【 起こさないで 】
◆8vvmZ1F6dQ




451 名前:起こさないで ◆8vvmZ1F6dQ 投稿日:2006/09/23(土) 21:41:48.26 ID:mNiTvuwD0
酒を飲んだ。久しぶりの酒だった。
アルコールに弱いと公言している私は、これまで祝いの席ぐらいでしか酒を飲んでいなかった。
それが急に飲みたくなって居酒屋に転がりこんだのは、現代人によくある病気のせいだろう。
黙々と水割りバーボンを口に運んだ。やはりよく飲む人間よりアルコールの周りが速い。
頭の中が、嵐の日の船のようにぐらぐらと揺れた。私は目を閉じその場に伏せた。
気がつけば私が居たのは、星空の下のゴミ捨て場だった。
生臭い匂いがツンと鼻をつく。ふいに右を向くと、見覚えのある男が私を覗き込んでいた。
「先輩、起きてください」
そうだ、こいつは会社の後輩の木田だ。まだ木田は私が寝ぼけていると思っているらしい。
今私が起きたのは、十中八九こいつのおかげだろう。私はその心配そうな顔に憎しみを覚えた。
「なんで起こした」
私がそういうと、木田は一瞬怪訝な顔を浮かべた。私の声のトーンが随分と低かったせいだろう。
「早く帰ったと思った先輩が、こんなところで寝てたら誰でも起こしますよ。さあ、家まで送りましょう」
そういうと木田は私の腕を引っ張って無理に自分の肩に掛けようとした。私はそれを振り払う。
「家には誰もいないよ」
そう、今家には誰もいないのだ。私が真っ直ぐ家に帰らなかった理由の一つである。
それを聞いた木田は困った表情をした。
「しかたないですよ。奥さんは今入院中なんでしょう」
「ああ。だから俺はここで寝る」
私はごろりとその場に寝転がった。木田の大きな溜め息が聞こえてきた。
「こんなところで眠ってどうするんですか」
「寝て、夢の続きを見る」

452 名前:起こさないで ◆8vvmZ1F6dQ 投稿日:2006/09/23(土) 21:42:53.07 ID:mNiTvuwD0

木田に起こされるまでの間、私はこんな夢を見ていた。
私と眞理が、学校の帰り道を一緒に歩いていた時のことだ。
二人は夏休みの計画を話し合っていた。二人とも夏の装いだった。
私が何か言うたび、けらけらと眞理が笑い声をあげた。その顔には夕陽が差していた。
しばらくして、急にぽつぽつと雨が降り出した。夕立だ。
小ぶりのうちはどちらも慌てた素振りをしなかったが、だんだんと強くなる雨に、私は雨宿りできる場所を探した。
その内に見つけた公園のトイレに、私は眞理を連れて行く。
しかしいざトイレに入ると、私たちの間に壁が出来た。眞理は女子の方に、私は男子の方に駆け込んだからだ。
さっきまで和気藹々とした雰囲気だった二人の間に、沈黙が訪れた。雨の音だけが耳に聞こえる。時間が過ぎていく。
どれくらい時間が経っただろうか、ふいに女子便所の方から、すっと手が伸びてきた。
その手は私の腕を掴み、女子便所に引きずり込む。そして眞理は言った。
「お話しよ?」
私は笑った。女子便所に入ってしまった気恥ずかしさもあった。眞理も私に合わせて笑った。


453 名前:起こさないで ◆8vvmZ1F6dQ 投稿日:2006/09/23(土) 21:43:31.18 ID:mNiTvuwD0
携帯のバイブレーションが震えている。だが私は無視を決め込んだ。
ごそごそと鞄を探る音がする。木田が勝手に携帯を取り出しているようだ。
「ほら先輩、奥さんの病院からですよ」
木田はそう言うが、私はまだ夢の続きに未練があった。またも無視した。
しばらく間を置いて、ふたたび木田は口を開いた。
「夢の続きを見る、っていい夢でも見たんですか」
「ああ、もう戻らない月日の夢をな」
呟くように言った私の言葉に、はぁ? と木田は尻上がりのイントネーションで返す。
「中学の時の夢さ」
「よっぽど大事な思い出の夢なんですか」
“大事な思い出”。私はああ、と妙に高ぶった気持ちで返事をする。
「分かるだろ、お前も。もう眠っている時の夢でしか、戻れない日々。その眩しさ」
だいぶ変なことを言っている。だがすべては慣れないアルコールのせいにした。
「まあ、思い当たる節はありますけど」
「だったらもう少し眠らせてくれ」
木田が言い終わらないうちに、私は私の言葉でそれを打ち消す。
木田に向けた背を丸め、母胎返りでもするような心持で目を閉じた。
もう私は眠ったまま、目覚めたくなかったのだ。夢の中で生きていきたいと思った。
まだ木田の手の中で、携帯は震えていた。木田が溜め息をつくと、ピッと音がして「もしもし」という声が聞こえた。
「ええ? もうすぐ産まれそう……?」
私に代わって電話に出た木田の声が、ふいに大きくなった。思わず私は飛び上がった。
木田から携帯をひったくり耳に当てると、声が聞こえてきた。妻の姉だ。最近よく妻の世話をしてくれていた。
私の酔いと眠気は一瞬にして覚め、妻の姉との会話を終わらせると木田も連れ立ってタクシーを拾った。急に気分が慌しくなった。
もうすぐこの世に、私の血を受け継いだ子供が産まれようとしている。胸が高鳴った。
思い出は鼓動の彼方に、ひっそりと隠れていった。


454 名前:起こさないで ◆8vvmZ1F6dQ 投稿日:2006/09/23(土) 21:44:06.16 ID:mNiTvuwD0
「おめでとうございます、先輩」
「ああ、ありがとう」
ガラスの向こう、保育器の中で寝息を立てる我が子を見ながら、私は木田に礼を言った。
病院についたころには、とうに我が子は生まれていた。誕生の瞬間に立ち会えはしなかったが、感動しないはずがなかった。
どんなに見ても飽きない我が子を、ずっと見つめている私に、木田は言った。
「奥さんに会いに行かれてはどうですか」
「……そうだな、そうしよう」
惜しむように赤ん坊に別れを告げ、私は妻のもとに向かった。
もう夜中だ、病室へと続く廊下は暗く奥が見えなかった。コツコツと私と木田の足音だけが響く。
その途中、私は思ったのだ。
あの思い出の日々は懐かしく大事だけれど、それ以上に輝く“今”と“未来”がある。
いつまでも眠ったまま過去を振り返っていては駄目なのだと。
眠るのは夜だけでいい。朝が来たら、起きて、現実を見つめていかなければ。
妻の病室を開けると同時に、私は彼女の名前を呼んだ。

──響子。

おわり



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