【 懐かしき響き 】
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693 名前:懐かしき響き ◆pt5fOvhgnM 投稿日:2006/09/24(日) 15:26:14.34 ID:XBolxP/70
 もう何年、眠っていないのだろう。思い出すのすら馬鹿らしい。
 私は霧に満ちた海の上で小船を漕いでいた。この近辺の街を統治する領主に依頼された仕事をこなす為に。
 黙々と船を漕いでいると小さな声が耳に届いて来た。オールを漕ぐ手に力が入り、腰にさげた剣に目が行く。
 胸に湧き上がるのは今度こそは、という期待と今度も、という諦念。
 声のする方には海面から大きく突き出した岩山。その頂上に腰掛て歌うのは人の体と魚の体を持つ女――マーメイド。
 私はどんどんと船を進める。進める程に強くなっていく諦念、消えていく期待。
 眠りへと誘うマーメイドの歌声も、私には通用しないようだ。
 岩山に触れるすれすれで私は船を止め、オールを引き上げボートの中に転がす。
 改めてマーメイドを見る。心の奥底まで見透かされそうな澄んだ蒼――美しい海の色をした髪と瞳、そして鱗。妖精らしい端正な顔立ち。
 その顔は今、不思議そうな表情を浮かべていた。
「私の歌声を聴いているというのに何故、貴方は眠らないのでしょうか? 私は不思議でなりません」
 絵画の中の貴婦人が出すような穏やかで気品のある声だった。この声を聞いただけで彼女の虜になる男も数多いるだろう。
 左手の掌をマーメイドに突きつける。掌に浮かんでいるのは蝙蝠と猫を足したような生き物が描かれた紋様。
「あらまあ、呪われていらっしゃるのね」砂粒ほども驚きも感じられない声だった。
「眠りを奪われた。王都の最高司祭にすら解呪出来なかったよ。どうやら、解呪は不可能なようだよ」唇を吊り上げ皮肉に笑う。
「それで随分と眠たそうにされているのですね」先程より余程多くの驚きがこめられていた。
 私は思わず笑ってしまいそうになった。眠らないのではなく眠れない私に対して随分な台詞だが、そう言われても仕方が無い。
 私の眼球は充血が酷く既に白い部分が残っていない。目の下の隈に至っては質の悪い墨で描いたようなどす黒さだ。
 彼女と私を並べてみたら私の方が余程邪悪に見える。
「ですが、呪いならば術者に解いて貰えば良いではありませんか。葛藤もおありでしょうけど頭を下げれば大概の問題は片付きますわ」
 今度は耐え切れず阿呆のように声を上げて笑ってしまった。きょとんとした目でマーメイドが見ている。
「私を呪った魔女なら死んだよ。病でな、俺が探し出したときには死に掛けだ」げらげらと笑い声交じりにまくし立てる。
「『赤子にでも戻れたら眠れるだろうな』なんて下らん嫌味を言いながら死んでいったよ。馬鹿みたいじゃないか」
 口元に手を当てたマーメイドは綺麗な弧を描く眉を潜めて悲しげに言う。
「それはお辛いでしょう。私が解いて上げられれば良いのですが――」
 私は乱暴に左手を振って彼女の台詞を遮る。笑いは未だに収まらない。
「私は私を眠らせる事の出来る強い呪いを探している。呪いには呪い、という事だな」
 でも、と私は一度言葉を切り、続ける。
「君の歌で私は眠らなかった。つまり、君の歌の歌は私にとって必要なものではないという事だ」
 そうだろ、と私は目で問いかける。マーメイドがそうですわね、と頷く。

694 名前:懐かしき響き ◆pt5fOvhgnM 投稿日:2006/09/24(日) 15:26:58.13 ID:XBolxP/70
 私の笑いは止まらない、止める気も無い。軽く肩をすくめ、剣を抜く。
「だから、私はまた旅に出る、そのために必要な路銀を君を殺して調達するとしよう」
「酷いお話ですわ。私はただここで歌っていただけですのに」
 私は鼻を鳴らして言う。
「そのせいで船が通れなくなってしまって困っている、だそうだ。私にはどうでも良い話さ、君の命と同じぐらいどうでも良い話だ」
 難しい問題ですわね、と彼女は呟き、同時に指を鳴らした。
――跳ね上がる水飛沫、写る影、鋭い牙と巨大なひれ、暴力的なまでに巨大な体躯――鮫。
 その鮫は宙を泳いでいた、まるで水の中と同じように。
 どんな魔法か、マーメイドは鮫を手懐けた上に妙な力を与えたようだ。
 鮫は彼女の周囲をゆっくりと回りながらも私から視線を逸らさず、隙が無い。実に優秀な番犬だ。
 私は岩山に脚をかけ登り始める。
 鮫は私の歩みを見て、動きを止め正面から私を見据える。
 私が船に戻れないほど遠く、かといって彼女に斬りかかれる程に近くは無い距離。
 弾かれたように彼女の元を離れ、牙をむき踊りかかる鮫。
 私は嘲笑う、彼女の浅墓さを。この程度の化け物で私を退けられると思っている愚かさを。
 荒れ狂う濁流の如き鮫の一撃――
――私は跳んだ、上より来る鮫のそのまた上を。
 鮫の目には私が消えたように見えた事だろう。もし人間並みの表情を浮かべる事が出来たならば驚愕の表情を浮かべてくれたに違いない。
 剣を逆手に持ち替え、鮫の頭頂部へ落下の勢いのままに突き刺す。
 鈍い手ごたえ、肉を抉る刃、暴れ馬など比ではない勢いで鮫がもがく。力を込め刃を口の方へ動かす。顔面が裂け声にならぬ声で叫ぶ鮫。
「惨めなもんだな」げらげら笑いながら告げ、私は再び跳んだ。
 血を流しながら明後日の方向へと鮫は転がっていく。大きな飛沫を上げて海に落ち、二度と浮かび上がっては来なかった。
 悠々と人魚の前へと歩む。
 最後の抵抗のつもりか彼女はは歌い始めた。伸びやかな旋律に澄んだ声、私が覚えるのは苛立ち。
 私が目の前に立つと彼女は歌を止め、悲しそうに私を見上げる。
「無駄だマーメイド」
「ただの鎮魂歌ですわ。私を護っていてくれた彼への」
「実に下らん」私は鼻で笑い剣を突きつける。「ここで殺されるか、街で殺されるか、選べ」
「下らない、ですか」
 彼女はそっと私の頬を撫でた。

