【 バナナフィッシュは嘘をつく 】
◆AJf3q893pY




70 名前:バナナフィッシュは嘘をつく(1/4) ◆AJf3q893pY 投稿日:2006/09/23(土) 00:11:43.10 ID:B2sxmTLU0
馴染みのバーのドアを開くと、いつもと雰囲気が違っていた。
「お、今日は早いね。まだ開いたばかりだよ」
俺がいつもより早く来たからだろうか、いつも騒いでいる下世話な連中の姿もなく、店は閑散としていた。
カウンターには女が一人座っている。他に客は見えない。
「ふうん、客がいないと普通のバーになるんだな」
茶化しながらカウンター席に腰掛けると、微かに苦い顔をしたマスターがおしぼりを持ってきた。
「いつもうるさくてすまんね。早めに来たの、はじめてだろう」
「ああ、驚いた」
喧騒の中に埋もれるのが好きでいつもここに来ているのだが、こういう雰囲気もたまにはいい。
俺は、ダイキリを頼んだ。カクテルなんかめったに飲まないが、今日はこの珍しい雰囲気を楽しみたい気分だった。
シェイカーを振りながらマスターが話しかける。
「ダイキリと言えば――ああ、そうだ。ホールデン・コールフィールドだな」
「『ライ麦畑でつかまえて』か。確か作者は……」
「サリンジャーよ」
答えを捜していると、隣から声がした。
二つ隣に座っていた女は、こちらを向いてにっこり笑っている。目の前のカウンターには、ダイキリが置かれていた。
「詳しいね」
「好きなの。『ナイン・ストーリーズ』、『フラニーとゾーイ』……」
「前の方は聞いたことあるな」
「『バナナフィッシュにうってうけの日』って知ってる?」
「バナナを食べすぎて、バナナ熱にかかって死んでしまう魚の話だっけ」
「死ぬのは主人公よ」
女はクスクス笑いながらカクテルグラスをこちらに寄せてきた。

71 名前:バナナフィッシュは嘘をつく(2/4) ◆AJf3q893pY 投稿日:2006/09/23(土) 00:12:13.75 ID:B2sxmTLU0
彼女は、祥子と名乗った。セミロングの髪はまっすぐ下りていて、首を傾けるたびにひらひらと揺れる。
白い肌に薄紅の唇。表情が崩れるたびに、瞳に吸い込まれるようだった。
三杯目を頼む頃には、俺と祥子はすっかり打ち解けていた。
「失礼だけど、どうしてこんなところに来たの?」
祥子の雰囲気は、およそこんな安っぽい店には似合わない。どうしてもそこだけが不思議だった。
「フラれたの」
祥子はそうつぶやくと、小さなため息を一つついた。通りがかりの店でヤケ酒、ということか。
「こんな美人を振る奴がいるんだ。驚いた」
半分は本心から、もう半分はわざと、俺は彼女を慰める。
「上手ね」
祥子はクスクス笑うと、またグラスに口をつけた。
しばらくすると、少しずつ辺りが騒がしくなってきた。俺は祥子と申し合わせると、店を出ることにした。
先に店を出た俺は、冷たい缶コーヒーを買って、祥子に手渡す。
少し酔いを醒まそうと公園のベンチでしばらく風に当たっていたが、そのうち祥子は寝てしまった。どうやら、先ほどコーヒーの飲み口に塗った睡眠薬が効いたらしい。
僕は祥子を抱えて、一番近いラブホテルに入っていった。
真相を明かすと、俺は結婚詐欺師である。祥子と出会ったのは本当に偶然だったが、身に着けているものを見たら申し分ない餌だと分かった。
知的で、人に弱みを見せないタイプ、しかも男にフラれたばかり。これほどおいしいシチュエーションもそうざらにない。
朝、祥子が目を覚ますまで、俺はじっとソファーに座っていた。
「おはよう、僕の家は汚いものでね、悪いけどここが一番近かったんだ」
祥子ははっと起き上がると、身の回りを見渡した。そして服を着ていることを確認すると、気まずそうにこちらを見る。
「何も……してない?」
「残念ながら寝込みを襲う趣味はないものでね」
もちろん作戦である。
「ごめんなさい、私、酔ってたみたい……」
恥ずかしそうに額を押さえる祥子の仕草は、一瞬、仕事を忘れてしまうほど可愛らしかった。
祥子に入れたばかりのコーヒーを差し出しながら、俺は作戦が成功したことを確信した。
「いいんだ、そのかわり……」
食事の約束を取り付けた俺は、家に帰ると早速計画を組み始めた。

