【 彼女が眠れぬその理由 】
◆KARRBU6hjo
346 名前:彼女が眠れぬその理由1/4 ◆KARRBU6hjo 投稿日:2006/09/23(土) 17:13:27.71 ID:Z3BG/hRW0
眠れない。
ば、ぢ。ばぢばぢ、ばぢ。
火花が散るような、或いは電灯が激しく点滅するような音が部屋の中で響いている。
激しく何かが動き回るような気配。しかし、周囲は真っ暗で何も見えない。
何かが居る。何かが居る何かが居る何かがいるなにかがいる。
いや、違う、それは本当はきっと居ない筈だ。これは幻聴。全部私の幻覚。
ここは私の部屋、きっちり整理整頓され、とてもとてもキレイな筈の私の部屋。だから、何も居ない。
私は電気を消して、これからやっと眠れる所なのだ。
私意外には何も居ない。居てはならない。だって、そうじゃないと怖くて眠れない。
ばぢ。ぢぢ、ばぢぢぢぢ。
なのに、音は響き続ける。ああ、本当にこの音は何なのだろう。ずっと聞いているとアタマがオカシクなりそうなこの音は。
煩い煩い、止めて止めて止めて。
もう如何しようもなくて、私は一度起き上がった。途端、ばぢ、という音と共に、何かが顔に。
え。
ぽとり、と、図ったように、そのナニカが掌に落ちてくる。
小石程の硬い感触。ソレには翅が生えていて脚が生えていて私の掌で蠢いて、再び飛び立とうと立ち上がる。
その感触で直ぐに分かる。それは、昔、慣れ親しんだ塵の化身。
嘘。嘘嘘嘘嘘。これは無い、これは絶対に在り得無い。
これこそが私の幻覚だ、そう、幻覚、だって、だってだって一体どうやってあんなモノが私の部屋に!?
ばぢ。ばぢばぢばぢばぢばぢばぢ。
今更気付く。そうだ、これはあの音だ。さっきの虫が何処かの壁にぶつかる音。
それも沢山、いっぱい、部屋中をぶんぶんといっぱいに飛び回りながら!
「うえ、あ、げほ、ごぼっ、うぇえええええええっ!」
私はその場で吐瀉した。何も詰め込んでいない胃の中からは酸っぱく苦い胃液だけがこみ上げてくる。
あ。嫌だ、汚い。片付けなきゃ。
まだ、眠れない。全然眠れない。眠れない眠れない眠れない。
――眠い。
348 名前:彼女が眠れぬその理由2/4 ◆KARRBU6hjo 投稿日:2006/09/23(土) 17:15:01.31 ID:Z3BG/hRW0
午前三時四十二分、近隣の住民から110番通報があった時、既に火の手はアパート全体を覆い尽くそうとしていた。
午前三時五十分、消防車が到着。早急に消火活動が行われたが、一足遅くアパートは全焼。
死人こそ出なかったものの、逃げ遅れた住人五人が重軽傷を負う惨事となった。
出火場所はアパートの一室、出火原因は不明。
その部屋の住人は行方不明となっており、警察は放火の可能性もあると見て調査を開始した。
しかし、翌日、午前九時三十七分。人気のない路地裏で若い女性の遺体が発見される。
遺体として発見されたのは、警察が前日の放火事件の容疑者として追跡中だった、藤森若葉その人だった。
検死解剖の結果、藤森容疑者は極度の睡眠不足に陥っており、それが原因で転倒。地面に強く頭を打ち付け即死したと判明した。
死亡推定時刻は前日の午前五時前後。アパートの部屋に火を放ったほんの二時間後に、彼女は既に死亡していたのである。
彼女が放火を行った動機は不明。警察は依然調査を続けている。
捜査結果の報告を終えて、一服するために古川が喫煙室の扉を開けると、中で一人の女性が煙草を吸って思いっきり咳き込んでいた。
「……何やってんだ、小森。」
「あ、あはは。古川さん。」
小森は古川に気付いて、恥ずかしそうに笑いながらぐしぐしと煙草を揉み消す。
「煙草は吸わないんじゃなかったのか?」
「えっと……他の皆さんは全員吸ってるので、試しにちょっと。」
あはは、と小森は照れ隠しに笑い続ける。
小森綾子は昨年この刑事課に入ってきたばかりの、古川から見ればまだ新米に当たる刑事だった。
そののほほんとした性格は一般の刑事像とは程遠いが、それでも有能な人間である事には間違いはない。
特に頭の回転の速さについては折り紙つきで、ベテランの古川でも時々舌を巻かされる程の実力の持ち主であった。
「そ、それより古川さん。どうだったんですか? 例の放火事件は。」
「ん? ああ、今解決して来た所だよ。」
古川は煙草に火を点ける。
「藤森若葉の動機が判明した。」
