しく思っている。
 今日もそんな世界に浸っている内に、時計の針がいくつ回ったか。あたりには夕の影が落ちはじめていた。
 彼女は本を、パタンと閉じた。
「今日はどうだったかしら」
 春香は武を見て聞いた。
「今日も綺麗だよ」
 彼はいつものようにニコニコと、歯が浮くセリフを言う。いい加減彼女もなれてきたが、それでも顔がすこし熱くなるが分かった。
「聞きたいのはそういう言うことじゃない……」
 しかし、彼女の機嫌はすっかりまんまるだった。
 二人を見ていた大木がザザッと葉をならした。

 次の休日、二人は街でデザートを楽しんでから、再び湖を訪れていた。
 先日と同じ大木に寄りかかりながら、彼女は本を開いた。
(……ん)
 武は奇妙な違和感を感じた。水風呂でお茶でも飲んでいるような違和感だった。
 冷たいとか、ぬれているように感じる時、それは彼女が悲しんでいる時だと知っていた。
 しかし、それに違和感がある。こんなはっきりとしない感じは初めてだった。
 彼は彼女の方へ、慎重に歩きだした。彼女はそれを察知したのか、ピクリと動いたように見えた。
 木から一枚、葉っぱが落ちる。なぜだか武は足を止め、それを目で追ってしまう。
 いまだ青く瑞々しい葉っぱは、彼女の膝の上の本に落ちた。けれど、彼女は本を見つめたまま動かなかった。
 彼は引き倒されるようなショックを受けた。
 彼女が泣いていた。涙は本を濡らし、その上に落ちた葉をはたはたと叩いていた。
 彼は春香の涙など見たことがなかった。彼にとっての彼女とは、台風の後のからりとした空のようなイメージの女性だった。

842 名前:タイトル:本を開いて  ◆qAVjD5CX.Y 投稿日:2006/10/01(日) 17:43:57.77 ID:UXbEivyy0
 彼はこんがらがる頭を置いて、彼女に声をかけた。
「ねえ――」
 途端、パチンと乾いた音があたりに木霊した。彼女が彼の頬をぶったのだ。
 その時の彼女の泣き顔は、彼に絶望に似たショックを与えた。泣いているという以外に言うことのできないほど涙にあふれていた。
 しかし彼は、そんな表情と裏腹の、彼女のジリジリとした怒りを感じていた。
「なによ!」
 いれば通じ合ってしまう二人だ。だが、なまじ分かってしまうからこそ混乱すると言うこともある。気持ちだけが先走ってしまうのだ。
 それを理解しようとした武に、責められる所があるだろうか。
 しかし、彼の気持ちを彼女も感じていた。つまり、それは八つ当たりだった。
「冗談か何かだと思ってたのに……」
 武にぶつけたことで幾分に落ち着いたのか、そう言って彼女は話し出す。
 朝食時、彼女の父が彼女へ告げたのは『許婚との結婚が正式に決まった』ということだった。
 彼女は平静を装っていたが、心底、足元が崩れるような錯覚を感じた。やるせなさでいっぱいだった。
 父の古い友人の子どもだかなんだか知らないが、顔も見たことない相手と結婚だなんて納得できるほうがおかしい。そう彼女は憤った。
 そこまで知って、彼は平静を取り戻した。むしろ、なんだそんなことかと、余裕すら感じた。
 彼はそっと本をクッションへ下ろし、いまだうつむいている彼女を引き寄せた。
 腕を引かれて、上をむいた彼女へ口付けた。
 春香は彼からは考えられないような行動に、目を白黒させた。彼はそっと口を離すと、ふと笑った。途端、彼女は暖かいものに包まれるように感じた。

843 名前:タイトル:本を開いて  ◆qAVjD5CX.Y 投稿日:2006/10/01(日) 17:44:48.28 ID:UXbEivyy0
 彼は彼女の頬に手を添え、親指で涙を拭う。
「大丈夫。春香のご両親も話せば分かってくれるさ。それでも、もしだめだったら……」
 ……どこかへ、二人で逃げようか。そう彼がささやいた。
「早合点してしまうのはよくない。まだ始まっていないんだから」
「なにがよ……」
「春香は、お父さんに反対されたって勘違いしただけ。だって、春香と付き合いだして二ヵ月だけど、お父さんにそのことを話してないんじゃなかった?」
「……ぅ」
 彼女は言葉に詰まった。彼はにこにこと笑っている。
 急にビュウと、風が吹いて本のページめくっていく。
「あっ」
 彼女はわざと声を上げて本をとる。本を元のページに戻ししおりを挟むと、両手で、バンッと閉じて元気に立ち上がった。
「さっ、帰るわよ」
 彼女は髪をかき上げて、照れくさそうに言った。
「そんな可愛らしい勘違いをするなんて、春香は僕に夢中なんだね」
 彼女は顔に血が上るのを感じて、照れ隠しに武の膝を蹴った。思いっきり。
 大木がザザッと枝葉を揺らして笑った。



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