695 名前:懐かしき響き ◆pt5fOvhgnM 投稿日:2006/09/24(日) 15:28:14.77 ID:XBolxP/70
「哀れな人」
 哀れみと慈愛に満ちた眼差しが私を苛む。
 全身の血が逆流したかと思うほどの怒りがこみ上げ、反射的に彼女を殺そうと剣を振り上げ――怒りが、冷める。
 急に自分が酷く醜悪な生き物になってしまったような気分だった。
 剣を持つ手から力が抜け、剣は乾いた音を立てて転がっていく。海に落ちる音がした。
「街までお付き合いいたしますわ」
 彼女が両腕を私の方へと伸ばす。身を落とし彼女のを抱き上げた。首に回される手。彼女の眼差しがすぐ傍らに。私は目を逸らした。

 船を漕ぎ、陸地へと戻る。砂浜につくと、彼女が下ろすように言ってきたので砂浜にそっと置く。
 彼女が何事か呟くとみるみるうちに彼女の下半身が人間のそれと同じものになる。
 立ち上がった彼女を私はしげしげと眺める。人間の女と違う部分など欠片ほどもありはしない。私はすっかり感心していた。
 彼女は恥ずかしげに身をよじり、言う。
「……あの、服を貸して頂けませんか」蚊の鳴くような声で彼女は言った。
「……失礼」私は肩をすくめて背を向けると荷物の中からマントと予備の靴、着替えの類を取り出し彼女に渡した。
 着替えが終わるのを待ち、私達は歩き出した。
 道中、彼女は逃げようとしなかった。ずっと、下を向いて何事か考えているようだった。
 私達は黙って、歩く。
 
 やがて日が暮れ、野営をする事にした。夜道を歩くのは流石に危険である事に加えて、彼女には睡眠が必要だ、私とは違って。
 焚き火を起こし持っていた保存食を適当に調理する。干した肉を湯で戻し、パンに挟み簡単に調味料で味を調える。
 食べるか? と私は聞いた。彼女が頷いたのでパンを渡した。ちびちびとリスのように彼女はパンを食べていく。私もまたパンを口に運ぶ。
 不意に彼女が口を開く。
「お強いのですね」
「眠れないからな、時間だけはあった。それに、強くならなければならなかった」
「魔女を斬る為に?」彼女が問い。
「魔女を斬る為に」私が答えた。
 彼女はまた、私をあの目で見た。哀れみの、眼差し。
 私はまた、目を逸らした。苛立ちと怒りと、惨めさとが混ざり私の胸を焼く。
「私ずっと考えていたのです、貴方が眠れる方法を」彼女が、言った。

696 名前:懐かしき響き ◆pt5fOvhgnM 投稿日:2006/09/24(日) 15:28:53.80 ID:XBolxP/70
「私ずっと考えていたのです、貴方が眠れる方法を」彼女が、言った。
 私は驚き、彼女を見る。彼女の眼差しは変わらず優しく私の心を見透かしているようだった。彼女は立ち上がり、私のすぐ横に腰を下ろした。
「膝の上に寝てくださいますか」
 彼女の顔から、膝の上へ視線が進む。彼女が何を考えているのかはさっぱり分からない。
 どうぞ、と彼女が促す。私はおずおずと彼女の膝の上に頭を預け、私は目を閉じる。
 マーメイドが歌う。子守唄を歌う。力の篭らぬ、ただの歌を。
 静かに、美しく、そして――どこか、懐かしい響きで。
 柔らかな膝の感触、撫でられる頬の温かさ、聞こえる、血流の音。
 思い出す、古い古い記憶。
 それは――
「……母さん?」
 意識に靄がかかる。段々、段々、思考が止まっていく。
 朧に聞こえる、歌声。
 私は知る――魔女が最期に残した言葉の意味を。
「お眠りなさい。眠りを奪われ、争い、傷付き、疲れ、倒れ、苛立ち、荒んだ、迷い子よ――私の腕の中で赤子のように、安らかに」
 もっと、彼女の歌を聞いていたいな、と思いながら、私は意識を手放した。

 目覚めると、彼女の姿は無く、一枚の置手紙だけが残されていた。
――考えたのですが、やはり死ぬのは嫌ですので逃げさせていただきます。東の海に住む知人の所へ向かうつもりです――
 手紙を持つ手が震える。
――追伸、道中何かと入用かと思いますので財布をお借りします――
「やってくれたな、あの性悪人魚め!」
 怒りに任せて手紙を粉々に引き裂き放り投げる。
 荷物を確かめると財布どころか着替えの大半、保存食のほぼ全ても無くなっていた。
 やれやれ、と額に手を当てこれからの事を考える。
 領主の所へ行き、何とか言い訳して路銀を調達して荷物を揃え――違う。
――私は、彼女の歌を聞きたい。
「性悪人魚め。魅了の呪いだけは一人前か」
 そっと呟く。何故だか分からないが、私の心は酷く穏やかで、顔には笑顔があった。
 私は東へと歩き出す。



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