【 夢の支配者 】
◆ddhKGEW.t2




867 名前:夢の支配者1/3 ◆ddhKGEW.t2 投稿日:2006/09/24(日) 22:31:06.58 ID:HBWuAmZJ0
どこまでも続く暗闇を私は走り続けていた。あの男から逃れるために。
どれだけ走っても風景に変化はない。漆黒の暗闇が世界を支配している。何も見えない。ただ、背後から迫り来る重厚な足音だけが響いている。ヤツはすぐそこまで迫っている。私を殺すために。
目に汗が入り、視界が霞む。私は額を拭い、足をもつれさせながらも走り続けた。生き残るために。

どれだけ走り続けただろうか。私の体はもはや限界に近づいていた。喉の奥から鉄のような味が登ってくる。息が苦しい、心臓が破裂しそうだ。足も、手も、千切れそうに痛む。
もう走れない。私が諦めかけた瞬間、眼前にかすかな光明が差し込んだ。それはやがてまばゆいばかりの明るさを得、残像を残しながらゆっくりと円を形成する。
出口だ。私は確信した。よろめきながらも、それに向かって走る。
あと十メートル。五メートル。三……二……一……。
これで解放される。私は今までに感じたことの無いほどの安堵と歓喜に包まれながら、光の中に飛び込んだ。……飛び込もうとした。
私の腹にぽっかりと穴が開いた。その穴から巨大な漆黒の腕が除いている。それが乱暴に引き抜かれると同時に、私は倒れた。
光がだんだんと弱くなっていく。出口が、出口が消えてしまう。あと一歩足を踏み出せば届くというのに。私は這いつくばったまま、渾身の力で前に進もうとした。だが、体が動かない。
巨大な拳が私の頭を掴み、私は中空に持ち上げられた。体を反転させられ、私は男と向かい合う。背後から注ぐ、弱弱しい光に映し出されたその顔が、にやりと笑った。
「助けて……」
私の声は闇に溶けて言った。全てが闇に包まれたその刹那、私の命は握りつぶされた。


叫びと共に私はソファーから飛び起きた。あたりを見回すと、そこは夕日の差し込む静かなリビング。いつも通りの私の家。どこからか子供たちの笑い声が聞こえてくる。
壁にかかった時計を見上げる。午後四時。いつの間に眠ってしまったんだろう……。
私は洗面台に向かい、冷水で顔を洗った。正面に設置された鏡を眺める。そこには頬がこけ、目の下にクマを作った女が映っていた。私は溜息をついた。
あの夢を見始めてからもう一週間にもなる。暗闇の中で私を抹殺すべく追いかけてくる男。思い出すだけでも恐ろしい。あの夢は一体、なんなのだろうか……。

868 名前:夢の支配者2/3 ◆ddhKGEW.t2 投稿日:2006/09/24(日) 22:31:48.99 ID:HBWuAmZJ0
チャイムが響いた。誰だろう。
玄関のドアを開けると、そこには上等なスーツに身を包んだ小柄な男が立っていた。足元には男の体型に合わないほど大きな掃除機が置かれており、そこから伸びたホースは男の右手に握られている。明らかに怪しい。
「こんにちは」
男は妙に甲高い声で言った。ますます怪しい。
「……どなたですか?」
「失礼、私こういう者です」
男の差し出した名刺には「上質な睡眠をお約束いたします。ドリームクリーナー夢野 司」と書かれていた。その横には電話番号が記されている。
「セールスなら間に合ってますので」
私はそう言ってドアを閉めようとした。
「お待ちください。あなた、今、悪夢に苛まされていますね?」
私の動きが一瞬とまる。それを確認すると、夢野は語り始めた。
「あなたは今、悪夢に苛まれている。そして、そのせいで精神・肉体的に疲労している。その原因はあなたに悪魔が取り付いているからなのです。このままでは、あなた、病んでしまわれますよ」
「……何が言いたいんですか?」
「悪魔を祓いたくはありませんか? 私はそれを生業にしております。一回十万円であなたの安らかな睡眠を取り戻してあげましょう」
この男は何を言っているんだろう。悪魔? 頭が少しばかりどうかしてるとしか思えない。しかも一回十万円? 馬鹿にしてる。私は業腹になってきた。
「結構です。お帰りください」
「そうですか。それは残念です。もし、気が変わりましたらいつでもお電話ください。では」
夢野が言い終わるが早いか、私はドアを閉めた。


それからさらに一週間、私はあの悪夢に苦しめられ続けた。
目を瞑ると黒衣の男が闇に浮かぶ。夜を迎えるたびに、暗闇にあの男が潜んでいるような錯覚に陥る。
体重が急激に落ち、全身を耐え難い倦怠感が包んでいる。眠るのが怖い。夢に落ちるたびに、私は殺される。
いやだ。休息を得たい。ゆっくりと眠りたい。この悪夢から逃れたい。
そんな時、一枚の名刺が目に付いた。私は藁にもすがる思いで、電話のボタンを叩いた。

869 名前:夢の支配者3/3 ◆ddhKGEW.t2 投稿日:2006/09/24(日) 22:32:52.89 ID:HBWuAmZJ0
「では今からお祓いをさせていただきます」
 夢野はそういうと、なにやらブツブツと不明瞭な呟きを発しだした。日本語ではない。
 やがて、夢野の手に握られた掃除機が青白く発光し始める。それと同時に、リビングの隅に黒い塊がゆっくりと形作られ、やがてそれは巨大な人型を成し始める。あの男だ。私を苦しめる、あの男だ。
 死の恐怖が蘇る。私はヒィッと情けない声をあげ、夢野の後ろに隠れた。
「あー、これはなかなか強力な悪魔ですねぇ」
 夢野はのんきにそういうと、掃除機のスイッチを入れ、吸引口をあの男の方に向けた。凄まじい吸引音と共に、あの男の居た空間が捩れ――私にはそうとしか表現できない――掃除機に吸い込まれた。
「はい、終わりました。これでもうあなたがあの悪魔に苦しめられる事はありません」
「え……? もう終わったんですか?」
「ええ。では、私はこれで。お金は明日、あなたがゆっくり眠れる事を確認されてから、頂きに参ります」
 そう言って、夢野は私の家から出て行った。

 それ以来、私は悪夢に苦しめられることも無く、毎日を平穏に過ごしている。
 恐怖に怯えることなく安眠できる。たったこれだけの事がこれほどありがたいなんて。
 それに比べれば十万円くらい安いものだ……。私はそう思いながら、眠りについた。


 草木も眠る丑三つ時。閑静な住宅街の一角に小柄な男が佇んでいた。
「さて、次のターゲットはこちらのお宅にしましょうかね」
 男はそういうと掃除機の背面部についてある蓋を開け、真っ黒な紙パックを取り出した。紙パックから黒い煙のようなものが立ち上り、やがてそれは巨大な人の形へと姿を変えた。
「では、頼みますよ」
 夢野の命に従い、黒い人影は一軒家を包み込んだ。
「今度のお客は、一体、何日持ちますかねぇ……」
 そういうと男は掃除機を胸に抱え、一人、闇の中へと消えていった。

 完



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