【 ヤヌスが死んだ 】
◆B3EtGTHfwk




649 名前:品評会用「ヤヌスが死んだ」 ◆B3EtGTHfwk 投稿日:2006/10/01(日) 01:38:38.96 ID:6a34u88N0
 無人の孤島に扉がある。いや、扉しかないと言うべきか。かつてこの島にまだ人がいた時に作り出され、
扉として機能していた物。だがいつしか人はいなくなり、時の流れによって共に在るべき壁も崩れ去り、
ただ単一の存在として扉だけが残った。境界となり彼此を隔てるのが壁。壁に在って彼此を?ぐのが扉。
ならば、壁を失い存在としての意味を剥奪された扉は、それでも未だ扉であると言えるだろうか──




 異変はある日突然起こった。
 それは暑い夏の日のことであった。通っている大学が一週間ほど前に夏休みに突入しすることのなくなった青年、
安部広志はカーテンを閉め切った薄暗い部屋のベッドの上でただ何をするでもなく横になっていた。午後一時のことである。
彼の暮らしている部屋は八畳一間のアパートの二階の一室であり、夏の日中はベランダへ通じる南向きの大きな窓から
カーテンでもしなければ眠ることなど出来ないほどの強い日差しがベッドの上へと注ぎ込む構成になっていた。
カーテンをしていても夏の強い日差しは否応無しに室温を上昇させ、またアパートの近くにある大きな木からは
夏の風物詩ともいえる蝉達の大合唱がこれでもかと言わんばかりに響き渡っていた。ちなみに冷房などはない。
世間一般的には夏休みといえば気分も華やぎ開放的になり楽しい事尽くめの思い出大売出し期間なのであろうが、
長期休暇に大人数でどこかへ旅行へと繰り出すようなグループにも所属していなければ、自宅を訪ねてきて
遊びに誘ってくれるような仲の良い友人も持たない彼にとって、夏の到来などただただ汗をかく量が増すだけの
鬱陶しいものに過ぎず、ベッドの上で横になって立てる予定といえば夏の有意義な過ごし方などでは絶対になく──
(喉渇いたな……何か飲み物でも買ってくるか)
──程度の本能的、刹那的なものに過ぎなかった。
本来なら部屋から出たくなどなかったが喉の渇きは堪えられそうにもなく、彼は眠くはないが寝ていたい
程度の抵抗を押しのけ起き上がった。それからゆっくりとした動作で一昨日から着続けていた寝間着を
適当に見繕った普段着へと着替え、寝起きのせいか乱れていた短髪をこれまた適当に整え、玄関へと向かった。

650 名前:品評会用「ヤヌスが死んだ」2/5 ◆B3EtGTHfwk 投稿日:2006/10/01(日) 01:39:37.52 ID:6a34u88N0
 玄関のドアを開けると、目前に美しい湖と森の光景が広がった。

 広志は暫しその光景に目を奪われ、そのまま、静かに、ドアを閉じた。
(いやいやいやいや)
 そんなはずはないと自分に言い聞かせ、もしや幻覚かともう一度慎重にドアを開けてみたが、
やはり彼の目に映るのは先程と同じ景色。呆然とする彼に、蒸し暑い夏には不釣合いな心地よく涼しい風が吹き付けた。
暫くすると彼は乱暴にドアを閉めドスドスと足音を立てて部屋の中へと戻っていき、ベッドへと倒れこんだ。
そのまま暫く静かにしていたのだが、十分程もすると眠れないのか唐突に起き上がり、今度は閉ざしていたカーテンを
思いっきり開けた。部屋に差し込む光。ベランダと、少し距離を置いて民家。いつもの景色。蝉の鳴き声に少し安心する。
段々と落ち着いてはきたがそれゆえに先程の光景が夢や幻覚の類とは思えず、再び玄関のドアを開けるのはやや躊躇われ
たため、彼は少し考えてテレビをつけてみることにした。この時間帯、普段なら何か下らない(少なくとも彼にとっては)番組を
映し出すはずの画面はしかし、緊迫したBGMに乗せて慌しく何事か喋っている男性の姿を映し出していた。
「──とで、原因や詳細は現段階では全くもって不明。世界中は大混乱となっています。また──」
 話を聞くに、どうやら世界中で彼の部屋の玄関と同じような現象が起こっているようだった。
”ドアの表と裏の繋がりが滅茶苦茶になった”
情報を整理すると、つまりはそういうことになる。本来ドアの表と裏は同じドアの表と裏として一対一に対応しているが、
原理はともかくとして、あるドアの表側が何処かにある別のドアの裏側と、そのドアの表側がまた更に別のドアの裏側と
繋がってしまっているというのだ。馬鹿げた話ではあるが、偉い人がそのような言い方をしていたのできっとそうなのだろう。
ということは別に自分だけがおかしな事態に巻き込まれたわけではない、と──
そこまで考えて彼は喉が渇いていたことを思い出した。
(仕方ないから窓から出よう)
 存外切り替えの早い自分に内心少し驚きつつ、彼はベランダから軽々と地上へ飛び降りた。
……荷物を持って上るのはその何倍も辛かったのだが。

