【 子供の世界 】
◆xFy/V8wehE




314 名前:品評会用「子供の世界」  ◆xFy/V8wehE 投稿日:2006/09/30(土) 09:29:33.54 ID:f6bmtl2s0

子供の世界

 わたしの部屋にはふたつの扉がある。
 ひとつは廊下に出るための扉で、もうひとつは隣の部屋に直結している扉。
 普段わたしが使うのは、そのうちのひとつだけ。隣の部屋、つまり妹の部屋へ繋がっている扉だ。廊下側の扉
はもう何ヶ月も――あるいは何年も――使った記憶がない。
 いつもと同じようにベッドで目覚めたわたしは、まず妹の部屋のドアをノックした。返事はないが、それはい
つものことなので少し待ってノブを捻る。
 軽く体重をかけて扉を押し開ける瞬間、わたしはいつも奇妙な感覚に捕らわれる。ネガとポジが入れ替わるよ
うな、逆転的な違和感。
 けれどそれはただの錯覚ではない。実際にこの扉の向こうは異世界とも言うべき場所なのだ。

     ◇

 今年で二十歳になるはずの妹の部屋は、ひたすらに幼い。
 カーテンや壁紙をすべてピンクで統一し、部屋の隅やタンスの上にはかわいらしい作り笑顔を振りまくぬいぐ
るみが数えきれないほど並んでいる。着せ替え人形やおもちゃの鏡なども床に散らばっている。まるで年端もい
かない少女の部屋だ。
「あ、みかちゃんっ」
 ベッドの上で髪の毛を整えていた妹がわたしに気づき、子供っぽい声を上げる。わたしも調子を合わせて返事
をした。
「早起きだね、今日は誰か来た?」
「うん、さっきおじさんとおいしゃさんが来たよ」
 わたしたちに親はいない。この家の所有者は叔父で、お医者さんというのは叔父の知り合いの医者だろう。
「ふたりとも、もう帰ったの?」
「うん」
「そっか」
「ねーねー、一緒にあそぼーよ。お人形さんであそぶ?」

316 名前:品評会用「子供の世界」  ◆xFy/V8wehE 投稿日:2006/09/30(土) 09:30:48.42 ID:f6bmtl2s0
 妹は純粋すぎる目でわたしを見上げ、ベッドの脇に置かれていた人形を手に取った。比較的大きな人形で、妹
の小さな手では少し扱いにくそうだ。わたしは人形を受け取り、妹に頷いた。
 わたしがいつまで経っても子供でいる妹にできることは、一緒に遊ぶことだけだった。

     ◇

 叔父の知り合いの医者は毎週妹の様子を見に来る。ほとんど会ったことはないが、まだ若い女性らしい。彼女
は妹の様子を――二十歳だというのに人形遊びや単純なおもちゃに熱中するその様子を観察し、なにか打つ手だ
てはないか調べているのだ。しかしいまのところ妹の様子に変化はない。
 どうして妹は成長しないのか、わたしにはわからない。なにか原因があるのかもしれないし、彼女はそういう
人間なのかもしれない。しかしそれは演技ではなく、本当に妹は子供なのだ。いまでも純粋でかわいらしい、わ
たしが守らなければならない対象。だからわたしは彼女を受け入れ、彼女が望むなら一緒に遊んであげなければ
ならない。たとえ、彼女がどんな人間であろうと。

 わたしの部屋と妹の部屋とでは時間が違う。わたしはわたしの時間を、妹は妹の時間を生きている。その時間
を分けているのがお互いの部屋を繋げている扉で、その扉の向こうとこちらでは十年以上も時代が違っているの
だ。
 たまにわたしは動揺してしまう。時代を隔てている扉を越え妹の目に映った瞬間、わたしは子供になっている
のではないだろうか、と。妹は幼い少女と遊ぶようにわたしに接する。そのせいか、妹の目に写り込んだ自分が
幼く見え、やがて自分が自分であるという感覚がなくなる。妹の部屋にいる限り、わたしは幼い少女でしかない。
「……ねー、どうしたの?」
 難しい顔をしていたのか、妹が心配そうな顔で覗き込んできた。なんでもない、と首を振り、わたしは立ち上
がる。
「そろそろ部屋に戻るね。ちゃんと寝なきゃダメだよ」
「うん、わかった」
 それじゃあ、と扉を開けて妹の部屋と比べると簡素な自分の部屋に戻った瞬間、わたしは息をついた。時間は
きちんと動いている。わたしはわたしで、それ以外の何者でもないという確信がきちんと持てる。鏡に映ったわ
たしは、白い服を着た大人の女だ。少女ではない。
 ベッドに寝転がり、目を閉じた。耳を澄ませると、どこかで扉の開くことが聞こえる。それと共に、人の声も。

317 名前:品評会用「子供の世界」  ◆xFy/V8wehE 投稿日:2006/09/30(土) 09:32:16.87 ID:f6bmtl2s0
「どうだった、彼女の様子は」
 年老いた男性の声だ。それに答えるのは、張りのある若い女性の声。
「変わりはありませんね。やはり彼女は自分は姉だからしっかりしなくちゃいけない、という意識が強すぎるの
かもしれません。親を失って、自分しか頼れる人間がいないような状態ではとくに……。あ、いえ、別に非難し
ているわけではないんです」
「いや、そのとおりだ。僕がもっとしっかりしていたなら、こんなことにはならなかった……」
 沈んだ声に混じって、妹の明るい声が聞こえてきた。
「こんにちは、おじさんとおいしゃさん。あのね、さっきね、お姉ちゃんとあそんだの」
「お姉ちゃんは優しくしてくれたかい?」
「うん、やさしかった。でもね、笑ってなかった」
「……明日にはきっと笑ってくれるよ。だから、今日はもう寝なさい」
「うん」
 しばらく声が途切れて、やがて微かな囁き声が扉越しに聞こえてきた。
「彼女――美夏ちゃんは、自分のことを大人だと思い込んでいる。それが彼女の世界なんです。その世界を守る
ために鏡に写る自分の姿を錯覚したり、妹の姿を錯覚したりする。けどそれはきっとこのかわいい寝顔を守るた
めなんですよね」
「ああ……だから僕たちは美夏を守らなければならないんだ。いつか、美夏が子供のように笑ってもいいんだと
気づくまで。いや、そのあともずっと、笑い続けられるように」
「そうですね……」
 妹の部屋で交わされたその会話の意味は、わたしにはわからない。わかろうという気もない。
 けれどわたしは明日もあの扉を開け、子供の世界に戻る。わたしが守らなければならない妹のために、そして
錯覚だったとしてもわたし自身が無邪気な子供に戻るために。

     End



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