【 春眠 】
◆mTsmZDGOUQ




920 名前:春眠 (1/3)  ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/09/24(日) 23:19:32.40 ID:xMDXFFlm0
 どうしようも無い眠気が俺を襲う今は漢文の授業であるわけだ。

「――眠い、非常に眠いぞ」
「うるさいな、少しは我慢したらどうだ」
「我慢も限界だ」

 春ってのはどうしてこうも眠たいんだろうな?
 陽春の温もりと、小鳥のさえずりが眠気を誘い、漢文教師のまったりとしてスローモーな授業が俺の睡眠欲を助長する。
 そんななか俺達二人は、教室の最後尾という最高の席で堂々と授業を無視し、二人だけの世界に埋没しているのだった。
 高校の授業がこんなに退屈な物だとは思ってなかった。中学の時はハイレベルな授業が受けられると思ってわくわくしてた。
 しかしそんな俺もついに授業に興奮することのないまま高校三年生に突入してしまった。一二年生の時にサボっていた所為で、古文漢文は赤点のオンパレードだ。
 もしこれがさ、俺の好きな数学ならいいよ? 必死に勉強するから。でもさ、漢文だぜ? 漢文。
 漢文なんか俺の人生にこれっぽっちも関係ない上に大好きな数学にも一ミクロンも絡んでない。
 生憎俺は漢文マニアでも歴史マニアでもないし、つまらない授業を我慢して聞くほどのマゾヒスとでもない。

 つまり俺は今、どうしようもなく暇なんだ。所謂、暇を持て余すって奴だ。
 俺が限界まで口を開けて大あくびをかますと、臨席で俺の相棒の弘一が俺を見詰めてきた。

「暇なのか?」
「暇っちゃ、暇だな」

 クラス全体を見回す。起きて真面目に授業を聞いている生徒は皆無だ。
 起きているのは、数学や他教科の内職に当てている生徒ばかりだ。
 唯一先生の授業に聞き入っているのは学年でも有名な漢文オタクの岡村だけだった。岡村は熱心に黒板の文字を追っていた。

 俺もゆっくりと、先生の下手くそな文字を追った。そこには、こう描かれていた。

 『春眠暁を覚えず 処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知る多少』

921 名前:春眠 (2/3)  ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/09/24(日) 23:20:46.37 ID:xMDXFFlm0
 案の定俺には意味がさっぱり分からなかった。でも鳥が啼いて、花が落ちる、ということだけは分かった。
 岡村だけが先生の授業に聞き入っている。他の生徒は皆、爆睡している。これも春の陽気の所為だろう。
 と突然、本当に突然、俺の心の中に一つの疑問が浮上した。窓の外に広がる一足早い入道雲のように、その疑問はぐんぐん広がっていく。

「なあ、弘一」
「なんだよ、俺の歴史トークが聞きたくなったのか?」

 虚空を眺めたまま、弘一は答えた。
 実は弘一、こう見えても歴史オタクなのだ。古文漢文の成績も、俺の遙か上を行っている。
 一呼吸置いて、俺はその疑問を口にした。かつて何十万人もの学生達が感じてきた疑問であるに違いない。

「なんでこんなに――学校の授業はつまらないんだ?」
「――はい?」

 弘一は怪訝な顔をして俺を見詰めた。質問の意味を理解しかねているようにも見えるし、愚問を、と蔑んでいるようにも見えた。
 涼しげな一陣の風が、俺の教科書を弄んだ。ひらひら、漢文の文字列が視界を舞う。
 ページには謎の中国人の肖像画といっしょに、意味不明な漢字群が羅列されていた。俺には誰だか知らない。

「孟浩然だよ、知らないかな?」
「知らないね。俺はお前と違って、歴史オタじゃないからな」
 ふう、と弘一は嘆息した。

「漢文の授業は、やはりつまらないか」
「正直、あまりね」

 そこまで言って、弘一は黙った。そのまま口元に微笑を浮かべ、逆に俺に問いかけてきた。

「何故、授業をつまらないと感じる? この授業のどういう箇所がつまらないんだ?」

 禅問答のような問いかけ。だが、俺はこんな弘一とのいつもの会話が大好きだった。

922 名前:春眠 (3/3)  ◆mTsmZDGOUQ 投稿日:2006/09/24(日) 23:22:00.84 ID:xMDXFFlm0
「答えづらいな。今回は問いが抽象的すぎる」
「それはお前が回答を忌避しているだけだ。少しここを使ってやれば」

 弘一はこつこつと、自分の右側頭部を人差し指でつついた。

「自ずと解は導き出される。自分なりの解だから、正解である必要性は皆無だぜ?」
「俺は眠いんだよ、どうしようもなくな。先生が悪い訳じゃない。先生は頑張っているさ。強いて言えば――」

 俺は窓の外を見る。入道雲が、何処までも続いている。夏も近い。夏休みに手が届きそうだった。
 先生は一人、訳文を読み上げる。孟浩然の眠りへの想いを顕した詩を、ただひたすら朗々と、読み上げる。

 春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞く。
 もう暁と言うには昼すぎて、啼いているのは小鳥ばかりだけれど――。

 俺がこれほどまでに眠たい理由。それは――

「今が、春だからかな?」

 もうすぐ、夏がやってくる。高校生最後の、夏が。
 来るべき卒業という名の暁のことは綺麗に忘れて、今はもう少しだけ――

――俺は春眠を貪る。うたた寝という、春眠を。弘一と、一緒に。



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