【 惰眠 】
◆Awb6SrK3w6




875 名前:惰眠 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/09/24(日) 22:41:53.79 ID:Uupmrz0O0
 あるところに、一頭の豚がおりました。
 豚は街の端にある裕福な家に生まれたため、父や祖父の築いた財産を使って、
自身は家から出ることもなく、眠って暮らしておりました。
 豚は、常々思うことがありました。
 自分はこのような立派な家に住み、何不自由なく眠っていられる。
こういう生活を送れる自分は、ひょっとしたらかなり偉いのではないのだろうか。ということです。
 そんな考えを抱いていたものですから、豚は家の外で忙しそうに働いている人々を見下しておりました。
 たまに彼の立派な家を訪れる客が来たならば、豚は姿を見せることすらせず、
家の中から声だけ出して――彼の声には威厳が備わっていました。それは彼の立派な先祖から受け継いだ唯一の才覚でした――、
「地面に頭をこすりつけたら、逢ってやらないでもない」
などと言うのでありました。
 家から一歩も出ていない彼を、豚と知る者はもちろん居ません。
 ですから人々は、
「あの立派な家に住む者は一体、誰なのだろうか」
「見たことはないが、声だけは聞いたことがある。
あのような声を出して、随分と偉そうなことを言うのだから、きっと獅子に違いない」
などと勝手に噂をして、畏れているのでありました。

 しかし、こういう状況も長くは続きませんでした。
この獅子と思われていた豚に、喧嘩をふっかける小男が現れたのです。
喧嘩の発端は実に下らない事で、豚と小男の家の間にある土地を巡って起きたものでした。
 自分を偉いと思っている豚は、喧嘩が始まったにも関わらず、眠ったままでおりました。
いざとなれば、小男は自分の偉さにひれ伏すと、思っていたからです。
 でも、話がそう上手く行くわけはありませんでした。
 豚が寝ている間に、小男はいつの間にか土地を囲い、自分の物としてしまったのです。
これでは、喧嘩は負けとしか言い様がありませんでした。

876 名前:惰眠 2/4 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/09/24(日) 22:42:24.42 ID:Uupmrz0O0
 さて、この様子をうかがっていた者たちがおりました。
彼らは前々から、街の端に立つ立派な家に目を付けていた者でした。
 彼らは最初、小男はあの立派な家の住人である獅子の持つ牙で、食い破られてしまうと考えていました。
 ですから、木の陰から小男がこそこそ動き回るのを、興味津々と、あるいは恐る恐る眺めていたのです。
 しかし、彼らが予想した惨劇は、眼前で繰り広げられることもなく、小男の丸儲けという形で事は終わってしまいました。
 こうなると、いろんな考えが浮かんできます。
「ひょっとして、あの家から物を奪っても、大丈夫ではないのだろうか」
「うむ、そうかもしれない。それよりも本当に中にいるのは獅子なのだろうか?」
「それはわからんな。だが、あの小男が無事だったのだから……もしかすると違うのかもしれない」
「では、畏れることはない。前々から、あの家は宝物があると睨んでいたのだ」
 木陰で行われる良からぬ謀議は、どんどん進んでゆきます。
そして、彼らはとうとう、あの豪奢な家に忍び込み、盗みを働くことを決めてしまいました。
 
「首尾良く忍び込めたな」
「ああ」
 夜、月が西に傾き始めようとする頃。
彼らは主の許し無く、その立派な家に足を踏み入れていました。
 家は広く、そして美しい装飾で飾られています。
あちらこちらに見かけられる芸術品は、売ればどれくらいの値がつくのか、皆目検討もつきません。
 数々の財宝を前にして、盗人たちは思わず息を呑んでいました。
もちろん、息を呑んだ後は、片っ端から手を付けていきます。
「さあ、次はあちらの部屋だ」
 予想以上の大戦果に満足しつつ、盗人たちは意気揚々と家主の寝室へと入りました。

