【 ガラスの向こう 】
◆2LnoVeLzqY




857 名前:ガラスの向こう ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/09/24(日) 22:16:34.51 ID:kt0ElzXY0
さっきまで目の前にいたはずのイルカは、気付けば手の届かない高さを泳いでいた。
この水族館の誇る大水槽。
壁一面のガラスの向こうは、もう海の中なのだ。
奥行きなんか、横幅なんか、高さなんか、きっと存在していないのだ。
顔をガラスぎりぎりに近づけて、じっと中を見る。
すると自分が海の中に浮いているのか、床に立っているのか、わからなくなる。
気を抜けば沈んでいくような、けれど、なぜか安心できる。
そんな不確かな感覚のまま、いつまでもいたい。
「ユウスケー、先にあっち行ってるよー」
けれどそんな感覚も、ユイの一声でふっと消えるのだ。

水族館から出た僕たちを迎えたのは、無機質なビル群だった。
目の前の道路の交通量も、それ相応にある。
都心にもこんな大きな水族館が建つ時代になったのか、と僕は半ば呆れる。
頬を撫でる風が冷たいのは、気温のせいだけじゃないだろう。
ならば少しの間だけ、このままユイと手を繋いで歩いていたかった。

ふと、ユイがするりと手をほどいた。交差点に差し掛かったときだった。
歩行者信号の青は点滅している。
たたたっ、と彼女は横断歩道を途中まで渡っていく。
「ねえ、早くー」とそこから僕を呼ぶ。
全く、せっかちだ。僕は一歩を踏み出そうとして――

曲がってきた車が、
急ブレーキが、
鈍い音が、
そしてユイが――

不確かな感覚。さっき感じたのとは、全く別の感覚。
けれどそれを消し去ったのは、ユイの声ではなく救急車のサイレンだった。

858 名前:ガラスの向こう 2/4 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/09/24(日) 22:18:54.90 ID:kt0ElzXY0
それからのことは、よく覚えていない。
警察署で、その時のことをしつこく聞かれた気がする。
水族館の帰りだったこと。信号は点滅していたが、青だったこと。
担当の刑事が、ひき逃げ――そう、ひき逃げなのだ――の犯人は、目撃者の証言から女だろうということは教えてくれた。
ただ肝心の車のナンバーは、誰も覚えていなかったらしい。
だから、犯人は捕まっていない。僕はぼんやりと、それを聞いていた。

真っ白な病室が、目に染みた。
唐突に涙が溢れてきた理由は、きっとそうだ。
決して、人工呼吸器を付けたユイを目の当たりにしたからじゃないのだ。
そう思わないと、今すぐここから逃げ出してしまいそうだった。
事故から二日が経っていた。ようやく、面会が許されたのに。
遷延性意識障害。
たった七つの漢字で、ユイは表現されていた。
動けないし、話せない。
こちらのことが、わからない。
いわゆる植物状態です、と瀬川という医師からさっき説明を受けた。
しゅー、しゅー、とくぐもった呼吸音が部屋に響く。
「なぁ、ユイ」
声をかけてみても、返事は来ない。
もしかしたら、いやきっと、もう二度と返事は来ないのだろう。
ユイの手を握る。
確かなぬくもりが、そこにはあった。
それはきっと、最後に彼女と手を繋いだ時と同じぬくもりなのだろう。
ふいに背後で、かつんかつんと足音がする。看護婦が来たのだ。
そういえば、かれこれどのくらいの間、僕はここにいたんだろう。
笹月という若い看護婦は、ユイの寝相を変え、体の汗を拭き、粗相を始末する。
あくまでも淡々と。まるで機械作業のように。
一連の動作を終えたその看護婦に、「ご苦労様です」と声を掛ける。
看護婦は僕に微笑を返し、早足に部屋を出て行った。

859 名前:ガラスの向こう 3/4 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/09/24(日) 22:20:13.47 ID:kt0ElzXY0

「……ねえ、ユウスケ」
目の前に、ユイがいた。
返事をしようとして――声が出ないことに気付く。
これは、きっと夢なのかな。自覚できてるってことは、夢じゃないのかも。
でも彼女は……いや、夢でも現実でも、どっちでもいい。
こうして彼女と会えたのだから、それでいい。
「ユウスケ、怒ってたり、してない?」
――どうして、僕が怒るの?
「だって、私が先に、こんなふうになって」
突然、目に涙が浮かんできた。
ぼやけた視界に映る彼女の姿は、近いようで、とても遠い。
まるで、水槽のガラスの向こうにいるみたいに。
「……ごめんね」
「……僕の方こそ」
そう言うと、ユイは俯いた。
少しの沈黙。それから彼女が、口を開く。
「……もうひとり、謝ってほしい人がいるの」
――それは、ユイを、轢いた人?
彼女は小さく頷き、そして、
「           」
その名前を言う。
自室のベッドの上で、僕は目を開けた。

高校の帰り道に、病院に寄った。
からり、と病室のドアを横に開く。
ここの白さは、昨日と同じ。そうしてユイも、昨日と同じ。
ベッドの横で立ち膝をして、顔を覗き込む。
そのままじっと、彼女の顔を見つづける。
そしていつの間にか、眠りに落ちる。

860 名前:ガラスの向こう 4/4 ◆2LnoVeLzqY 投稿日:2006/09/24(日) 22:21:56.38 ID:kt0ElzXY0
「……また会えた、ね」
手を伸ばせば届きそうな距離に、ユイがいる。
でもそれは、決して触れることのできない距離。
――これからも、会えるのかな?
「わからない。でも、あたしは、」
――僕も、
こうして会えるだけで、とても、嬉しい。
――謝ってもらうのは、復讐のため?
「違うよ。恨んでるわけじゃないの。でも」
――でも?
「反省してほしいから。自分のしたことから、逃げないでほしい」
ユイも、僕も、この現実からは、逃れられないから。
それはきっとただのエゴなのだ。
だけど僕も今は、同じ気持ちだった。
「たった一言、謝ってもらいたいの」
ごめんなさい、と。あの人に。
車が向かってきて、事故に遭うまさにその時。
彼女がフロントガラスの向こうに見た人に。

眠い目をこすり、むくりと体を起こす。
昨日と変わらぬ時間。いつまでも変わらぬ彼女がそこにいる。
背後からは、昨日と変わらぬ足音が響く。
これはただのエゴだ。そんなのは、わかってるから。
――逃げないでほしい。
それが、僕と彼女の出した結論なのだ。
足音が、部屋の中に入ってくる。
僕は立ち上がり、音の方を向く。

「……ユイに、謝って下さい」
看護婦の笹月に、静かに僕は言う。



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