【 sleeping cat 】
◆cdhiMnE6fI




803 名前:sleeping cat(1/4) ◆cdhiMnE6fI 投稿日:2006/09/24(日) 20:43:14.25 ID:xL6DUkjr0
「シュレディンガーの猫、って知ってる?」
 唐突に彼は言い出した。
「……知らない。何よそれ、知ったことをすぐに話す小学生みたい」
「小学生、は酷いな。まぁその通りなんだけど……」
 その表現は彼にとっては少しショックだったらしい。
「で、何なのよ?シュワチャンガーの猫って」
「シュレディンガーだって。
  昔、猫で動物実験をした人がいたんだ。その人はね、猫を箱の中に閉じ込めたんだ」
「酷い人ね」
 猫が好きな私としては、あまり気分の良い話ではない。
「科学でも医療でも、動物実験は必要だよ。
  猫を入れたとき、一緒にラジウムと粒子検出装置を箱に入れるんだ。
  ……装置は、検出すると青酸ガスが出るようになってる」
「よくわからないけど……それをすると、猫は死んでしまうの?」
 私は尋ねた。ラジウムが粒子を放出し、探知した装置が出す毒ガスで死ぬ――と言うことだろうか?
「わからない」
「わからない?」
 同じ言葉で返した。
「そう。箱の中の猫は死んでいるかわからない。ラジウムがいつ粒子を放出するかはわからない。
  もしかしたら、入れた瞬間から猫は死んでいたのかもしれない。
  もしかしたら、箱を開けた瞬間、観測の瞬間に死んだのかもしれない。
  ……開けたら死んでるって、結論は出るんだけどね」
「ああ、その説明だと分かりやすい」
 私は理解した。箱の中の猫は、『生きている猫』と『死んでいる猫』が平行して存在しているのだ。
 観測出来ないから生と死の狭間、という答えが出てくる。
「ふうん。なるほど。興味深い話だわ。でもそれがどうかしたの?」
「キミは、猫は箱の中でどうなっていると思う?」
 その問いかけに、私は想像する。真っ暗な箱の中。猫は――
「寝てるんじゃ、ないかな?」

804 名前:sleeping cat(2/4) ◆cdhiMnE6fI 投稿日:2006/09/24(日) 20:44:08.24 ID:xL6DUkjr0
 寝ている猫の話をしたのは、付き合い初めて半年という頃だったろうか。
 あの頃はお互い幼かった。楽しい話題を見つけては話し、語り、夜を明かした。
 そして僕らは歳を取った。交際歴で言えば、もう五年目だ。
 一週間後、僕らは結婚する。長く付き合ったおかげで障害もなく、準備は着々と進んでいた。
 それでも結婚前は何かと慌しい。僕は、新しい住まいを探すべく駆け回っていた。
「……ん?」
 足が重い。疲れたことの比喩ではない。僕は足元を見た。
 黒猫がすりついて来ていた。こちらを見上げみぃ、と鳴いた。
 毛並みがよく整っており、また野良猫特有の過剰な肥満や虚弱な猫でもない。
 ペットショップに持ち込めば、なかなかの額になるはずだ。
「……そこまで金に困ってないぞ、僕は」
 独り言を言い、猫を抱き上げる。そして頭から背にかけて撫でる。
「ん。ホントに触り心地いいな、おまえ」
 時間さえあればこの猫が禿げるほどに撫でていたい。
 今はないが、結婚した後なら……
「そうだな。彼女に相談してみよう」
 彼女もこの毛並みにかかればイチコロだぜ。それに、彼女も猫が好きだって言ってた気がする。
 そう思い、僕と彼女と猫のいる家庭を想像しながら、今の同居先へ向かった。

805 名前:sleeping cat(3/4) ◆cdhiMnE6fI 投稿日:2006/09/24(日) 20:44:55.47 ID:xL6DUkjr0
 家に着いた。彼女が断るとは思えないが、念のため色々と考えておく。
 そして一呼吸を置き、鍵を開け、ドアを開けた。
 彼女が、倒れていた。

「大丈夫かっ!」
 僕は叫ぶ。猫はその声に驚いて僕の腕から逃げ出すが、僕は意にも介さない。
 彼女に近づき、体を揺する。揺れた体は、完全に力を失っていた。
 死んでいない。だがこのままではまずい。
 僕は困惑する。何をすべきか、彼女を助けるには、どうすれば――
 にゃあ、と。
 突然黒猫が鳴いた。僕は振り向く。猫の向こうに電話機があった。
「そうだ、病院……!」
 僕は震える手で、急いで三つの数字をダイヤルした。
 僕は急ぎ住所と状態を伝え、ただ救急車が来るのを待つ。
 その間、僕はずっと考えていた。もし、彼女がこのまま昏睡し続けたら。
 この愛おしい黒猫を、見せられない。
 僕らの愛おしい子供を産むことも出来ない。
 君と、話すことが出来ない。
「頼むから……目覚めて、くれ」
 僕は彼女の手を、サイレンの音が聞こえるまで握り続けた。

806 名前:sleeping cat(4/4) ◆cdhiMnE6fI 投稿日:2006/09/24(日) 20:45:31.00 ID:xL6DUkjr0
 僕は墓前で線香を炊き、合掌する。
 今日で一回忌だ。
 彼女と話したシュレディンガーの猫を思い出す。
 箱の中の猫は眠り続け、やがて死んでしまう。
 だが、箱の中の猫は生きながら死んでいる状態だ。
 開ければ死んだ事実が観測出来る。開けなければ分からない。
 猫の命を救うには、どうすれば良いのか? 幾度となく考えた。
 そして僕はあのとき、一つの答えを見つけた。

 僕は救急車を待っていた。彼女に言えなかったことを伝える。
「あのシュレディンガーの猫の話……俺も寝てると思ってた。
 同じ答えだったから、僕は嬉しかった。でも違う。実際は眠らず、猫は苦しんでるだけだ」
 眠った猫だけが知っている、生か死の答え。
「眠っているキミは、あの猫じゃない。死なないでくれ」
 僕は彼女に、無茶苦茶な理論を押し付けた。

 色々と思い出してしまった。今日は眠くなるような陽気だ。
 僕は顔を上げ、空を見上げた。
「――行こうか」
「ええ、あなた」
 僕は幾分歳を取った妻を連れ、黒猫が眠る動物霊園を後にした。

おしまい。



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