877 名前:惰眠 3/4 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/09/24(日) 22:43:05.05 ID:Uupmrz0O0
 部屋へ入った彼らが見たのは、華美で精密な意匠を施してある牀に、ぐっすりと眠り込む太った豚でした。
「これは……実に旨そうな豚だ」
 舌なめずりをして盗人熊が言いました。
「確かに。ひょっとして、私たちはこの豚を、獅子と思いこんでいたのだろうか?」
 隣で涎を垂らして、金髪の盗人が呟きました。
「そんなことはどうでも良いさ。私はこの腹の部分が食べたいね」
 そういい、シルクハットを被った盗人が豚の膨らんだ腹を撫でました。
その時です。豚が飛び起きたのは。
「いったい、何をしてるんだ!」
 不快感を覚えた豚は、偉そうな声で叫びました。
「ん?起きたぞ」
「事が面倒にならぬうちに、さっさと食べてしまうことにしよう」
「では、まずはその首を切り落とそうか」
 不穏当な事を言う盗人共を、彼らが抜いた剣の白光を豚は見ました。
「何をする! 何をするつもりだ!」
 豚は悲鳴を上げました。ですが、こうなっては、もうどうしようもありません。哀れ、眠ってばかりいた豚は、盗人たちの口に収まることになってしまいました。

 1905年も終わりに近づいた頃の事である。
 中国同盟会の東京本部の狭い一室で、私と孫中山先生は二人きりになっていた。
 次回発行分の民報に、自分の書いた原稿を載せて欲しいと懇願するためである。
先生直々に、自分の祖国への深い思いを見てもらおう。その一心で書いたこの話に、私は少々自身を抱いていた。
 だが。
「これを、民報に載せたいと?」
 一通り読み終えた後、深く先生は溜め息をついた。
私の書いた原稿をじっと眺めながら、深く椅子にもたれかける。
 その様子を見て、私は思わず首を俯かせる。考えれば、無理もないことではあった。
 そもそも民報は、三民主義の宣伝を目的とする中国同盟会の機関誌であったから、
このような皮肉に満ちた童話調の話を載せるというのは少し方向性の違う事であった。
 また、自分の祖国を豚と例えられて、しかも無惨な最期を遂げる話など、誰が気をよくして読むだろうか。
 だから、先生の表情はごく当たり前のことだった。

878 名前:惰眠 4/4 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/09/24(日) 22:43:36.36 ID:Uupmrz0O0
「随分、手厳しい話だね」
 原稿が机の上にポンと置かれる。
「それに、いまいち君はこういう物を書き慣れていないようだ」
 私の文の拙さもあっさり指摘される。
もう少し、考えて持ち込むのだったという後悔が、堰を切って流れ出していた。
「だが、君の言いたいところはよく分かる」
 その言葉を聞いて、項垂れていた首を私は上げる。先生が立ち上がっていた。
「義和団の乱以来、この話と似たような状況があるのも、否定しがたい事実だ」
 私に背を向け、先生は椅子の後ろにある窓の前に立つ。
「眠れる獅子、か」
 窓の外を見つめながら、先生は呟いた。
祖国から遠く離れた東京の空には、既に星霜が煌めいている。
窓には白い結露がこびりついており、外の寒さがそれからもよく分かった。
「私たちは、自分たちが獅子でないことに気づくのに、随分と時間を掛けすぎた」
先生はその結露に線を引いた。
「惰眠を貪りすぎていたのだ」
「ですが、目覚めました。我々、中国同盟会の者たちは」
 咄嗟に私は、先生の慨嘆に口を挟んでいた。
それは、私の抑えきれぬ感情の発露であり、革命への決意の告白だった。
 くるりとこちらを向いて先生は私を見た。四角いその顔の上に乗る、平たい唇が弛んでいた。
「すまないが、これを載せることはできない。だが、君の意志は受け取っておこう」
「有り難うございます」
 結局、私の文は認められなかった。だが、私の憂国の情は、確かに先生に伝わったようだった。

 外に出る。東京の冬の夜風は、故郷のそれよりも鋭く肌を刺してきた。
眠りを覚ますには、丁度良い。そう思い、私は下宿への帰路についた。





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