 夜も遅くなり、そろそろ寝ようかという時間になってから彼は再びテレビをつけてみたが、特に進展は無いようで、
ただ世界中が大混乱となっているという報道がどこの局でも行われていた。まあ、混乱するなという方が無理であろう。
──俺ははたまたま繋がった先が人気の無い場所だったから良かったようなものの、それが例えば
 テロリストのアジトだったりアメリカ大統領の私室だったりしずかちゃんのお風呂場だったり──
(下らねえ。寝よう)
取り止めも生産性も無い考えを打ち切ると、彼はベッドに横になり眠ることにした。

651 名前:品評会用「ヤヌスが死んだ」3/5 ◆B3EtGTHfwk 投稿日:2006/10/01(日) 01:40:34.16 ID:6a34u88N0
 蝉の鳴き声がする。どれだけの数がいるのか分からないが、とてもうるさい。
 蒸し暑い。気温も湿度も分からないが、汗が止まらない。
 寝付けない。どれだけの時間横になっていたかは分からないが、どうしても寝付けない。

「あ゙ー! イライラする!」
 広志は悪態をついてガバッと起き上がった。時計を見ると深夜三時。寝ようと試みてから二時間近くが経過していた。
ここ最近は暑さも増してきて満足に眠れないことが多く、そろそろ彼の忍耐も限界を迎えようとしていた。
(って言ってもなぁ)
だが彼の忍耐が限界を迎えたところで室温が下がるわけはなく、冷房を買う金が降ってくるわけもない。
何か暑さを乗り切る画期的なアイデアでも閃くなら話は別だが、結局のところ彼には我慢する以外に選択肢など──
(待てよ?そういえば……)
──あった。今、彼の脳裏には一つの光景が浮かんでいた。扉の向こう。
あちらからは確か涼しい風が吹いてきたのではなかったか。
彼はいてもたってもいられず玄関まで向かうと扉を一気に押し開けた。
波一つ無く、磨き上げた鏡面のように美しい湖面。映り込む銀の月。時が止まったかのような静寂。
本当は彼の部屋の側から蝉の声が聞こえていたが、全く気にならなかった。風は無かったがそれでも心地よい空気だった。
圧倒的な魅力に引きつけられ、眠気も手伝ってか彼はすぐに布団を持って向こう側へと足を踏み入れた。
そして近くで一番平坦に思える場所に布団を敷き、そのまま一夜を過ごした。

翌朝の気分は最高だった。久し振りにぐっすりと眠れたおかげだろう。布団は汚れてしまったが、それは洗えば済むことだ。
起きてから不安になったドアも相変わらず彼の部屋へと繋がっているようで、部屋に戻って見たテレビでも
相変わらず進展はないようであった。事態の収拾がいつになるかも分からない、と誰かが仰っている。
(まだこっちにいても大丈夫そうだな)
そう結論付けた彼は、食料やら暇つぶしの道具やらキャンプに必要なものを用意する感覚で準備をして、
夏休みの暫くの間をこの過ごしやすい場所で送ることにしたのだった。

652 名前:品評会用「ヤヌスが死んだ」4/5 ◆B3EtGTHfwk 投稿日:2006/10/01(日) 01:41:23.86 ID:6a34u88N0
結局、彼は一週間ほどをこの場所で過ごした。
全てを見たわけではないが、色々と散策した結果ここが島であるらしいこと、
自分以外には人がいなさそうであることなどが分かった。
人がいないのに扉があるのは不審だったが、理由を想像できないわけでもない。
安全であることが分かってからは、釣りをしたり、森の中に積極的に入っていったりと随分楽しんだ。
短い間ではあったが、この島での暮らしは彼を少しだけ変化させた。
彼の暮らしていた土地ほどではないにしろ、ここも日中はそれなりに暑い。
だが部屋に閉じこもっていた時と違い、風を感じ新鮮な空気を吸っていると爽やかな気分になれ、
自ら動いていると汗をかくのもあまり気にならない。
新しく友達が出来たというわけではなかったが、部屋に閉じこもっているより遥かに有意義な時間を
過ごせたように彼は思った。
そう考えると、今までの自分の暮らしが実に勿体なかったように感じるのだ。
彼がこの過ごしやすい島をわずか一週間で出ようと思ったのはそのためである。
部屋に戻ったら今度は引きこもってばかりいないで、外に出かけてみよう。
どこかに旅に出てみてもいいかもしれない。きっと楽しいことが待っているはずだ──

そんな風に前向きな気持ちになって、彼は部屋へと続く扉を潜った。

653 名前:品評会用「ヤヌスが死んだ」5/5 ◆B3EtGTHfwk 投稿日:2006/10/01(日) 01:42:10.48 ID:6a34u88N0
後にローマ神話の扉の神に因んで“ヤヌスの日”(Janus' Days)と呼ばれるこの一連の騒動は、
世界中の大混乱をよそにわずか三日で収束を見せた。
結局起きた原因も分からないままに、世界中の“扉”が起きた時と同様いきなり機能を回復したのである。
治ったら治ったでまた世界中に大混乱を巻き起こしたわけだが、真相は謎のまま。
科学的に解明出来ないこの事件を、一部の人々は神を忘れた人間たちに対する戒めであるなどと囁いているが
きっとこの事件のことも、人はその内忘れていくのだろう。




無人の孤島に扉がある。かつて扉であったそれはとうとう完全に扉としての機能をなくし、
今はもう、何処にも繋がっていない。



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