【 不意打ち 】
◆ThV730UC/Y




670 名前:品評会用作品「不意打ち」1/5 ◆ThV730UC/Y 投稿日:2006/10/01(日) 03:12:14.49 ID:+gEUnr930

「まったく、厄年でもないのに……」
 偶然の一言で片付けるにはおかしい出来事に、男は苛まされていた。
 不意に視界に入った向かいのビルの回転ドアから、素早く視線を逸らす。
 小さく毒づく言葉はビル風に吹き散らされ、誰の耳にも入ることがない。
 その傍らにはキャスター付きのトランクが鎮座しており、その横腹が少しへこんでいた。
 おもむろに左手首の腕時計を見て、彼は観念したような表情を浮かべる。
 男は幾分動きが不安定になったトランクを引きずりながら、人ごみの中へと歩き出した。

 彼は極めて普通のサラリーマンである。彼は都内のワンルームで一人暮らしをしていた。
 数日前に上司から出張を申し渡され、渋々ながらも準備を始めた――のが一昨日のこと。
 それも滞りなく進み、後は今日の出発を待つだけのはずだった。
 しかし、今朝起きてからどうも妙なことばかり続く。
 実際には、起床する前からその兆候はあったのかもしれない。

671 名前:「不意打ち」2/5 ◆ThV730UC/Y 投稿日:2006/10/01(日) 03:13:40.66 ID:+gEUnr930

 部屋の寒さで目が覚めた彼は、室内を見回して仰天した。
「俺、昨日は飲んでないよな?」
 部屋にある、二つの窓が全開になっている。
 カーテンも、網戸も、およそ風を遮りそうなものが全て開け放たれている!
 頭の芯が痺れそうな冬の朝の冷気に、彼は急いで窓を閉めた。
 ぶるぶる震える手でエアコンのスイッチを入れ、暖気が回復するのを待つ。
 ようやく人心地付いてから、彼はある一つのことに思い当たる。
「もしかして泥棒……か?」
 慌てて財布や通帳、キャッシュカードに保険証、パソコンのハードディスクを確認するが、
それらに、特に変わったところは見られない。それどころか部屋の中が荒らされた形跡がなかった。
 フローリングの床に転がしたトランクもそのままになっている。
 頭に浮かぶ疑問はあったが、日付を確認すれば、今日が出張当日なのは間違いなかった。
 鳴る必要のなかった目覚ましを切って、彼はのろのろと風呂へ向かった。
 すっかり冷えてしまった身体を温めるためだ。道中、給湯器をオンにするのも忘れない。
 着ていたものを脱いで、内開きの風呂の扉に手をかける……ところが、
「いってえ!」
 勢い良く閉まってきた扉に、乗り出していた頭を酷く打ちつけ、彼は数秒その場にうずくまった。
 その扉の向こうでは、これまた全開になった小さな窓から、凍りつきそうな空気が吹き込んでいた。

 トイレに入ろうとして、少し前の記憶がフラッシュバックする。まさかとは思いつつも戸を開けると、
案の定そこには何もなかった。彼は安心して用を足し、出かける支度に取り掛かった。
 クローゼットの扉が襲い掛かってくることもなく、玄関の扉が開かないこともなかった。

672 名前:「不意打ち」3/5 ◆ThV730UC/Y 投稿日:2006/10/01(日) 03:14:21.80 ID:+gEUnr930
 建物から出た彼は、朝食を取るために近くのハンバーガーショップへと向かった。
 横断歩道は赤。人通りの少ない中、呆けたように待っていると、じきに青に変わった。
 ゴロゴロと三日分の荷物を引きずり、ハンバーガーショップに入る……ことができない。
 自動ドアの感応性が悪いのか、その前で足踏みしてみても、身体を前後に揺すっても、
扉は一向に開く気配を見せない。店員が見かねたのか、わざわざドアの前までやってくる。
 すると――何事も無かったかのようにドアが開いた。
「……いらっしゃいませー!」
 気まずいながらも歩を進めると、微妙な間を空けてから、目の前の店員は営業スマイルを浮かべた。
 視界の端でレジの店員が小さく笑っているのを、彼は見逃さなかった。

「やれやれ……」
 朝食を取ってからも、彼は散々な目に遭い続けていた。
 乗り換えまでの電車には、駆け込みで乗り遅れた。
 その次の電車ではトランクを扉にはさみ、駅員に注意された。
 モノレールでは、切符を入れたはずなのに改札で止められた。
 彼でなくとも、ため息の一つもつきたくなるのはしょうがないことだろう。
「誰かが邪魔してるのか、俺の出張を。これって何かの陰謀?」
 誰にともなく一人ごちた。
 そして、現在地は東京の空の扉――羽田空港ロビー内。
 スーツの懐に入れた航空券の感触を確認してから、彼はカウンターへと向かった。

673 名前:「不意打ち」4/5 ◆ThV730UC/Y 投稿日:2006/10/01(日) 03:15:48.02 ID:+gEUnr930

 そして搭乗カウンターの女性はこう言った。
「×××便ですか? その便なら、もう出発されましたよ」
 この言葉には、さすがに開いた口が塞がらなかった。
「え。だって今、搭乗手続き中ってなってましたよ」
 確かに案内板を見ると、彼が乗るはずの便は手続き中と記されている。
「ええとですね、失礼ですが、お客様。搭乗される便の番号を間違えていらっしゃいませんか?」
 そんなはずはないだろうと、手元に取り出した航空券を見た。

「えッ!」

 そこに記された数字は、案内板に表示されているものではなかった。
 何かの間違いだと、何度も見直しても航空券に表記された数字は変わらない。
 彼の手を離れたトランクが空港の床に倒れ、鈍い音を立てた。
「現在手続き中の便の次の便で宜しければ、席が空いていないか調べて参りますが――」
 動転した彼には、カウンターの女性の声も耳に入らない。
 確かにこの時間、この便で予約を入れたはずだった。それなのに――
「一体、どうなってるんだ?」
 それを答えられる人物は、その場にいなかった。

674 名前:「不意打ち」5/5 ◆ThV730UC/Y 投稿日:2006/10/01(日) 03:16:32.10 ID:+gEUnr930

 会社に平謝りの電話を入れてから、結局、彼は女性に言われたとおりの便を取ることにした。
 たとえ飛行機に乗り遅れようと、仕事の出張を取りやめるわけにはいかなかったからである。
 ロビーの喫煙コーナーで不味そうにタバコをふかしていると、にわかに空港の中が騒がしくなった。
「……ん?」
 周囲の人々の目が一点に集中している。そこには――
『今朝方……航空の×××便が……山中に墜落……生存者は……詳細は不明……
 操縦機器になんらかのトラブルが……管制塔とは……分を最後に連絡を……詳しい情報が入り次第……』
――巨大なモニタに映る、報道ヘリが映すテレビカメラの映像には、地上に墜落した、
おそらく、もともとは飛行機だったものの姿が映し出されていた。

「ばかな」

『あッ! ただいま新たに情報が入りました! 現地からの報告の結果、乗員乗客百十余名のうち、
 生存している見込みのある方は……現段階で、限りなく少ない、とのことです……』

 彼は唖然としたまま、騒ぐ携帯電話を取ることもせず、無機質な液晶を眺めるだけだった。

【終】



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