349 名前:彼女が眠れぬその理由3/4 ◆KARRBU6hjo 投稿日:2006/09/23(土) 17:15:53.59 ID:Z3BG/hRW0
「藤森若葉は極度の睡眠不足だった、という話は聞きました。でも、それが放火の原因に繋がるとは、どうしても思えないんですけど。」
「ま、そりゃそうだ。眠れなくて放火するなんて馬鹿はそうそう居ない。だが、睡眠不足と放火を繋ぐ何かはある筈だ。」
古川は煙草を燻らせながら、小森の方を見て薄く笑った。
「折角だから推理ゲームにしてみるか。当たったら、さっきの事は皆に話ないで置いてやる。」
「な、ひ、非道いですよ古川さん! 大体、情報が少な過ぎます!」
「ははは。冗談だよ。まぁ、推理してみな。藤森若葉は、一体どうして睡眠不足に陥ったのか。」
そう言われて、小森は腕組みをして考え込む。が、直ぐに両手を挙げ、降参のポーズをしてしまった。
「何だ、随分と早い降参だな、小森。」
「分からない物は幾ら考えても分かりませんよ。っていうか、ヒント全くなしじゃどう考えても無理です。」
むー、とむくれながら小森は古川を睨み付ける。しかし、それで古川が笑うのを見て、小森はわざとらしく溜息を吐いて見せた。
「もう、またからかって。結局、どうして彼女は眠れなかったんですか?」
「簡単だよ。眠りたくなかったんだ。」
「……眠りたくなかった?」
「そう。藤森若葉は眠るのが嫌だった。」
怪訝そうな顔をする小森に向かって、古川は一つの小さな薬瓶を放り投げた。
「わ、っと。」
「藤森若葉の部屋にあったヤツだ。今回の事件の真相は、それが全てだよ。」
小森は薬瓶をまじまじと見つめる。瓶は少し焦げていたが、そこに記されている単語はなんとか読み取る事が出来た。
「これは……消毒液?」
「ああ。藤森若葉の部屋の燃え跡には、焦げた瓶が散乱していた。そして、瓶は全て同じ、その瓶だったらしい。」
無数の消毒液の瓶。何かが引っかかる。だが、あと少しという所で出てこない。
そんな小森の様子を見て、古川は煙草の灰を落としてから、一枚のカルテを取り出した。
「問い合わせて見たところ、藤森若葉にはあるカウンセリングセンターに通院記録があった。だが、その症状は不眠症ではなかった。」
「……あ。」
「気付いたか。」
古川がにやりと笑う。
「そうか……潔癖症!」
350 名前:彼女が眠れぬその理由4/4 ◆KARRBU6hjo 投稿日:2006/09/23(土) 17:16:46.24 ID:Z3BG/hRW0
「そう。藤森若葉は潔癖症だった。それも、聞いた話によると、彼女のはかなり行き過ぎた代物だったらしい。」
古川は小森に、藤森若葉のその異常なまでの不潔妄想の一部を語る。それは、凡そ常人には理解できないような内容だった。
一日の半分以上を身体を洗って過ごし、野菜や肉などの食品は決して口に入れる事はない。
部屋の外に出ることはせず、暇さえあれば部屋のあちこちを消毒して回る。
しかし、それでも彼女の心は決して休まる事はなかった。潔癖症という病は、彼女の行動を雁字搦めに縛りつけていたのだ。
「そうなれば自ずと答えは見えてくる。食べ物もろくに食えずに点滴で済ませていた人間が、次に清潔を求めるとしたら、何だと思う?」
そう、それは。
「――『こんなキタナイ所で眠れるか』。」
「…………。」
「ま、そういう事だ。」
どんなに部屋を掃除しても安心して眠る事が出来なかった藤森若葉は、何時からか眠る事自体に恐怖し始めた。
――眠い。眠いけどまだ汚いから眠りたくない。眠れない眠れない。
不眠症に陥り、一睡も出来ぬようになってしまった彼女は、やがて睡眠不足で幻覚を見始める。
それがどんな幻覚だったかは最早知りようはないが、恐らくは不潔な幻覚だったのだろう。
そして、最終的に平常心を失くした彼女は、部屋に火を点けることによって、全てを『加熱消毒』しようとした――
「――こんなところだろうな。」
古川が煙草の煙を吐き出す。小森は、心成しか顔を伏せていた。
「……何だか、やりきれない話ですね。」
「はん、そうかね。人間っつうのは妥協しなきゃ生きていけない。藤森若葉にはそれが出来なかっただけだ。」
古川は手に持った煙草を振って小森に示し、
「お前がコイツに、少しでも慣れようとするようにな。」
そう言って古川は笑う。それを聞いた小森も、少しだけ顔を上げて苦笑した。
「皆には、言わないでくださいよ。」
終。