73 名前:バナナフィッシュは嘘をつく(3/4) ◆AJf3q893pY 投稿日:2006/09/23(土) 00:12:44.67 ID:B2sxmTLU0
次の日の夕方、待ち合わせの場所に十分ほど早く来てみると、すでに祥子の姿があった。
「早いね。驚いた」
「たまたま仕事が早く終わったの。それに……」
そういいかけて、祥子ははっと口をつぐんだ。どうやら、昨日のことはプラスになったようだ。
俺は祥子を車に乗せると、予約していた店に連れて行った。五十階建てのビルの屋上にあるそのレストランからは、港までの夜景が一望できる。
「すごい……ね、高いんでしょう?」
祥子は怪訝そうにこちらをじっと見ている。俺は、高いよ、とだけ答えた。
祥子の服装は、昨日よりもさらにしっかりしている。落ち着いた雰囲気は、おそらくこちらの意図を把握している証拠だろう。
頭も回るし、人を立てるのもうまい。僕は祥子という女に、少なからず惹かれていた。
「昨日は、本当にごめんなさい」
ワイングラスを傾けながら、祥子はため息混じりにつぶやいた。視線はずっと下を向いたまま。
こっちの方を少しでも見たら、俺も警戒するつもりだったが、少なくとも祥子には、こちらを疑うつもりはなさそうだった。
食事をしながら、しばらく話す。何気ない会話の中で少しずつ祥子の身の回りを聞いてみた。
二十三歳、貿易会社勤務、父親は官僚で、典型的なお嬢様。なるほど、人を疑うことを知らないわけだ。
取り留めのない会話をしながら、俺は慎重に祥子を観察した。目のやり場、手の動き、表情……。
そして、仕事に必要な期間と収入を分析する。
失敗のリスクは少ない、軽く一千万は見込める。何より、こちらに気がある女ほど扱いやすいものはない。
結論に満足した俺は、祥子を後日の食事に誘ってみた。
「あら、今日はもう帰るの?」
返ってきた返事は、予想外だった。


74 名前:バナナフィッシュは嘘をつく(4/4) ◆AJf3q893pY 投稿日:2006/09/23(土) 00:13:23.02 ID:B2sxmTLU0
昨日と同じ部屋、ただし、今日は祥子も起きている。
ここまで話が進むのが早いとは思わなかった。よっぽど前の男の記憶を消したいのか、それとも俺に相当気があるのか。何にせよ悪いことじゃない。
「あの、私……変かもしれない」
ベッドに腰掛けた祥子は、うつむきながらつぶやいた。
「昨日会ったばかりなのに、こんな……」
俺は顔を近づけ、祥子の唇をふさいだ。
「んっ……」
小さな声が聞こえる。ほんのりとワインの味がするキスは、久しぶりに俺の気分を昂揚させてくれた。
祥子の服を丁寧に脱がせていく。一枚脱ぐたびに白い肌が少しずつあらわになっていく。生まれたままの姿になった祥子は、今までに見たどの女よりも素晴らしかった。
「綺麗だ……」
思わずため息が出た。祥子は顔を赤らめていたが、お世辞ではなかった。
首筋から乳房にかけて、丁寧に舌を這わせる。ところどころで祥子の吐息が荒くなる。
「電気……消して………」
俺はスイッチに手を伸ばした。そして、暗くなった部屋で、十分に夜戯を楽しんだ。

――午前三時。
女は起き上がると、男の体を揺さぶってみた。男はまったく動かない。
乳房に塗った睡眠剤の効果を確認すると、女はいそいそと服を着だした。そして準備が終わると、男のバッグやスーツをまさぐり、手に取ったものを片っ端から自分のバッグに詰め込んだ。
女は一息つくと、寝ている男を一瞥した。
「睡眠薬はお互い様、悪く思わないでね」
そういって男の頬に軽く口づけると、さっさと部屋を出てしまった。
次の日、男が目を覚ますと、女がいない。辺りを見回すと、鏡台の鏡に薄紅色の口紅で、文字が書かれていた。
「バナナ熱にご用心 祥子」

少しだけ間をおいて、男の叫び声が聞こえた。

― 了 ―



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