【 不眠症の男 】
◆msw9OOSJ9Y




925 名前:不眠症の男 ◆msw9OOSJ9Y 投稿日:2006/09/24(日) 23:29:16.26 ID:kUwEBfwN0
 午後二時。
今日も一人でレジを打つ。
いらっしゃいませ。こちらあたためますか。
千円お預かりいたします。百二十二円のお返しになります。ありがとうございました。
どこまでもルーチンで怠惰でチープな文句に、答える客はいない。
皆同じような疲れた顔で同じような商品を同じようなしぐさで同じように去っていく。
ここは無個性の住む街。
ここは無価値だけがあふれた街。
――ここは、無色の街。

 午後八時。
店内を流れる定時ニュース。
前の日と変わらない事実の羅列。
政治家の汚職、交通死亡事故。
興味のないスポーツの勝敗。遠い異国の事故。
……乗客に邦人はいなかったそうです。
いなかったそうです。
誰も聞いていないニュースが、耳朶から耳朶へと抜け落ちていく。
ここは無意味だけがある街。
ここは無感情が正常な街。
――ここは、無色の街。

 午前二時。
今日も眠らずレジを打つ。
客は誰もいない。一人だけ。
それでも俺はレジに立つ。
意味などない。価値などない。
個性は当に消えうせた。
感情は既に廃れた。
それでも俺はレジに立つ。

933 名前:不眠症の男 ◆msw9OOSJ9Y 投稿日:2006/09/24(日) 23:39:59.35 ID:kUwEBfwN0
ここは無味乾燥の支配する街。
ここは無欲無我しか存在しない街。
――ここは、無色の街。

 午前八時。
朝日を見ながらレジに立つ。
眠くはない。もう何ヶ月も寝ていない。
この街は朝日にも色はない。
灰色が世界を支配する瞬間。
そのとき。
いつもそのとき。
世界が、色を取り戻す。
現れるのは一人の女性客。
この街で、個性があるのは彼女だけだ。
この街で、意味があるのは彼女だけだ。
この街で、感情があるのは彼女だけだ。
この街で、色があるのは彼女だけだ。
ああ、認めよう。俺は彼女に恋をしている。
彼女がレジの前に来る。
今日は――今日こそは。
彼女に、想いを、告げる。
――でも。
いらっしゃいませ。
――ずっと、ずっと見てました。
こちら、あたためますか。
――その服、よく、お似合いですよ。
千円お預かりいたします。
――俺は、どうしようもない奴かもしれないけれど。
百二十二円のお返しになります。
――貴女を想う気持ちだけは、誰にも負けないつもりです。

935 名前:不眠症の男 ◆msw9OOSJ9Y 投稿日:2006/09/24(日) 23:41:26.93 ID:kUwEBfwN0
……ありがとうございました。
――好きです、付き合ってください。
俺の口は。俺の喉は。俺の舌は。俺の目は。俺の顔は。
――俺の心は。
何も、何も語れない。
何も、何も語らない。
そして、悲しみもしない俺の心は。
また、意味のない明日へ向かうのだ。

永遠に。

 白い壁。白いシーツ。白いカーテン。白いベッド。
白い部屋。
無機質な空間に、ひとつだけのぬくもりがある。
だが、そのぬくもりは。
声も立てず、目も開かない。

「すでに、外科的にも内科的にも治療を必要としません」

医者の、硬質な声が響く。

「これは、非常に珍しい症例ですが……脳波はほぼ正常なのです」

無感情なのは、何も思っていないからか。
それとも、押し殺しているからなのか。

「彼は、夢でも見ているのかもしれませんね」

さして興味もなさそうな医者の声に追い出されるように、「彼女」は診察室を出た。
薄暗い廊下を通って、もうすっかり通いなれた病室に向かう。

937 名前:不眠症の男 ◆msw9OOSJ9Y 投稿日:2006/09/24(日) 23:42:24.42 ID:kUwEBfwN0
リノリウムに響く足音が、耳に痛かった。

白い病室。
ここには温かさも、優しさも、なかった。
そっと、ベットに横たわる男性の手を取った。
冷たい、白い指。
返事はない。反応もない。
彼女は両手で、ぎゅっとその手をさし抱いた。
その左手の薬指には、きらりと光る指輪があった。
――だが、それはここに横たわる彼から贈られたものではない。
彼の頬に雫がひとつ散った。
贖罪の気持ちは、彼には重すぎた。

ここは無個性の住む街。
ここは無価値だけがあふれた街。
ここは無意味だけがある街。
ここは無感情が正常な街。
ここは無味乾燥の支配する街。
ここは無欲無我しか存在しない街。
――ここは、無色の街。





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