945 名前:【品評会】夜に背負う罪1/2 ◆oGkAXNvmlU 投稿日:2006/09/24(日) 23:46:05.89 ID:AldlH45E0
轟々と鳴り響き山を駆け抜ける風の音は、まるで悪魔の叫びだと、誰かがポツリと口にした。
私は狭いテントの中、自分の足を抱え込み、耳を澄ましてその声に聞き入る。
悪魔の叫びは、冬山のテントに閉じ込められた男女五人の体温を、少しずつ削り取り始めていた。
寒さは足先からゆっくりと、白地を侵食する染料のように染み渡ってくる。そして全身が寒さに染め上がった頃、骨から全身が震えだす。
少しでも体温を上げようという本能的行動なのだが、自らの肉体が起すその震えのすさまじさに精神が恐怖を感じるほどだ。
昨日、出会ったばかりの道連れ達も、寒さに嗚咽を漏らしながら、悪魔に抗っている。
脳裏に死が過ぎった頃、初老の男の提案により、私達は互いに背中を合わせて密着させる輪を作った。一人の男を除いて。
その男は中年のツアーコンダクターで、私達をここへ連れてきた張本人。早口で喋り、ニヤニヤと笑う。
誰も彼に責任を問うようなことはしなかった。しかし、誰もが彼を無視している。
登山経験者などメンバーの中にいなく、登山を望む者もいなかった。
しかし私達はここに連れて来られた。皆、甘美な誘惑を拒めるほど余裕は無い。
互いに腕を組合い、隣に座っている若い女が、死ぬのかしらと口にした。
誰も答えられぬその問いは、なおも続く悪魔の叫びにかき消され、女の言葉は聞こえなかったものとされた。
何時間が過ぎたのか、たまに発される誰かの言葉にぼんやりと相槌を打つという会話も無くなってしまった。
寒さは体の全てを支配し、抵抗分子である震えを押さえ込んでいた。意識が揺らぐ。
「おい! 寝るな!」
初老の男が不意に鋭い声を上げた。
私は少しうな垂れた頭を瞬時に上げたが、どうやら私だけに向って発した言葉ではないらしい。
初老の男を含めた全員が、体から意識が離れていくのを必死に繋ぎとめている。
ほんの少し指先にひっかかる、形の無い気体のような意識を離してしまえば、二度と戻っては来られない。
しかし、眠りは私達が追い求めた快楽。抗えるのもあと少しなのか。
ふと、ツアーコンダクターと目が合う。無表情な男の瞳は、異常な輝きを満たし私達をじっと観察していた。
946 名前:【品評会】夜に背負う罪2/2 ◆oGkAXNvmlU 投稿日:2006/09/24(日) 23:46:55.53 ID:AldlH45E0
「この度は、わが社が贈る快眠ツアーにご参加いただき、真に有難うございます」
業界三位の実績を持つ旅行代理店が企画した、快眠ツアーというものに、私はすぐ飛びついた。
国内二泊三日のわりに多少値段は張るが、まともに眠れぬ日々を過ごし、薬に逃れていた生活を思えばためらうことは無い。
自然と眠りに落ちる感覚を思い出せます。そんなキャッチコピーも輝いて見えた。
しかし、初日の登山で吹雪に巻き込まれる。冬山に素人だけで入れば、当然の結果といえよう。
緊急用のテントがあっただけでも幸運だった。
救助は近づいているのだろうか。生の執着はもう無い。
悪魔の叫びは暖かい子守唄。大地に抱かれ、待ち望んだ眠りに身を任せよう……。言葉にしなくても皆、思いは同じのようだ。
一人、目を輝かせて四人を見つめる男を除いて。
それに気付いた私は、薄れる意識で立ち上がり、男にゆっくりと歩み寄る。
テント越しの光が、不眠の夜を越えて目に差し込む。ヘリの音と叫び声。悪魔の影はもうどこにもない。
四人の男女は、誘惑の夜を越えて朝と救助を迎えた。
ツアーコンダクターは防寒具と多数の懐炉を身につけ、救難用の発信機を持っていた。
アクシデントなど無かったのだ。万事予定通りに事は進んでいたらしい。
ただ、ツアーコンダクターはテントを出たまま、降り積もる雪の下に消えた。
それが唯一のアクシデント。
後日、旅行代理店から、そのツアーコンダクターは社員では無いという報が届いた。
男は我々に一体何を見たかったのか。今となって知る由はない。
死の淵を知り、凡庸な生を知り、罪を背負い、私達はまた眠れぬ夜を過ごす……。
了