【 境界 】
◆KJhdB/chEI




192 名前:品評会出品作:「境界」1/3 ◆KJhdB/chEI 投稿日:2006/09/23(土) 09:38:49.93 ID:I1b0l5to0
 その男は無愛想だった。目付きが鋭く常に誰かを威嚇するようであり、同僚が話しかけ
ても、どこか不機嫌そうで、相手が反応を求めている時やっと相槌を打つ程度。返事も最
低限のものしか返さない。上司に対しての礼は心得ているようだが、それも最低限のこと
で、媚を売るような真似もしなかった。
 儀礼的に社交的な場に誘われたりもしたが、出たとしても誰かと打ち解けようともせず、
本当にただ出席するだけだ。
 言われなければ動かないが、仕事は早く、出来も悪くなかった。いつしか上司からは体
よく仕事を回されるようになったが、同僚からそれがやってくることはなかった。
 時に誰とでも友好的であろうとする者が近づいても、その反応はまるで変わらない。

 そんな彼に毎日のように話しかける女性がいる。彼女は少し前に他の部署から配置転換
されており、その早々に、女達から彼という人間に関しての忠告を受けていたのだが、そ
んなことはお構いなしといった風に彼に話しかけている。
 その内容は他愛もなく、朝の挨拶から始まり、どこにでもあるような世間話をしている。
ただ彼は、挨拶を返すこともまちまちで、彼女の独り言のようにも感じられた。
 彼女は同性には受けが悪そうな艶のある美人で、仕事の要領もよく、人の仕事を肩代わ
りしたり、その逆もよくしていた。
 彼女は、彼に話しかけるせいか、それとも政治的な力が働いているのか、女達からは若
干孤立しているように見えた。

 二人は奇異な目で見られはしたが、所詮は仕事場、回りの者達も取り立てて気にするこ
とはなかった。

 ある時、彼らが二人きりになる機会があった。彼は黙々と仕事をこなし、彼女もごく普
通に仕事をしている。彼女は仕事が一段落するといつものように話しかけた。
「私ね、不倫してたの」
 声のトーンは、いつもより抑制の効いた感じがし、話すこともいつもの当たり障りのな
い内容とは違った。
 彼は一瞬手を止める。が、またすぐに仕事に戻った。
 彼女は話を続ける。

193 名前:品評会出品作:「境界」2/3 投稿日:2006/09/23(土) 09:39:28.92 ID:I1b0l5to0
 彼女の言によれば、不倫の相手は前にいた部署の上司。いわゆる、妻のいる男と関係を
持った、というものだった。以前の上司は別れ話と共に配置転換を切り出し、彼女は抵抗
はしたものの、結局はそれを受け入れた。
 それらの話が終わると、無愛想な男は珍しく女の方を向き、
「どうして不倫なんかしたんです」
 と言った。この反応は彼女の期待していたものとは違った。彼女はこの話を聞き流して
欲しかった。彼女は一つの踏ん切りとして先の話をしたのであり、話すことでそれを過去
のものとしようとした。この無愛想な男なら口も堅そうだし、こんなありふれた話を聞い
ても、いつも通り軽く流してくれるだろう、と思っていた。事実、男女関係の話をしても、
彼が興味を示したことは今までなかった。
「何でそんなこと聞くの」
 彼女は思った通りのことを口にした。
「言えば答えてくれますか」
 彼はそう言う。何か特別な理由があるのだろうか、あるのなら聞いてみたい、そう彼女
は思った。下らない理由なら、適当にあしらってしまおうとも思った。
「ええ、いいわ」
 彼は話し始める。
 彼の家は母子家庭だった、それも父方に認知されていないケースだ。その原因は彼の父
にすでに妻がいたからである。彼には長年の疑問があった、なぜ母は妻のいる男と関係を
持つに至ったのか。そのときの気分を聞いてみたかった。しかし、その疑問を思いついた
頃には、それを直接母にぶつけるのを憚るぐらいには長じていた。彼の母はそんな話はし
なかったし、すでに亡くなっているのでついに聞きそびれてしまった。強姦という可能性
も考えはしたが、何となくそれはないということは分かっていた。
 そして奇遇にも目の前に不倫をした女性がいる。出来ればその心情を聞いておきたいと
思った訳である。

 暗い話のようでもあり、俗っぽい話であるようにも彼女には感じられた。何よりその答
えを求められている自分の立場を思うと、何ともいえない心持ちになる。
 彼はいたって真面目なようだ。彼女はここで話をはぐらかしたりは出来ないな、と思っ
たが、そんなことをする気は随分前になくなっていた。彼女は正直に答えた。

194 名前:品評会出品作:「境界」3/3 投稿日:2006/09/23(土) 09:40:11.37 ID:I1b0l5to0
「他に不倫してる人がどうなのかは知らないけど。私はやっぱり、好きだったから」
 その言葉を彼は目の覚めるような思いで聞いた。
「あなたのお母さんも、きっとそうだったんだと思う」
 彼も薄々そう思っていた。ただ本当にそんなことがあるのか、はっきりと信じることは
出来なかった。彼はもやもやとしたものが晴れていく気がした。
「答えてくれて、ありがとう」
 そう言いながら彼は泣いた。母が死んだときにも泣かなかったのに、彼はとても不思議
な気分だった。

 後日、彼は以前よりほんの少し社交的になり、彼女は不倫関係ではない恋人を見つけら
れたようだ。
 相手が誰だったかまでは、言わないことにする。

<終>



BACK−森の日記 ◆2glaAo60g2  |  INDEXへ  |  NEXT−侵略の手段 ◆dx10HbTEQg